昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

受験番号一番の男 と 人生航路

2022年08月25日 16時55分01秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 受験番号 ・ 一番を取ろう 」
受験番号は入試願書の提出順で決まる。  所謂 「 早いもん順 」
高校入試の願書受付が開始されるや否や提出に駈った。
ところが、折角の吾望おもい外れ 受験番号は なんと 二番 であった。
「 一番は誰哉?」

都島工業高校
『 天下の都工 』 ・・そう 呼ばれていた 伝統校である
明治40年 ( 1907 年 ) 5月、
市立大阪工業学校として大阪市北区北野牛丸町 ( 現在の大阪駅北側付近 ) に創立
大正14年 ( 1925 年 ) 12月に 現在の都島区善源寺町に移転
写真は、北区から都島区へ皆が歩いで机椅子を持ち運んだと謂う、伝説の移転の光景と推われる


昭和50年1月15日 撮影の本館                        昭和47年の鳥観
昭和45年 ( 1970 年 ) 3月16
淀川中学校では受験生を集めて、
学年主任の大沢先生が各々に激励して廻った
「心配するな、大丈夫・・」 と
私の番が来た
「お前はなァ、・・・」 と、それだけ 
リンク→進路相談
明けて 3月17日、
大阪市立都島工業高校 入学試験の日である。
私は建築科を受験する。 緊張に包まれ吾身が重い。
私は家を出ると、先づ 淀川神社で参拝、 茲に心身を清めん、褌 ふんどし を締め直した私、
「 いざ 行かん
と、これから戦の始まる戦場へと向ったのである。

国土地理院・・昭和49 年 ( 1974 年 ) 当時の航空写真
徒歩で15分、
学校に着くと、校庭の 「 建築科 」 と 定められた位置に就いて受験番号順に並んだ。
受験番号一番の男
「 一番は誰哉?」
興味津々の私の前に立つは 小柄の坊主頭の男・平野匡勇だった。
一番と二番の出逢い
此が縁 えにし茲に、彼との友情が始まる。
『 共に生きるを、友と謂う 』 ・・
こうして彼とは鎖縁、以後なにくれと行動を共にすることになるのである。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです

再会
校庭に並んで居た時、中学校の森洋一先生が顔を覗かせた。
吾々淀川中学校から受験する者の 出欠を確認する為、見廻っていたのである。
私の顔を確認しただけで
帰って行った。 森先生・・・リンク→not only but also
ところが、森先生と入り替わりのタイミングで、中学一年時の担任だった丸山 博先生と顔を合したのである。
一学年終了の昭和43年3月末、異動により淡路中学に転校したのでそれ以来の再会である。
担任の時、私に期待をかけて呉れていた先生であった。 ・・・リンク→先生の親心
此も 巡り合わせと謂うのであろう。
「 建築科を受験します 」
私は、頑張った甲斐あって この位置 ( 建築科 ) に 今こうして居ることを褒めて貰いたかった。
方や 先生は この時、どう想ったのであろうか。
因みに、淡路中学からの受験生・森本とは高校一年生で同じクラスとなった。
これも何かの縁というものなのであろう。
出逢い
試験会場である本館中央二階・東の建築科の教室に入った。
廊下側から一番奥の列、窓際の席に前から順次坐って行った。
一番前が 受験番号一番の平野、次が二番の私、私の後ろは三番・西田・・・
窓の外には、昭和天皇臨幸記念碑に雪がチラついていた。この日に限って寒かったのだ。
「 こいつ、口の周りにカビ・・生えてる 」
直ぐ右の二列目・私の真横に坐った安藤の無精ひげ。( 彼は年齢の割には、髯が特に濃かったのだ )
試験時間の合間に、隣の教室から中学同窓の顔を覗きに来た大土の黒縁のメガネ。
・・・斯の時 殊更、私の目を惹いた。
( 呉津との出逢いについては、改めて別に記しるすことにする )

昭和47年 ( 1972 年 ) 万博記念公園 太陽の塔 前にて    平野
人生航路
中学二年生の二学期から精魂込めて勉強を始めた私、
「 基礎から勉強する、数学の問題は、よく読んで、解けるまで、一つ ひとつ 解いて行く。
英語は、頭で覚えず、自然に手が動くようになるまで書いて覚える 」
これが、できるようになると、成績は上がった。
嬉しくなって、一段努力すると、これまでが低かったので当然のことだが、
成績は上がる は 上がる それはもう、100人以上の ごぼう抜き、遂に、トップに昇りつめた。
・・・とまで 行きたかったが、なにせ時間切れ。
「 勉強始めるのが遅かった、もう一年早く勉強していたらよかった 」 は、後から想うこと。
それでも、勉強することが楽しい、この勢いで以て勉強を続け、
意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意したのである。
・・・リンク→がり勉

