昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

私が観た映画・動乱 「 私は、幸せでした 」

2022年08月17日 19時19分59秒 | 8 大和撫子

「 二・二六事件て、何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

二・二六事件とは何か、
そんな説明なぞ、私にできるものか。
私の関心はそんなことではなかった、そんなところにはなかったのである。
どういう人達が起ち上がったのか、亦その精神は いったいどんなものであったのか・・・
専ら そこに、関心があったのである。

『 動乱 』
テレビで大々的に宣伝され、
毎日 テレビからセンセーショナルなシーンが放映される。
男が男であった
女が女であった
・・・そんな時代に於ける物語に、
興味を掻き立てられたのである。

昭和 55年 ( 1980年 ) 1月、封切直ちに
親友・長野と二人、梅田の東映会館で観賞した。
 東映会館 1979年頃
御堂筋と国道一号線の交叉点、写真右手に駅前第三ビルと続く。
映画館を出た二人。
「 どうやった?」
親友・長野が訊く。
「もうひとつやったな 」

男とは、大丈夫ますらおのこと、女とは、大和撫子 のこと。
高倉健の大丈夫。吉永小百合の大和撫子。
国を憂いて蹶起する男の至誠、そんな男に盡す女のまこと。
悲劇に終る 『 二・二六 』 、以て 男女の愛というものを如何に表現してくれるものか・・・と。
私は、独りよがりの期待をしたのである。
しかし、期待どおりに非ず。
私の心に響かなかった、心に沁みるものではなかったのである。
親友・長野も 同じ想いであったようだ。そんな顔をしていた。
『 二・二六 』 にさほど関心を持たぬ親友・長野は、
私が夢中になる程の 『二・二六 』 とは どんなものかを知りたかったのである。
しかし彼のそんな期待も肩透かし。もの足りなかったようである。
・・・・と、
昭和55年 ( 1980年 ) 1月、
映画を観終った時の感想である。

読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、
斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う ・・・リンク→
ひとの心懐にあるもの 

映画を観るということも亦然りである
斯の映画を通して
私が観たもの ・・は。

「 私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。
しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、
軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。
ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。
そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。
 
チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!」
・・・リンク→ 中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」 
・義憤


「 姉は・・・・」
ポツリポツリ家庭の事情について物語っていた彼は、ここではたと口をつぐんだ。
そしてチラッと自分の顔を見上げたが、ただちに伏せてしまった。
見上げたとき彼の眼には一パイ涙がたまっていた。
固く膝の上に握られた両こぶしの上には、二つ三つの涙が光っている。
もうよい、これ以上聞く必要はない。
暗然、拱手歎息、初年兵身上調査にくりかえされる情景。
世俗と断った台上五年の武窓生活、
この純情そのものの青年に、実社会の荒波はあまりに深刻だった。
はぐくまれた国体観と社会の実相との大矛盾、疑惑、煩悶、
初年兵教育にたずさわる青年将校の胸には、こうした煩悶が絶えずくりかえされていく。
しかもこの矛盾はいよいよ深刻化していく。
こうして彼らの腸は九回し、目は義憤の涙に光るのだ。
共に国家の現状に泣いた可憐な兵はいま、北満第一線に重任にいそしんでいることであろう。
雨降る夜半、ただ彼らの幸を祈る。 食うや食わずの家族を後に、
国防の第一線に命を致すつわもの、その心中はいかばかりか。
この心情に泣く人幾人かある。 この人々に注ぐ涙があったならば、
国家の現状をこのままにしてはおけないはずだ。
ことに為政の重職に立つ人は。
国防の第一線、日夜、生死の境にありながら、戦友の金を盗って故郷の母に送った兵がある。
これを発見した上官はただ彼を抱いて声をあげて泣いたという。
神は人をやすくするを本誓とす。
天下の万民はみな神物なり。
赤子万民を苦しむる輩はこれ神の敵なり、許すべからず。
・・・リンク→ 後顧の憂い 「 姉は・・・」
・・後顧の憂い


相澤中佐事件
半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 であり、
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 決意だったのだろう。
この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相沢中佐の祈念であり祈願だったのだろう。
・・・リンク→ 本朝のこと寸毫も罪悪なし
・・・男の至誠



わたくしどもの結婚は、
最初西田の親の反対で入籍出来ず、忙しさに紛れてそのままになっておりました。
西田の死刑の求刑のありました直後に入籍いたしました。


ある資料に、渋川善助さんが
「命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
渋川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その渋川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
青年将校の結婚
歩兵第三聯隊の坂井直中尉は、昭和11年 ( 1936年 ) 2月9日。
野戦重砲兵第七聯隊の田中勝中尉は、昭和10年 ( 1935年 ) 12月27日。
歩兵第一聯隊の丹生誠忠中尉は、昭和10年 ( 1935年 )。

夫人は思い返して もう一度、一人で面会に行った。
田中は この思いがけない訪問を、
「 一人で来てくれてよかった 」 と 喜色いっぱいに受けた。
生きた表情の夫がようやく戻ってきたと夫人は思い、夫の顔を凝視した。
向いあって テーブルについての面会である。
田中は妻の手をとると、
「 お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ 」
と 言った。
この言葉が田中の口をついて出た瞬間、
改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男の真情が、堰を切ったように溢れ出した。
おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、
新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、
独房の田中は悶々として眠れぬ夜を重ねたのであろう。
二人の結婚の実生活は ほぼ四十日、
その一日一日が愉しく充実していたと妻にたしかめながら、
「 一日を一年と思えば、四十日は四十年になる。そう思って堪忍してくれ 」
そう 夫は言った。
・・・リンク→ あを雲の涯 (十四) 田中勝 



