昭和43年 ( 1968年 )、
中学一年生三学期のこと。
ホームルームの時間。
教壇に立った
担任の丸山博先生、
いきなり
「 今度のテスト、花田が このクラスの男子の中で成績が一番良かった 」
学期毎に行われる実力テストの結果を、そう告げたのである。
クラスの皆からドヨメキに近い声が上がった。
これまで パッとしなかった私に、光が当たった瞬間である。
・
これを契機にクラスの皆の私に対する視線が変った。
殊にクラスの才女・善峰さんが、時々 声をかけて呉れるようになったのである。
成績が上がると謂うことは、そういうことなのである。
↑善峰さん
昭和43年 ( 1968年 )、
中学二年生の二学期のこと。
中間テストが終って、次はその成績発表、
試験の成果が問われる時である。
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社会科の時間。
採点したテストの束を抱えて横山先生が教室に入って来た。
突端に教卓の前に立ち、何を想ったか先生、
「 今回のテストで90点以上取った者は、誰と誰々・・・ 」
と、今回に限って 名前を挙げたのである。
その中に、私の名前もあった。
引き続いて、一人一人名前を呼びながらテストを還してゆく。
私も名前を呼ばれて、テストを受取った。
・
テストは、得意な日本史と比べると、苦手な世界史であった。
どうも私は視野が狭いようで、世界に目を向ける余裕がなかったのである。
苦手だからと、言い訳にもならないが、
難解で、解答欄に何も記入できず、白紙として提出した部分があった。
だから、テストが終わった時点で、高得点は望めまいと、早々はやばやと 諦めていたのである。
そんなこともあって、
「 おかしいな、そんな筈はないやろ 」
・・と、首を傾かしげつつ 席に向かったのである。
その時、90点以上の一人である才女・善峰さんと 偶々目が合った。
一年生の時同じクラスだった彼女、二年生も同じクラスだったのである。
彼女は微笑んで応えてくれた。
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席について、確めてみると、一目ひとめで謎が解けた。
白紙の解答欄のその部分。
その部分に限って、〇 とも × とも、なんにも 記しるされていないのだ。
而も、採点の仕方を、〇点の加点方式にせず、
『 ( 100点満点 ) - ( ×点の合計 ) = 94点 』 ・・×点の減点方式としていたのである。
白紙解答は当然 ×点となる。 それが勘定されていなかったのだ。
私は、直ちに席を発たち、教壇の先生に、その旨を報告した。
すると先生、
「 もう、94点 と 発表してしまった。
だから君が、本当は86点でした と 言って、皆にあやまりなさい 」
と、とんでもない発言。
「 エッ、俺が云うんかい ? 」
・・・そう、心で呟いた。
昭和44年 ( 1969年 )、
中学三年生の二学期のこと。
中間テストが終わった翌日の英語の時間。
森洋一先生、
採点したテストの束を抱えて教室に入って来た。
英語のテストは昨日終ったばかりである。
「 もう、採点してくれたんか 」
・・・そう想った。 クラスの皆も同じ想いであった。
「 君らが、必死にやったんやから 」
生徒が必死に頑張ったのに、それに応えてやらねば如何する。
そう、云うのである。
・
還ってきたテストを受取ると席に着いた。
そして、ひととおり確認した。
すると、一問だけではあるけれど、
明らかに間違っているのに 〇 とされている部分を見つけたのである。
先生にその旨を告げると、
森洋一先生、
「 そりゃ すまなかった。わるかったな。 よく知らせて呉れたな 」
緊張した面持ちで、自分の採点ミスを詫びた。
そして、私の正直と その勇気を誉めてくれたのである。
「 かわいそうなことをした 」
そう、言い以て、
マイナス3点、 80点から77点に書き変えたのである。
昭和42年~44年は、もう・・50年以上も昔のことである。
当時、「 青春とは何だ 」 「 これが青春だ 」 「 でっかい青春 」 等の青春ドラマが、
テレビで放映され、高視聴率をあげた。 当然乍ら私も視ていた。
そこに描かれる教師像は、どれも生徒にとって 『 兄貴 』 だった。
NHKの 「 中学生群像 」 や、「 中学生日記 」 に於ても、それは同じであった。
それが時代の潮流だったのである。
当時の私は、テレビの中の そんな教師像に頗る不満であった。
坂上二郎の学校の先生
私の好きな学校の先生が茲に謳われている。
一年の担任・丸山先生の発言、
発表したことを励みとして、更に一段、頑張る様にとの想いを込めたもの。
二年の横山先生のとんでもない発言も、本を正せば 同じ想いから出たもの。
三年の森先生の発言も亦然りである。
是、みな親心
・・と、
私は、そう想っている。