「 皆の学力をみ観させて貰うぞ 」
入学早々数学のテストが行われた。
問題用紙を配り以て 数学担任の大家おおや先生、
問題の内容は数Ⅰ、中学三年のレベルのものである・・と。
中三の学年末試験の 内容とレベル と謂えば、
採点されたテストを返却し終わって時の数学担任の沢野先生、
「 クラスの平均点が低すぎるぞ、そんなに難しい問題だったとはおもわないが 」
と、如何にも不満の面持ちでクラスの皆を前にして告げたのである。
クラスの平均点が30点以下だと云うのだ。
「 でも、難しかった 」 と、皆は云う。
その時私は81点、学年トップの秀才が92点 (? ・・だったと思う )
「 こんな難しいテストに90点以上とるんか 」
と、学年トップの実力を、学力の差を、見せつけられたのであった。
( ちなみに、学年トップの服部、彼は大手前高校へ入学した )
しかしそれでも尚、意気軒昂、『 高校では一番になろう 』 と、そう決意していた私。
果して、テストのレベルは大家先生の云った通り、中学の学年末程度であった。

採点されたテストが返却されると、83点 「 まあ、こんなもんか 」 と、満足したのである。
ところが然し、クラスの平均点は86点、しかも満点の100点が8人もいると云う。
「 エーッ、俺の83点は平均点にも届かんのか 」
クラスの皆の学力の高さに脱帽、もう・・意気消沈。
『 高校で一番になる 』 との、私の決意は 逸早くも 高校入学早々に沈没したのである。
その時の満点8人衆の一人に平野が存た。
 
昭和46年 ( 1971年 ) 一年生の三学期早々
吾々の専らの関心事は、エチケットライオンのテレビCМにから "スター誕生" した小林麻美。

リンク→スター 誕生
そんな中
クラスの数名が退校すると云う。
「 ナニーッ、やめるー
「 なんでや 、お前 建築士に成りたかったんちがうんか 」
「 なりたいワイ、けど 大学へ行って学んでからでも遅くはないやろ 」
「 ほな、なんで都工へ来たんや 」
「 中三の時は そこまで考えんかったし、成績で振分けられただけや 」
「 大学受験しても、建築学部に合格するのは難しいぞ 」
「 建築、スベッたら どうするんや 」
「 その時は建築諦める 」
「それで、お前、ほんとうにええんか 」
「 おー 」
高度成長期の日本、建築学部は人気で相当の難関である。
そして、一級建築士は世のトレンドだった。
それでもやっぱり、大学で学びたいと云う。何も18歳で働くこともあるまいと云うのだ。
担任・木全 先生は必至に慰留に努めた。
「 君らの考えも解る、中学卒業時の君らの成績が良かったから、そういうふうに考えるのであろうが、
しかし 普通科高校への転校は不可能だし、
といって、この春の受験といっても、工業高校で一年学んだ事が反って ( 高校 ) 受験にはマイナスになる。
現役受験なら合格したであろう普通科高校も今となっては受験するリスクは高いのだ。
一浪して 来年受験為直すには更にリスクが高くなろうし、落ちればそれこそ 元も子もなく成る。
担任としては、素直に "よし頑張れ" とは言い難い 」 ・・と。
人生色々、誰も自分の思うが儘に生きたいものである。
この問題、クラスの皆で以て 真面目に考えた。
大学へ進みたいと真剣に想っているものが吾クラス40人中10人程存在することも分った。
その中には、『 仲間達 』 の 平野、呉津 も、存したことを知った。
西村、大土、寺内、梶、彼等もそんなことを考えていた様である。
みんな 夫々、いろんな想いを持って生きていることを 私は知ったのである。
そして私は、
「 設計士に成る 」 と謂う、10歳の決意
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」 と、中三の表明
一途に 一直線 
初期の目的を貫徹しよう
改めて、そう決意した。
それで十分である・・と、そう想ったのである。

和室の透視図
宿題として着色したものである
教師より指摘された部分が、私のオリジナリティ
16歳の個性 なのであらう
「これが、2万円か・・」 と、眼がくらんだ私
とにかく、こういうものを画くのが、好きな私であった
そして
こういうものを画いている自分が、誇らしくもあった
・・・面白い 面々


  平野君           呉津君
1972年5月・修学旅行で
結局、吾クラスから二名去って行った。
その中うちの 一人は この昭和46年春に合格し、もう一人は 一浪して翌年の昭和47年春、
それぞれ希望する普通科高校へ入学したと、担任より知らされた。
吾々は彼等の希望が叶ったことに安堵の想いであった。
平野と呉津は共に在学することになり、
在学して建築の専門科目も学びながら大学受験の勉強もするという、『 二刀流 』 の路を選んだ。
彼等のこの器用、学力がある故に為せる業であろう、私にはとうてい真似は出来ない。
高校入学時に担任・木全先生が吾々に云った、
「 君らは高校生だ、中学生ではない。君らはもう大人なのだ 」
この言葉に私は感動した。クラスの皆も同じ想いだったであろう。
高校生とは、16歳とは、斯くの如きものかな・・・と、そう シミジミ 考えさせられた。
そんな出来事であった。


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