判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません」
「そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「さよなら」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。



面会は今日で終りになる。
・・・・
処刑は明日か明後日だ。
泣かずに聞いてくれ
・・・・はい
私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい
・・・
 薫
はい
私を許してほしい
君を妻にしたことを・・・・君を独り 残してゆくことを・・・・許してほしい。
あなた・・・・私は幸せでした。 
あなたに妻と呼んでいただいて  幸せでした。



八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。


亡くなった西田は、心変りのしようもございません。
現世を終えてわたくしがあの人の許へ赴くのを待っていてくれるという、
この頃は待たれる身の倖せを心静かに思う日も多くなりました。
八月十七日、処刑の前々日に
「残れる紙片に書きつけ贈る」
と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
  幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
  魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
  君が心に吾はすむものを
と ございます。
一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
あの処刑前日の面会で、
西田は 「さよなら」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
今だに西田の夢をありありと見る夜がございます。
刑死の直後には、
最後に会った日の白いちぢみ姿で
「迎えにきたよ」 と 言われる夢も見ました。
夢の西田は、姿はまざまざと見えますのに、
いくら手をのばしても軀に触れることが出来ません。
遠くにおります。
夢の中でさんざん泣いて、
ふと目覚めると、涙で枕が濡れていることもよくございます。
おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか。
・・・
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯 
・・・・女のまこと
そして、愛情であった。
それは、
男が男であった
女が女であった
まさに その時代を観たのである。


「 私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい 」
・・・・映画でこの後の展開はない。

しかし、この台詞の素は、夫・磯部浅一を信じ 共に闘った妻・登美子の至純があった。
それを、『 女のまこと 』 として、描こうとしたが描き切れず、
亦、捨てきれなかった作者の想いの表れと、私は観たのである。

実は磯部が苦心して残していった遺書があるのです。
他の同志が銃殺された後、磯部は昼間は気狂いのごとくあばれまわって、看手を困らせ、
夜になると疲れた振りをして、毛布を頭からかぶって寝込んだようにみせかけ、
看手を安心させ、油断させて毛布の中で書き綴ったものらしいです。
私が面会に行った時、立会いの看手のスキを見て、ひそかに机の下から手渡してくれました。
あぶない思いをして持出した遺書は、やがて岩田登美夫さんなどの手で、写真に撮られ、
あるいは印刷されてしかるべき要所に、いわゆる怪文書として配られました。
虚を衝かれた軍部はびっくりすると同時に、大変困って、さっそく憲兵を動かして、
その出所を徹底的に追及して来ました。
・・・磯部夫人・登美子・・・リンク→ 磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって 

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8 大和撫子

2022年07月21日 07時02分22秒 | 8 大和撫子

大和撫子

        映画・野菊の如き君なりき・・・民子
目次
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大和撫子 は 日本女性の鑑

としていて、清楚
慎まやかで
一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す
甲斐甲斐しい女性を謂う
男児は、大和魂
女は、大和撫子
5,6歳の頃 大人達から、そう聞かされた
私の親の時代の、理想像である

おさげ の女性

映画「美しい十代」の女優・西尾三枝子

昭和30年代
日本の高度成長の始まったこの時代
国全体は、まだまだ、貧しかった
しかし
明日のために、一生懸命生きようとした時代であった
明日に希望がもてる時代だったと思う
そして、何よりも
「優しさ」 を、大切にした時代だったと思う
♪ おさげが風にゆれていた
わすれないさ わすれないさ いつまでも ♪


七変化

琴姫さんの
悪を斬る強き、且つ、華麗なる姿に
たかが、8才の少年なるも
私は
女性の持つ 優しさを感じた
それは
主演の松山容子さんの
その、風格、気品から
その、優しい面立ち から
そう
感じとったのである
「女性は優しくて綺麗なもの」
・・・と

私にとって
琴姫さんは、やはり
憬れの
大和撫子なのである

二十四の瞳 花の絵
 松江
一つはなをまがったときである。
前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。
先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。
小ツルが歩きだすとまた歩く。
やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。
それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。
静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。
手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。
二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。
もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ?
だれのうちのできごとじゃろう?
みんな目を見あわした。
消え去りつつ新しくひかれてやく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。
急病人にちがいない。船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。
しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでくる人の判別もつかなかった。
まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。
だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。
1年に一度か二年に一度、急病人を町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、
さかのぼって子どもたちは考えていた。
かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。怪我をしたのか、急性の盲腸炎か。
なんじゃろう?
だれぞ盲腸の人、おったかいや?
あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。
女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。
そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。
瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。
しかし、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、
その結び目のところの額によっていた
もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。
はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母は、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。
「松江を休ませりゃええ。」
父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「学校、はじめてなのになァ。だけんど、遊ばんともどってくれなあ。」
思いだして松枝はどきどきしてきた。
するといつのまにか足は、みんなの先を走り出していた。ほかの子どももついて走った。
足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並みを見たときには、
松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。
村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、
安心したのである。
しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。
井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。
はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、
走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。
母はいなかった。
「お母さん・・・・・・・。」
ひっそりとしていた。
「おかあ、さん・・・・・。」
泣き声になった。よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞えた。
「うわあ、おかあさーん」
力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、空にも海にも
ひびけとばかりにひろがっていった


