昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

2021年09月12日 19時17分51秒 | 3 青い鳥 1967年~


友ガキ・舟木、
よくぞ 頑張った。
斯くも必死なる形相、・・・拍手を贈る。
而も、裸足。 而も、完走。
『 まけてなるものか  くじけちゃならぬ 』
彼のそんな姿、
私は、それまでとうてい知るものではない。
卒業アルバム中の 斯の画像を見るまで知らなかったのである。
おそらく、彼の17年の生涯に於て、最も命を燃やした瞬間 ( とき ) であろう。
・・・リンク→17才のこの胸に
昭和44年 ( 1969年) 10月12日 ( 日 )
わが 淀川中学校の体育祭が行われた。
吾ら 中学三年生、
競技は7クラス対抗戦。
而して、
クラス一丸となり 吾クラスは優勝した。
私はというと、なんの活躍なく 無色な存在であった。
( ちなみに 徒競走は二位 )
 
3年生入場                               全校生徒 ラジオ体操・・・リンク→ラジオ体操 第二

♪僕らフォークダンスの手をとれば  甘くにおうよ黒髪が ♪
 
吾ら 3年生、男子が組立体操、女子は創作ダンス
このこと、昭和41年 ( 1966年 ) 、
小学校6年生時の運動会と、ちっともかわっちゃあいない。
  ・・・ 白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」
男女の差別無きも、ちゃんと 区別なされていたのである。
 『 男は男らしく  女は女らしく 』 ・・そんな、時代だったのである。
ところで、小学校時の運動会では決まって万国旗があった。
そして、開会時に国旗 『 日の丸 』 が掲揚された。
旗が昇り以て、 国家 『 君が代 』 が、拡声器・スピーカーから流れた。
吾々はそれを 『 きおつけ 』 の姿勢で聞いていた。見ていたのである。
それが運動会での一連の行事であった。
ところが、中学ではそんな一連の記憶はない。 

 
校長から、優勝の賞状を授与される
吾クラス代表の tei と 野田さん

戦い住んで日が暮れて
優勝の余韻を懐に抱えて帰宅すると、・・・・
「 おばあちゃんが、もう・・・ながくないらしい 」
・・・と、母。
長柄浜に住む伯母 ( 母の姉 ) と共に明日の夜行で帰ると言う。

昭和38年 ( 1963年 ) 4月、
吾々家族は海峡を越えた。
「 嗚呼、行ってしもうた 」
・・・と、祖母 ( 母方)
窓から海峡を見つめては、そう 呟いていたという。
・・・リンク→故郷は遠きにありて想うもの

・・・その、祖母である。

運動会の翌日の13日 夜行に乗り、
翌14日 暁払い 母の故郷である 向 に着いた。
想えば、6年振りの故郷である。
 
昭和44年 ( 1969年 ) 10月15日    三歳上の従姉 ( ・・・リンク→海峡を越えて  )

ところが、祖母は元気だった。
体は動かずとも、意識はハッキリ していて、会話もしっかりしていた。
然しそれは、
『 灯滅せんとして光を増す 』
・・・の、状態だったのだ。  (
・・と、想っている )
我々は17日 大阪へ戻った。
ところがやはり
戻って息継ぐひまもなく、母はUターンしたのである。

18日、学校からの帰り路
淀川小学校前まで来たところで、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、背中越しに声がする。
○○○ の、声である。
振向くと、
○○○ と カーディガンの姿があった。

中学生最後の運動会の想い出は、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、○○○が私に問うた、
祖母の見舞に帰郷した想い出とが 一に合わさる。
・・・のである

そして、もうひとつ

私の中学三年生時の通知表に、
「 欠席日数・・事故・・4日 」
とあるは、
斯の帰郷した4日間
のことなのである。


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