昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

教師の驕り 人としての格

2021年09月05日 16時17分44秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和42年 ( 1967年 )
学一年の保健体育の時間は、
2クラスで1つ の男女別々に授業が行われた。
我々男子は授業が終わり、ホームの教室に帰って来た。
ところが、教室では未だ女子の授業が続いていたのである。
チャイムは トックニ 鳴っている。
教室に入れない吾々男子、
廊下で女子の授業が終わるのを待たねばならない。

  
我々が女子生徒の授業が終わるのを待った教室・廊下
当時は 左窓下には、下足箱があり、出入口のドア窓は透明ガラス だった         ↑ 見返し
2006 年撮影                                                                                          右階段、柱横がトイレ  
原型はちっとも変わっていない                                                                   奥が 美術室  
39年という歴史的時間も、つい昨日の様に思える

教室の前後に出入口の引戸がある。
引戸には透明ガラス窓があり、中が見える。
「 未だかいな?」 ・・と
前の入口の透明ガラス窓から、覗いた者がいた。

時間を越えた授業である。
そぞろ の
女子生徒の心は窓外に注がれ、
彼に視線が集中した。

そこで、つい
彼はふざけてみせた。

女子生徒か゛・・クスッ・・と反応する。

これに、教師が気づいた。
そして
教師は、烈火の如く怒鳴ったのである。

教育の機会を放棄して
当時の教師は、
強くって カッコ良かった。

この男子生徒を教室に入れ、
女子生徒40名の前に立たせたのである。
頭ひとつ ハッて (叩いて)
そして
男子生徒を、立たせたまま、授業を続けたのである。

そざかし、満足したことであろう。
しかし 満足して貰っては困る。
一部始終を観ていた男子は、私一人だけでは無い。
廊下の男子生徒も、謂わば 教え子の筈。
しかも、中学生とは謂え、 である。
女子の目前にさらされた男子の心を慮ることも無く
己が神聖なる授業を妨害した ・・・と、
その罰として、衆目にさらしたのである。

こともあらうに、さらし者 にしたのである。

其は、明かに私憤
私憤による暴力でしかない。
教師は権力者ではなからうに。
「 俺は教師だ 」
・・・との、
特権意識、差別意識から生じた驕り、
斯の
驕りが、
とんだ人格を露呈してしまった。

「 仰げば尊し、わが師の恩 」
吾々が懐く
先生とは 人格者を謂う。
だから、畏敬の念を持つ
・・と
私は そう想う

 

我々の世代が卒業して数年後、
全国的に中学が荒れた。



学園紛争がこの頃から大きな社会問題に
1967年11月12日、佐藤首相訪米反対阻止の半日共系全学連
毎日新聞社 1億人の昭和史 


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1 コメント

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花田 幸徳様 (千と千尋)
2006-06-02 17:29:12
花田 幸徳様
コメント有り難うございました。
昭和10年生まれの自分にとって懐かしい写真の数々、心情、など読ませて頂きました。
現代にも貴方のような貴重な方がおられること、嬉しく思います。
小学校の低学年の時、朝礼で唱った「海ゆかば」が今でも脳裏から離れることはありません。それほどに自国を愛し、現代の自国を目のあたりにしたとき、言葉を失います。
当地は艦砲射撃を2度体験をし校舎がない青空教室で勉強したことも遠い昔になったようです。度々お邪魔致します。
満足の出来る設計が出来皆に喜ばれますように‥    有り難うございました。

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