東洋の魔女

女性に、真のヒーローはあり得ない

昭和44年(1969年)、中学三年生の吾々 少年男子が
鮎原こずえ をとおして観たものは
真に
大和撫子
だったのである

「だけど涙がでちゃう 女の子だもん」

此は
永久に不滅である
・・・
そう想う

「私は待っています」 と、伝えて
私が少年の頃から今尚、擁き続ける
私の想う 「私の時代・昭和の女性」
が集約された詩であらう

歌は時代を反映すると謂う


男の人が そんな事してはいけません!!
昼食は、事務所の食堂代わりのテーブルで、皆と一緒に取っていた
お茶のサービスは、事務所の3人の女性がして呉れていた
食後の片付けから食器洗いまで、全て女性等がして呉れるのである
それが日常茶飯事
それが仕事の一部かの如く・・・何も特別の如くでもない
私は、それが当たり前 と想っていたのである

東京だよ おっ母さん
 

島倉千代子から
女性の  優しさ を感じる
それは
私の 女性への憬れ そのもので
幼き頃の 望郷の想い へと 
繋がってゆく
其は、吾母の懐・・・そんな気がする

郷愁
島倉千代子 が 唄う 「女性」
私に潜在する理想の女性像である

真の女性を感んじさせる眼(まなざし)

したむきなる眼差しは
控えめ、恥じらい
これこそ、大和撫子
日本の
女性のもつべきものであらう


絶世の美人
昭和・私の記憶
私が存した、昭和の時代に於いて
この、瞬間 こそ 華
これぞ 私の想ふ 
絶世の美人である

 

次頁
9 昭和・私の記憶 番外
に続く

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東京だよ おっ母さん

2022年07月20日 04時44分51秒 | 8 大和撫子


東京だよ おっ母さん

おっ母さん
おっ母さんとこうして 久しぶりに手をつないで
東京見物できるなんて とっても嬉しいは
ほら みてご覧なさい
あれが宮城 二重橋よ

久しぶりに 手を引いて 親子で歩ける嬉しさに
小さいころが 浮かんできますよ おっ母さん
ここが ここが 二重橋
記念の写真を 撮りましょうね

お兄ちゃん
千代子もこんなに大きくなりました

優しかった 兄さんが 田舎の話を聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも

ねえ お兄ちゃん
お兄ちゃんが登って遊んだ柿木も そのままよ
見みせた上げたいは

さあさ 着いた着きました 達者で長生きするように
お参りしましょうよ 観音様ですおっ母さん
ここが ここが 浅草よ
お祭り みたいに賑やかね

今なお 口遊んでいる
吾が生涯で一番好きな詩であり曲である。


島倉千代子から
女性の  優しさ を感じる
それは
私の 女性への憬れ そのもので
幼き頃の 望郷の想い へと 繋がってゆく
其は、吾母の懐・・・そんな気がする

久しぶりの道
歳を経て、「 爺 」 に、成った私
2012年の一年間
私は年長組の孫娘を 自転車の後ろに乗せ、保育所へ送り迎えした。
保育所への道程
大きな道路から 小さき道に さしかかると
私はきまって 「 東京だよ おっ母さん 」 を 口遊んだ。
それを背中で聞いていた孫娘
いつの間にやら 歌を覚えていた。
そして
私に合わせて 口遊むようになったのである。
孫娘は
共に 唄って通り過ぎた 小さき道 を
「 久しぶりの道 」 として記憶したのである。

「 久しぶりの道 」 から 「 まっすぐの道 」    ・・・リンク→手編みの プレゼント
と 続き
信号を右に曲がると 保育所が見える。
そこから 孫娘と二人
♪ さあさ 着いた 着きました・・

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男の人が そんな事してはいけません!!

2022年07月04日 05時56分11秒 | 8 大和撫子

昭和48年 ( 1973年 )
社会人に成って未だ日の浅い頃

昼食は、
事務所の食堂代わりのテーブルで、皆と一緒に取っていた。
私は、母親が作って呉れた、超豪華な弁当を持参していた。
「 おッ、豪華やな 」 ・・・と、浪花さん。
「 我が子の為に 」 ・・・母親と謂うものは、つくづく、有り難いものである。
お茶のサービスは、事務所の3人の女性がして呉れていた。
食後の片付けから食器洗いまで、全て女性等がして呉れるのである。
それが日常茶飯事。 それが仕事の一部かの如く   ( ・・何も特別の如くでもない )
私は、
そういう事は 「 女のする事 」
・・・と、
素直にそう思っていた。

それが当たり前と 想っていたのである。

世間の女性達と同じく、
事務所の女性等も そう認識しているもの と 想っていたのである。
私の知るところの、女性達は皆 そうしていたから。
とは雖も、私は、新人の最年少 ( 年齢 ) の立場にあった。
だから、年長の女性達に対して 気兼ね が有った。
「 年長は敬うべし 」
・・・と、謂う訓え
が、気にかかっていたのである。

ある日の事
その日は女性が一人欠けていた。
人手が足りない・・新人である私は、気を利かした。
もしも 事務所に女性が誰も居なかったなら、
それらは、新人で若輩の私が行うべき仕事なのである。
「 手伝わなければ 」 ・・・と。
集められたコップを湯沸室まで運ぼうと、ぼん を持ち上げたその時、
一人の女性 ( 2歳年長 )
「 男の人がそんな事してはいけません!」
「 私が遣りますので、そこへ置いといて下さい 」
・・・と、
私は、叱られてしまったのである。

今なら
時代劇の一場面ですら 存在しないであらう台詞である。
当時と謂えば
「 女はお茶給みでは無い 」 
と、インテリ女性達が、殊更に叫んでいて
『 ウーマンリブ 』 は、世の流行ではあった 。


そんな中
インテリの女性から、思いもかけなかった言葉
大和撫子 を 理想 とした19才の私
感動した事は謂うまでもない。

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散髪屋で見た漫画本

2020年09月22日 20時51分40秒 | 8 大和撫子

「 散髪屋で 漫 画 本 が見れる 」
昭和36年 ( 1961年 ) 頃、
散髪屋には漫画本が置いてあった。待ち時間の暇を潰す為である。
もちろん、それは客に対するものである。
しかし子供の吾々は、そんなことちっとも気にすることなく、たむろしたのである。
それでも、
咎められることはなかった。
店には、「 ぼくら 」 「 少年 」 「 冒険王 」 他、単行本が置いてあった。
 
