♪
どこかに故郷の香りをのせて
入る列車のなつかしさ
上野はおいらの心の駅だ
くじけちゃならない人生が
あの日ここから始った
昭和39年 (1964年)
井沢八郎が唄った
「 ああ上野駅 」
集団就職
「 金の卵 」 と呼ばれた。
働く事は希望であった。
高度成長期
誰も斯も
将来に夢と希望を抱いて、
都会に出たのである。
親父 貢叔父 昭和27年頃
故郷に錦を飾る
吾父も一旗揚げるべく、一家を引連れ
昭和38年 ( 19633年 ) 大阪に出たのである。
皆 ( 幼馴染 ) の 在る故郷に帰りたい
其は、故郷を離れた少年の切ない願いであった。
にもかかわらず
大阪に出た年の夏休み、
貢叔父に連れられ帰郷したものの
これっきり・・此が最初で最後
少年の切ない願いは叶うことはなかった。
・
昭和40年 ( 1965年 ) 小学5年生 ( 11才 ) の盆前
従兄弟 ( 母の姉の息子、12才年長 ) が、我家にやって来て
自分等は盆に帰郷するから、一緒に帰ろうと言う。
連れて帰ってやるから・・と
家で内職をしていた母は仕事を仕持って、そうして貰ったら良いと言って呉れた。
「 明日、迎えに来るから 」
願ったり叶ったり
どれ程嬉しかったことか
さっそく、身支度をせねばと、新品の服も用意して帰る準備もできた。
私は、やっと願いが叶う。 ・・・と、そう想った。
ところが、その晩
仕事から帰って来た親父にその旨を伝えると
「 帰られん 」 ・・・と言う。
従兄弟が連れに来たが
親父は 「 帰れん 」 ・・・と、只それだけであった。
私の帰郷したいという願い、
幼馴染と逢いたいという願いは叶わなかった。
今度も亦、涙を呑んだのである。
そして、
呑んだ涙の分、望郷の念が深まった。
親父の想い
盆に成ると 「 帰ろう 」 と、皆が誘いに来る。
然し
親父は 「 帰らん 」 ・・・と、いつもそれだけ
「 子供だけでも 」 と、言っても、「 うん 」 とは謂わない。
( 帰郷の ) 費用は持つから、連れて帰らせて呉れ
・・・と、言って呉れているのに
それでも親父は 「 うん 」 とは謂わなかった。
それどころか
親父はそう謂われる事が気に入らなかったのだ。
馬鹿にするな ・・・と
帰る時は
「 錦を飾る 」
それまでは帰るまいと
親父は精一杯
己が意地を張っていたのである。
ふるさとは遠きにありて
ふるさとは遠きにありて 想ふもの
そして悲しくうたうもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
かえるところにあるまじや
ひとり 都のゆうぐれに
ふるさと想ひ 涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこに かへらばや
遠きみやこに かへらばや
・・・室井犀星
此れ、親父の其の時の想いなのであらう。
クラスの半分以上が、大阪、名古屋、東京に就職しました。
まだ、蒸気機関車で、新幹線もなく、夜行列車で出発でした。
涙で、見送ったのを、思い出します。
クラスメート同士が、東京のボーリング場で偶然再会し、
そのまま、結婚した人がいます。
ああ、上野駅の歌を、聞くと、その頃の想い出が蘇って来ます。
カラオケの席では、必ず歌ったものです。
愛おしい想い出です