昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

故郷に錦を飾る それまでは

2017年07月18日 05時48分18秒 | 2 男前少年 1963年~


どこかに故郷の香りをのせて

入る列車のなつかしさ
上野はおいらの心の駅だ
くじけちゃならない人生が
あの日ここから始った

昭和39年 (1964年) 
井沢八郎が唄った
「 ああ上野駅 」


集団就職
「 金の卵 」 と呼ばれた。
働く事は希望であった。
高度成長期

誰も斯も
将来に夢と希望を抱いて、
都会に出たのである。



親父 貢叔父  昭和27年頃

故郷に錦を飾る
吾父も一旗揚げるべく、一家を引連れ
昭和38年 ( 19633年 ) 大阪に出たのである。

皆 ( 幼馴染 ) の 在る故郷に帰りたい
其は、故郷を離れた少年の切ない願いであった。
にもかかわらず
大阪に出た年の夏休み、
貢叔父に連れられ帰郷したものの
これっきり・・此が最初で最後
少年の切ない願いは叶うことはなかった。

昭和40年 ( 1965年 ) 小学5年生 ( 11才 ) の盆前
従兄弟 ( 母の姉の息子、12才年長 ) が、我家にやって来て
自分等は盆に帰郷するから、一緒に帰ろうと言う。
連れて帰ってやるから・・と
家で内職をしていた母は仕事を仕持って、そうして貰ったら良いと言って呉れた。
「 明日、迎えに来るから 」

願ったり叶ったり
どれ程嬉しかったことか

さっそく、身支度をせねばと、新品の服も用意して帰る準備もできた。
私は、やっと願いが叶う。 ・・・と、そう想った。
ところが、その晩
仕事から帰って来た親父にその旨を伝えると
「 帰られん 」 ・・・と言う。

従兄弟が連れに来たが
親父は 「 帰れん 」 ・・・と、只それだけであった。
私の帰郷したいという願い
幼馴染と逢いたいという願いは
叶わなかった。
今度も亦、涙を呑んだのである。
そして、
呑んだ涙の分、望郷の念が深まった。

親父の想い
盆に成ると 「 帰ろう 」 と、皆が誘いに来る。
然し
親父は 「 帰らん 」 ・・・と、いつもそれだけ
「 子供だけでも 」 と、言っても、「 うん 」 とは謂わない。
( 帰郷の ) 費用は持つから、連れて帰らせて呉れ
・・・と、言って呉れているのに
それでも親父は 「 うん 」 とは謂わなかった。
それどころか
親父はそう謂われる事が気に入らなかったのだ。
馬鹿にするな  ・・・と
帰る時は
「 錦を飾る 」
それまでは帰るまいと
親父は精一杯
己が意地を張っていたのである。

ふるさとは遠きにありて
ふるさとは遠きにありて 想ふもの
そして悲しくうたうもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
かえるところにあるまじや
ひとり 都のゆうぐれに
ふるさと想ひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや
 ・・・室井犀星

此れ、親父の其の時の想いなのであらう。


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2 コメント

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就職列車 (WTCL)
2016-03-14 22:11:49
懐かしいですね。

クラスの半分以上が、大阪、名古屋、東京に就職しました。
まだ、蒸気機関車で、新幹線もなく、夜行列車で出発でした。

涙で、見送ったのを、思い出します。

クラスメート同士が、東京のボーリング場で偶然再会し、
そのまま、結婚した人がいます。

ああ、上野駅の歌を、聞くと、その頃の想い出が蘇って来ます。
カラオケの席では、必ず歌ったものです。
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WTCL 様へ (唯我独尊)
2016-03-15 06:53:24
つい きのうの様な、遥か遠き日の
愛おしい想い出です
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