当時よく見た
よたろうくん 
私が認識する 漫画 とは、こういうものである。


反戦の漫画本
一つの戦争漫画の
単行本を読んだ。
脳裡に焼き付いているシーンを、私の記憶で物語る。拙いと言うなよ。

おむすび
一人の白衣を着た従軍看護婦、
甲斐甲斐しく兵隊たちの世話をしている。
「 腹 へったなあ 」
と、兵隊。
「 それじゃ、私がおむすび作ってあげる 」
兵隊たちは背嚢から兵糧の米と飯盒を出した。
これっきり、最後の食糧である。
看護婦は飯盒で炊いた飯を握って、兵隊たちに差出す。
一人一個のおむすび
「 うまいなあ 」
「 看護婦さんは食べないのかい 」
「 みなさんがおいしいと食べる顔をみているだけでいいの 」
「 それじゃあ おなかが空くよ 、ぼくのを半分あげるよ 」
「 いいわよ・・・そんな・・・、兵隊さんが空きっ腹では戦えませんから 」
「 大丈夫だから、ちゃんと戦うから 」
一つのおむすびを二人で分け合って食べたのである。
友軍
「 敵機だ !!」
敵の戦闘機が襲撃して来た。
皆は身を伏せて通り過ぎるのを待った。敵機は上空を通過して行く。
「 どこへ行くんだろう 」
暫くすると、彼方から戦闘の音がする。
一人の兵隊が、大きな木によじ登って彼方の方向を確認すると、海軍の軍艦が見えた。
上空を通過した敵機は海軍の軍艦に向かっていたのだ。
木の上から大声で兵隊が叫んだ。
「 友軍だ !! 」
私は「 友軍 」 という言葉を、ここで初めて知るのである。
日本海軍の軍艦が敵戦闘機と戦闘している。
「 よし、イケッ !! 」
「 そうだ、やっつけろ !」
兵隊たちは、丘の上に駆け上がり、友軍の奮闘に声援を送った。
が しかし、
友軍の軍艦は、敵機の爆撃を受けて撃沈されてしまった。
「 ・・・・・」
別れ
愈々、最後の出撃だ。
兵隊たちは、これが最後だとしりつつ出発した。
それを見送る看護婦。
「看護婦さん、 あんたの握ってくれた おむすびはうまかったよ 」
「 看護婦さん、ありがとう 」
「 元気でいろよ・・・・死ぬなよ 」
「 ちゃんと帰れよ 」
兵隊たちが、口々に声を掛ける。
親身にしてくれた看護婦への、せめてもの お礼 なのである。
もう二度と会えないことは、誰もが知っている。
兵隊たちは、看護婦に手を振って去って行く。
看護婦も、兵隊たちの行列が見えなくなるまで手を振って見送った。
行軍中、敵戦闘機が襲って来た。
果敢に戦う兵隊たち。 しかし、空からの機銃攻撃に敵う筈もない。
「 看護婦さん・・・さようなら・・・・」
奮闘の甲斐なく、玉砕したのである。 
フィナーレ
ただならぬ状況を察知した看護婦、戦場へ駆けつけた。
そこで見たものは、兵隊たちの無惨な屍。
「 ついさっきまで、笑顔で手を振ってくれたのに・・・・」
茫然と佇む看護婦。
一人残った看護婦。覚悟を決めた。
手榴弾を両手で懐に抱いて、崖から飛び降りた。
ドッガーン
・・・・完

作者は たぶん、反戦をテーマとしたのであろう。
しかし7歳の少年にそんな理屈は分からない。
勇ましいシーンを見れば胸を躍らせ、哀しいシーンには泪するのである。
と、いっても、私の心懐に在りつづける看護婦の自決シーン、
哀しいものだけ・・・では、済まされまい。

後年、昭和39年 ( 1964年 ) 頃、テレビ映像で、
サイパン玉砕の模様をアメリカ軍が撮影したものを見た。
そしてその中に、断崖絶壁から飛び降りる 若い日本女性の姿を見た。
それはまさに、手榴弾を抱いて崖から飛び降りた看護婦の姿だったのである。
戦陣訓
にある・・・
恥を知るもの強し。
常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。

生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。
・・・是、武士道精神ならん。
「 武士道とは死ぬこととみつけたり 」
死ぬことは、生きることより、大切なもの・・・だったのである。


しかし、
看護婦は、そんなことで自ら命を絶ったのであろうか。
そんなことを考えてしまう
・・今の私である

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女の まこと

2020年08月28日 14時54分48秒 | 8 大和撫子

新撰組血風録
海鳴りが呼ぶ
司馬遼太郎 著 『 新撰組血風録 』 に、此れは無い。
昭和40年 ( 1965年 ) 12月5日 放送の テレビ映画の中にあったものである。
私はテレビの再放送を観て、此を記憶したのである。
だから、文章が拙いと云うなよ。


山崎烝の許嫁 久江               山崎烝 やまざきすすむ
・・・若き日の小川知子 

鳥羽伏見の戦で敗れた新撰組は大阪城へ退却する。
山崎烝は瀕死の重傷を負っていた。
大阪出身の山崎は許嫁がいた。
甲斐甲斐しく 山崎を看病する許嫁の久江を見て、
「 山崎君は監察という役目柄、休みの日などなかったろうから、

