昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

拾った金を寄付した・・けれど

2021年06月24日 05時28分58秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和38年(1963年)の事である。
家の前にある工場の塀 ( コンクリート製の万年塀 ) にボール(軟球)を投げて、一人キャッチボールをしていた。
「 アッ ! 」
はずみでボールが塀の中に入ってしまった。
( 小学校 ) 三年生の私では、2mの塀を乗り越える事は出来ない。
グルッと周って 工場の正門からボールを捜しに・・・
ボールは直ぐに見つかった。
そして、その帰り路、
「 アッ こんなところに・・」
草むらに落ちている女物の財布 ( がまぐち ) を見つけたのである。
財布の中には、百円札3枚と一円玉が数枚入っていた。


お金を拾ったのである。
5円でアイスキャンデーが買えたこの頃、300円は大金であった。
広島から引っ越してきたばかりもあって、警察の在る場所を知らない。
親父と一緒に交番へ行った。
毛馬橋の東詰め、道路の交差点北隅に交番があった。
( 道路巾拡張の際、無くなったが、交番の背後に在った桜の木は、残っていて今でも毎年、花を咲かせている )
交番には警察官が二人居た。
親父は得意になって云った。
「 一円でもお金は、拾ったら警察に届ける様、教育している 」
「 三百円は大金である 」
「 一年経って持ち主が現れなかったら、この三百円は、恵まれない人に、寄付をする 
私は親父の側で聞いていた。
「 寄付をするのか 」


写真 下 当時の毛馬町1丁目  
写真のこちら側に交番が在あった

一年が経った、昭和39年(1964年)
(小学校)4年生の私は、赤川一丁目から市電(路面電車)に乗って、都島本通に向かった。
都島本通に在る、都島警察署に行く為である。
都島本通は、市電の高架線が張り巡らされていて、私にはずいぶん都会に見えた。
その先は、さらに大都会の大阪駅かなァ、・・と、そう想った。

市電を降りて3分、都島警察署に着く。
受付で、「 寄付をするの 
それなら、「あっちで・・」 と言われ、あっちへ
途中、刑事に調書を取られていた、24、5歳の若い女性を見た。
そして、その女性と 偶々 目が合ったのである。
女性は 「 クスッ と笑った 」
「ニャッ」 と 笑ったのかも知れない、「ニコッ」 と微笑んだのかも知れない。
が、しかし・・
私は 「クスッ」 と 笑らわれた様な気がしたのである。

私は
「 拾った三百円と数円 」
恵まれない人に ・・・と、寄付をした。
・・・

帰り
都島本通から市電に乗り、窓を背に腰を掛けた。
座ると
右親指の処に穴のあいた私のクツ
余計に気になった
・・・・・・・・・

昭和39年 ( 1964年 )
東京オリンピックの想い出
 
東京オリンピックの体操競技
初めて知って 「 スゴイ 」 と、
感動した。

「 円谷(ツブラヤ)頑張れ!」
日本中が絶叫した。
私も、母と共に
リアルタイムでこの瞬間を視ていた。
 


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