二人で会うことなど ほとんどなかったんじゃねえかな、かわいそうに・・・・ 」
原田左之助がそう呟く。
「 しっかり食べさせてくれ 」 と、医者は言う。
しかし、もう山崎は何ひとつ喉を通らなかったのだ。
「 もう たすからない 」・・・久江は決意する。

これから新撰組は、退却する幕府軍と共に海路 江戸に向かう。
江戸で新撰組の再起を図るためである。
もう自力では立ちあがれない山崎、江戸までの航海に耐えるだけの体力はない。
「 山崎君、君はここに残って ゆっくり静養するんだ 」
と、近藤が 諭す。傍らには、心配そうに見つめる土方もいる。
「 近藤先生、私を連れていって下さい 」
「 ありがとう、山崎君。しかし その傷では無理だ。
なーに、すぐ直るさ。傷が治ってから 亦 一緒に戦おう 」
しかし、己の死期が近いことを知っている山崎は、どうしても江戸に行くという。
「 私は武士です。こんなところで死にたくはありません。新撰組の隊士として戦場で死にます。
どうか、私を連れて行って下さい。  近藤先生。  土方先生 」
死を覚悟している山崎の鞏固な意志に、近藤も土方も負けた。
そして、山崎の意を汲んでやるのである。
「 よし、山崎君、一緒に江戸に行こう 。そして戦おう 」
どうせ永くない命、
近藤も土方も、せめてその最期は 山崎の希望を叶えてやりたかったのである。
それが 『 武士の情け 』 というもの。  『 友情 』 というもの。
「 ありがとうございます、近藤先生。土方先生 」
山崎の両眼から涙が溢れる。

山崎の意識がなくなった。昏睡状態になった。
駆けつけた医者が首を横に振る。愈々駄目か・・・・。
近藤が、久江に言う。
「 あなたは山崎君の為に一生懸命尽してくれた。私からも礼を言う。ありがとう 」
山崎烝の兄が言う。
「 久江さん、あなたにはここまで、弟の為に充分していただきました。
弟は幸せだったでしょう。
弟に代ってお礼を申します。ありがとうございました。
しかし、弟はもう助かりません。助からないのです。
許嫁とはいっても、未だ祝言を挙げたわけではない。
あなたはまだ若い、これからは あなたの為にだけに生きて戴きたいのです。
あなたの為を想って言うのです、もうお帰りなさい 」
「 いいえ、私くしは帰りません。
私くしは烝様の妻と・・・そう想っております 」
「私くしは、妻として、 夫の門出を見送りとうございます」
「 お兄様、どうかお願いです。私くしのこの想いを叶えてやってください 」
「 久江さん・・・・」
「 私くしは山崎烝の妻でございます 」
「 あなたはそこまで山崎君のことを・・・・」
近藤は絶句する。
傍らで腕を組んだ侭 黙して語らず、土方は天を仰ぐ。
「 久江さん、ありがとう 」
山崎の兄も、久江の悲壮な決意に打たれた。

薩長の官軍は、既に幕軍に迫っている。
幕軍から、一時も早く乗船せよとの司令が下り、その準備の真っただ中であった。
「 よし、これから祝言を執りおこなおう。
歳さん、全隊士を集めてくれ 」
近藤は、久江の 『 女の まこと 』 に感銘を受けた。
そして、久江の 『 女の まこと 』 に 報いようと、山崎と久江との祝言を敢行したのである。
全隊士が見守っている。
昏睡状態、意識のない山崎に、補助する隊士が、三々九度の盃を口に運ぶ。
続いて、久江が盃を口にした。
「 これで、久江さんは 新撰組 山崎烝の妻と成った。おめでとう 」
新撰組隊士一同が祝盃を挙げる。 
茲に久江は山崎烝の妻となったのである。

「 なんて綺麗なひとなんだろう。
こんなに綺麗なひと、みたことがない。
このひとは日本一の幸せもんだ。
しかし、山崎君は祝言を挙げたことすら、分らないのだろうな・・・ 」
原田左之助はそう想った。

まさにその時
ドーン
そこに、官軍からの砲弾が炸裂する音。
「 一刻も早く 江戸へ向かう戦艦富士山丸に乗船して下さい 」
と、幕府の役人が駆けつける。
意識のないまま、担架で運ばれる山崎烝。
これが山崎にとっての出陣なのだ。
それを見つめる 妻 久江。
武士の妻として、戦場へ向ふ夫を見送るのだ。
しかし、これが夫である山崎烝を見る最後でもある。今生の別れでもある。
そんな、妻 久江の心懐を慮る土方歳三。
「 久江さん、あなたのこれからについては、新撰組で出来る限りのことはするつもりです。
あなたは もう 直参旗本山崎烝の奥方です。武士の妻に相応しい駕籠を用意しております。
どうかこれに乗ってお帰りなさい 」
これが新撰組隊士、山崎烝の妻 久江にしてやれる、土方歳三の せめてもの慮いであったのである。
今や、許嫁の久江ではない、新撰組隊士 山崎烝の妻として帰るのである。

明治元年 ( 1868年 ) 一月四日、富士山丸は出港した。
山崎烝は昏睡状態のまま 意識の恢復がない。
隣の船室では沖田総司が横たわっている。
血を吐いて、もはや動けなくなった沖田総司に付き添いの斎藤一が言う。
「 沖田君、山崎君も頑張っているんだ 」
「 そうですね、山崎さんも頑張っているんですよね 。私も負けては居られませんね。
でも、この船、よく揺れますね 」
又 別の船室の原田と永倉は、
「 あのひと、綺麗だったなあ。  あのひとは、日本一の幸せもんだよ 」
と、祝言を振り返りながら、原田左之助が言うと、「 そうかなぁ? 」 と、永倉新八。
「 そうだよ、そうにちがいない」
「 でも、あれでよかったんだ 」
自分自身にそう言い聞かせる二人であった。

山崎の容態が急変する。
駆けつける近藤と土方。
原田も居る。永倉も居る。斎藤も居る。
「 山崎君 !」
額に汗をかいて魘されている山崎に、近藤は問いかけるが その声は届かない。
「 もう、これまでか・・・・」
誰もがそう想ったその時、突然、カッと眼を見開いた山崎。
「 久江、出陣だッ ! 久江、出陣だ ッ! 」
と、絶叫すると、息を引き取ったのである。
「 山崎君は、久江さんと夫婦になったこと・・・分っていたんだ 」
と、近藤の言に皆が頷く。
「 山崎君の死は、戦場での戦死である。立派に葬ってやりたい 」
との、近藤の懇願に、
「 海軍式 『 水葬 』 で送りましょう 」
と、艦長は最高の礼で以て 此に応えるのである。
全隊士の見守る中、山崎烝の柩は海に放たれた。
海兵隊が射はなつ 弔銃の音で、沖田は山崎の死を知るのである。
海鳴りのする夜であった。

イメージ
白無垢の打掛の前で、一人、夫を慮る妻の久江。
山崎烝の柩が海に沈んだその瞬間。
白無垢の打掛が、大衣桁から ハラっと、くずれ落ちた。
久江は夫の山崎烝が、今 死んだことを直感するのである。
そして、海鳴りのする夜。
白無垢の打掛を纏った 妻 久江も亦、海に身を投じ夫 烝のもとへ逝った。
山崎烝の妻 久江の覚悟の死であった。

忘れらることはない・・私の記憶である。
私の心懐に在る、女の まこと の物語である。
なんと 切ないのであろうか。

日々の生活の中で得た感動や教訓、此を己が体験として記憶する。
しかしこの事、なにも実体験から得たものだけとは限るまい。
読書の中から、映画や演劇の中から、得たものとて同じなのである。

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大和撫子 は 日本女性の鑑

2017年08月13日 05時07分54秒 | 8 大和撫子

男児は、大和魂

女は、大和撫子

5,6歳の頃

大人達から、そう聞かされた

私の親の時代の、理想像である

親の世代・・国から、そう聞かされたのである

大和撫子

凛としていて、清楚

慎まやかで

一歩己の身を引いて男を立て、男に尽す

甲斐甲斐しい女性を謂う

野菊の如き君なりき  1955年(昭和30年)
有田紀子演じる民子

私が抱く

大和撫子かも知れない

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七変化

2017年04月25日 18時18分19秒 | 8 大和撫子



花を摘む手に 刀が似合う
城の雀がそう言うた
揺れるかんざし 琴姫さんよ
そよりそよそよ
花も散る散る エー七変化
「 そよ風道中 」

琴姫七変化の主題歌である

昭和37年(1962年)
8才の私は

ハナヲツムテニ カタナガニアウ

 白ノスズメガ ソウユウタ
遙かなる日に
吾母と共に そう唄った。

琴姫七変化
主演・松山容子
初めて見る、女優主演のテレビ時代活劇である。
11代将軍・徳川家斉の末娘である琴姫
しかも、柳生新陰流の免許皆伝の腕前ときている
この、じゃじゃ馬 な お姫様が、身分を隠し諸国を旅しながら
七変化して悪を懲らしめ、以てその結末はというと
「将軍家の琴姫様」 として難事を解決するというストーリー
謂わば、水戸黄門の女性版である。
此のスタイル
此のパターン
テレビ時代劇の定番として、今も変わらない



七変化
「 七色に変わるんで 」 ・・・と、母が言った。
七変化とは、変幻自在に
そして、七色に輝く
まさに、虹の如く
・・と、8才の私はそう理解した。

琴姫さんの
悪を斬る強き、且つ、華麗なる姿に
たかが、8才の少年なるも
私は、女性の持つ 優しさを感じた。
それは、主演の松山容子さんの
その、風格、気品から
その、優しい面立ち から
そう、感じとったのである。
「 女性は優しくて綺麗なもの」・・・と。
私にとって
琴姫さんは、やはり憬れの大和撫子なのである。

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東洋の魔女

2016年10月19日 17時48分38秒 | 8 大和撫子

東京オリンピック
昭和39年(1964年) 10月23日(金)

ソ連との決勝戦
私はリアルタイムで、是をテレビで視ていた。


とにかく、拾いに 拾いまくった

回転レシーブ 
日本人の誰もが
知らされた技である。
この完璧なる防御は、無敵だった。
大和撫子は頑張った。
血のにじむような練習にも、歯を食いしばって耐え
果して、その精華は
日本中が感動した 金メダル だったのである。
「 勝った 」 ことは、日本人の誇り を蘇えらせた。
「 日本、万歳 」

バレーボールは国民的スポーツとして認知され
空前のバレーボールブームに
小学校一年生の妹が、流行に後れまじと、バレーボールが欲しいとせがむ
バレーボールを持つことは、ファションだったのである。
「 勝つ 」 とは、こういうことである。

アタックNO1
昭和44年(1969年)12月7日からテレビ放映された。
少女たちは、「自分たちのもの」 と、人気は絶大であった。
同時期
中学三年生の、吾々 少年男子が夢中になっていたものは 「巨人の星」
吾々 少年男子は、ヒーロー・星飛雄馬 に、
男のロマン を観ていたのである。




女性に、真のヒーローはあり得ない
昭和44年(1969年)、
中学三年生の吾々少年男子が

『  鮎原こずえ 』 をとおして観たものは
真に、大和撫子 だったのである。

「だけど涙がでちゃう 女の子だもん」

此は
永久に不滅である
・・・
そう想う

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二十四の瞳 花の絵

2016年05月20日 05時31分05秒 | 8 大和撫子


昭和29年 映画 「 二十四の瞳 」
高峰秀子 主演
私は一度も観たことが無い

昭和42年~43年 ( 1967年~1968年 )
亀井光代 主演のテレビドラマ
「 二十四の瞳 」 が、放映された。

瀬戸内海の小豆島の岬の風景が
吾故郷の風景と似ていて
両親は
同時代の同じ境遇の物語りと、感慨一入で視ていた。
私は、
幼年期 島で過した頃の想い出と物語りが重なり
映し
出される風景を望郷の念を以て視ていたのである。
私自身が、
「 二十四の瞳 」 そのもの の様な気がして
女優亀井光代さんの
爽やかな大石先生を、憧れの想いで以て視ていたのである。

記憶して、忘れられないフレーズである
どうしても、残しておきたい
残さずにはいられないのである

「 マアちゃんも、ミイさんも、百合の花の弁当箱買うたのに、うちにもはよ買うておくれいの。」
「 よしよし。」
「 ほんまに、買うてよ。」
「 よしよし、買うてやるとも。」
「 百合の花のど。」
「 おお、百合なと菊なと。」
「 そんなら、はよチリリンヤへたのんでおくれいの。」
「 よしよし、そうあわてるない。」
「 ほたって、よしよしばっかりいうんじゃもん。マッちゃん、チリリンヤへいってこうか。」
それではじめて彼女の母はしんけんになり、
こんどはよしよしといわずに、少し早口で、
「 ま、ちょっとまってくれ、だれが銭はらうんじゃ。
お父つぁんにもうけてもろてからでないと、赤恥かかんならん。
それよか、お母さんがな、アルマイトよりも、もっと上等のを見つけてやる。」
そういってその場を流されたのだが、松江のためにさがしてくれたのが、
古い昔の柳行李の弁当入れとわかると、松江はがっかりして泣き出した。
今どき柳行李の弁当入れなど、だれも持っていないことを、松江はしっていたのだ。
世の中の不況は父の仕事にもたたって、
大工の父が、仕事のない日は、草とのり日ようにまでいっているほどだから、
弁当箱一つでもなかなか買えないこともわかっていた。
しかし松江は、どうしてもほしかったのだ。ここで柳行李をうけいれたら、
いつまでたっても百合の花の弁当箱は買ってもらえまいということを、
松江は感じて、ごねつづけ、とうとう泣きだしたのである。

「 お母さん、百合の花の弁当箱、ほんまに買うてよ。
いつ買うてくれるん?」
「 お母さんが、起きれたら。」
「 おきれたら、その日に、すぐに?」
「 ああ、その日に」
「 せんせ、」
「 なあに。」
「 あの、あの、うちのお母さん、女の子うんだ。」
「 あらそう、おめでとう。なんて名前?」
「 あの、まだ名前ないん。おとつい生まれたんじゃもん。あした、あさって、しあさって。」
と、松江は三本の指をゆっくりと折、
そう、もう考えついたの?」
「 まだ。さっき考えよったん。」
松江はうれしそうにふっと笑い、
「 せんせ、 」
と、いかにもこんどは別の話だというふうによびかけた。
「 はいはい、なんだかうれしそうね。なあに 」
「 あの、お母さんが起きられるようになったら、アルマイトの弁当箱、買うてくれるん。
ふたに百合の花の絵がついとる、べんと箱。」
すうっとかすかな音をさせていきを吸い、松枝は顔いっぱいによろこびをみなぎらせた。
「 あーら、いいこと。百合の花の絵がついとるの。ああ、赤ちゃんの名前もそれなの?」
すると松江は、恥じらいとよろこびを、
こんどはからだじゅうで示すかのように肩をくねらせて、
「 まだ、わからんの。」
「 ふーん。わかりなさいよ。ユリちゃんにしなさい。
ユリコ? ユリエ? 先生、ユリエのほうがすきだわ。ユリコはこのごろたくさんあるから。」
松江は、こっくりうなずいて、うれしそうに先生の顔をみあげた。

一つはなをまがったときである。
前の小ツルがきゅうに立ちどまって海のほうをながめた。
先にたつものにならう雁のように、みんなも同じほうを見た。
小ツルが歩きだすとまた歩く。
やがて、いつのまにかみんなの視線は一つになって海の上にそそがれ、歩くのを忘れてしまった。
はじめから小ツルは知っていたのであろうか。
それともたった今、みんなといっしょに気づいたのであろうか。
静かな春の海を、一そうの漁船が早櫓でこぎわたっていた。
手ぬぐいで、はちまきをしたはだかの男が二人、力いっぱいのかっこうで櫓を押している。
二丁櫓のあとが、幅びろい櫓足をひいて、走るように対岸の町をさして遠ざかってゆくのだ。
もうけんかどころでなかった。
なんじゃろ?
だれのうちのできごとじゃろう?
みんな目を見あわした。
消え去りつつ新しくひかれてやく櫓足から、岬の村に大事件が突発したことだけがわかった。
急病人にちがいない。
船の胴の間にひろげたふとんが見られ、そこにだれかがねかされているとさっした。
しかし、またたくまに船は遠ざかり、乗りこんでくる人の判別もつかなかった。
まるでそれは、瞬間の夢のように、とぶ鳥のかげのようにすぎた。
だが、だれひとり夢と考えるものはいなかった。
1年に一度か二年に一度、急病人を町の病院へ運んでゆく岬の村の大事件を、
さかのぼって子どもたちは考えていた。
かつて小石先生もこうして運ばれたのだ。怪我をしたのか、急性の盲腸炎か。
なんじゃろう ?
だれぞ盲腸の人、おったかいや?
あとから追いついてきた男の子もいっしょにかたまって評定した。
女はだれも声をたてず、男の子がなにかいうたびにその顔に目をそそいだ。
そんななかで松江はふと、今朝家を出かけるときの母の顔を思い浮かべた。
瞬間、黒いかげのさしたような不安にとらわれたが、そんなはずはないのだと、つよくうち消した。
しかし
、頭痛がするとて顔をしかめ、手ぬぐいできつくきつくはちまきをした、
その結び目のところの額によっていた、
もりあがった皺を思い出すと、なんとなく払いきれぬ不安がせまってきた。
はじめに、今日は父に休んでもらいたいといった母は、しかし父は仕事を休むわけにはいかなかった。
「 松江を休ませりゃええ。」
父が、そういうと、そんならええといい、松江にむかって、
「 学校、はじめてなのになァ。だけんど、遊ばんともどってくれなあ。」
思いだして松枝はどきどきしてきた。
するといつのまにか足は、みんなの先を走り出していた。ほかの子どももついて走った。
足がもつれるほど走りつづけて、ようやく岬の家並みを見たときには、
松江のひざはがくがくふるえ、肩と口とでいきをしていた。
村のとっつきがよろずやであり、そのとなりのわが家に、おしめがひらひらしているのを見て、
安心したのである。
しかし、その安心で泣きそうになった彼女は、こんどは心臓がとまりそうになった。
井戸ばたにいるのが母ではなく、よろずやのおばさんだと気がついたからだ。
はずんだ石ころのように坂道をかけおりた松江は、わが家の敷居をまたぐなり、
走ってきたそのままの足のはこびで、母のねている納戸にとびこんだ。
母はいなかった。
「 お母さん・・・・・・・。」
ひっそりとしていた。
「 おかあ、さん・・・・・。」
泣き声になった。よろずやのほうから赤ん坊の泣くのが聞えた。
「 うわあ、おかあさーん 」
力のかぎり大声で泣き叫ぶ松江の声は、
空にも海にも
ひびけとばかりにひろがっていった。

壺井 栄 著  二十四の瞳 五 花の絵 

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おさげ の女性

2016年03月28日 12時05分41秒 | 8 大和撫子


 思春期の頃に憬れた
 女優・酒井和歌子

おさげ
髪を左右に分けて編んで下げる髪形を謂う
その清純なイメージ
「 おさげ 」 は、女学生の代名詞とも謂えよう

昭和32年(1957年)
中学三年生の叔母の髪形は「おさげ」であった
私の幼年期の微かな記憶に残っている
幼年期の記憶の中の、叔母や従姉妹達の 優しい姿
それが、私の女性観を、形成していったのだと思う
女は優しいもの・・と

映画 「 美しい十代 」 の女優 ・西尾三枝子

昭和30年代
日本の高度成長の始まったこの時代
国全体は、まだまだ、貧しかった
しかし
明日のために、一生懸命生きようとした時代であった
明日に希望がもてる時代だったと思う
そして、何よりも
「 優しさ 」 を、大切にした時代だったと思う
♪ おさげが風にゆれていた
わすれないさ わすれないさ 
いつまでも

泣かないって 約束したのに
「さよなら」 と 言ったら
何にも言わずに 横向いた
お下げが 風に ゆれていた
忘れないさ 忘れないさ 好きなのさ

よく似合うね 真赤なリボンが
「しあわせ」 と 聞いたら
はずかしそうに 爪を噛む
小川の岸で 見た夕陽
二人だけの 二人だけの 思い出さ

淋しいけど 帰ってくるまで
「待ってゝ」 と 言ったら
可愛い瞳が うるんでた
綺麗に編んだ お下げ髪
忘れないさ 忘れないさ いつまでも

「 忘れないさ 」 北原謙二 
昭和36年(1961年)

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絶世の美人

2016年03月25日 06時07分19秒 | 8 大和撫子

三世の美人

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若尾文子
昭和8年(1933年11月8日) 生まれ

 

吉永小百合
昭和20年(1945年)3月13日 生まれ

リンク→青春のひとこま

リンク→愛と死をみつめて

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岡田奈々
昭和34年(1959年)2月12日 生まれ

リンク→手編みのプレゼント

昭和・私の記憶
私が存した、昭和の時代に於いて
この、瞬間 こそ 華
これぞ 私の想ふ 
絶世の美人である

2

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「私は待っています」 と、伝えて

2014年11月17日 20時20分52秒 | 8 大和撫子


誰が教えてくれたのか 忘れたけれど折鶴を
無邪気だったあの頃を 今は願いごと
折ってたたんで裏返し まだ覚えてた折鶴を
今あの人の胸に 飛ばす夕暮れ時
「私は待っています」と 伝えて
いつでも綺麗な夢を
いろんなことがあるけれど それは誰でもそうだけど
悔いのない青春を 詩って歩きたい

誰に教わったわけじゃなく 忘れられない面影を
これが恋と気づいた そよ風の季節
会って別れて会いたくて 白い指先折鶴に
人に云えない想い 託す夕暮れ時
「私は大好きです」と 伝えて
小さな夢が燃えてる
泣いて笑って明日また それはいつでもそうだけど
青空の心で あなたを愛したい


千葉紘子  折鶴
昭和46年(1971年)

私が少年の頃から今尚、擁き続ける
私の想う 「私の時代・昭和の女性」
が集約された詩であらう
歌は時代を反映すると謂う
昭和40年代後半
「私の城下町」 「お祭りの夜」
の、小柳ルミ子

優しい乙女心が謳われた
それは、今でも、私の心に残る

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