「 二・二六事件て、何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた
・
二・二六事件とは何か、
そんな説明なぞ、私にできるものか。
私の関心はそんなことではなかった、そんなところにはなかったのである。
どういう人達が起ち上がったのか、亦その精神は いったいどんなものであったのか・・・
専ら そこに、関心があったのである。
『 動乱 』
テレビで大々的に宣伝され、
毎日 テレビからセンセーショナルなシーンが放映される。
男が男であった
女が女であった
そんな時代に於ける物語に、興味を掻き立てられたのである。
・
昭和 55年 ( 1980年 ) 1月、封切直ちに
親友・長野と二人、梅田の東映会館で観賞した。 東映会館 1979年頃
御堂筋と国道一号線の交叉点、写真右手に駅前第三ビルと続く。
映画館を出た二人。
「 どうやった?」
親友・長野が訊く。
「もうひとつやったな 」
男とは、大丈夫ますらおのこと、女とは、大和撫子 のこと。
高倉健の大丈夫。吉永小百合の大和撫子。
国を憂いて蹶起する男の至誠、そんな男に盡す女のまこと。
悲劇に終る 『 二・二六 』 、以て 男女の愛というものを如何に表現してくれるものか・・・と。
私は、独りよがりの期待をしたのである。
しかし、期待どおりに非ず。
私の心に響かなかった、心に沁みるものではなかったのである。
親友・長野も 同じ想いであったようだ。そんな顔をしていた。
『 二・二六 』 にさほど関心を持たぬ親友・長野は、
私が夢中になる程の 『二・二六 』 とは どんなものかを知りたかったのである。
しかし彼のそんな期待も肩透かし。もの足りなかったようである。
・・・・と、
昭和55年 ( 1980年 ) 1月、映画を観終った時の感想である。
読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う ・・・リンク→ひとの心懐にあるもの
映画を観るということも亦然りである。
斯の映画を通して
私が観たもの ・・は
「 私は最近まで北満州のチャムスで抗日ゲリラの掃討作戦に従事していました。
しかし関東軍には阿片の密売から上がる多額の機密費が流れ込み、
軍の幹部たちはこれを私的に使い込んでいるのです。
ある師団参謀長は八〇円のチップを出して飛行機に売春婦を乗せて出張したと云われます。
そうした幹部にかぎって弾丸を恐れる輩が多い。
チャムスの荒野の未開地には内地から武装農民が鳴り物入りで入植しています。
冬は零下三〇度にまで下がる大地です。
食うや食わずでゲリラの襲撃に怯えている一方で、
新京の料亭では幹部が芸者を侍らせて毎晩、豪勢な宴会を繰り広げている。
もっと下の将校たちも、ゲリラの討伐に出るとしばらく酒が飲めないと云って、
市中に出て酒を飲み、酩酊して酒席で秘密を漏らしてしまう。
果ては討伐に一週間出て、功績を上げれば勲章が貰えるというので、
必要もないのにむやみに部隊を出す将校もいる。
ですがゲリラにも遭遇しません。
これが軍の統計上、一日に平均二回、討伐に出ていると称していることの実態です。
皇軍は腐敗し切っているのです。
こんなことで満蒙の生命線は守れますか?
日清日露を戦った貧しい兵士一〇万人の血で贖われた土地ですよ!」
・・・リンク→ 中橋中尉 ・ 幸楽での演説 「 明朝決戦 やむなし ! 」
1・義憤
「 姉は・・・・」
ポツリポツリ家庭の事情について物語っていた彼は、ここではたと口をつぐんだ。
そしてチラッと自分の顔を見上げたが、ただちに伏せてしまった。
見上げたとき彼の眼には一パイ涙がたまっていた。
固く膝の上に握られた両こぶしの上には、二つ三つの涙が光っている。
もうよい、これ以上聞く必要はない。
暗然、拱手歎息、初年兵身上調査にくりかえされる情景。
世俗と断った台上五年の武窓生活、
この純情そのものの青年に、実社会の荒波はあまりに深刻だった。
はぐくまれた国体観と社会の実相との大矛盾、疑惑、煩悶、
初年兵教育にたずさわる青年将校の胸には、こうした煩悶が絶えずくりかえされていく。
しかもこの矛盾はいよいよ深刻化していく。
こうして彼らの腸は九回し、目は義憤の涙に光るのだ。
共に国家の現状に泣いた可憐な兵はいま、北満第一線に重任にいそしんでいることであろう。
雨降る夜半、ただ彼らの幸を祈る。 食うや食わずの家族を後に、
国防の第一線に命を致すつわもの、その心中はいかばかりか。
この心情に泣く人幾人かある。 この人々に注ぐ涙があったならば、
国家の現状をこのままにしてはおけないはずだ。
ことに為政の重職に立つ人は。
国防の第一線、日夜、生死の境にありながら、戦友の金を盗って故郷の母に送った兵がある。
これを発見した上官はただ彼を抱いて声をあげて泣いたという。
神は人をやすくするを本誓とす。
天下の万民はみな神物なり。
赤子万民を苦しむる輩はこれ神の敵なり、許すべからず。
・・・リンク→ 後顧の憂い 「 姉は・・・」
2・・後顧の憂い
相澤中佐事件
半歳以上にわたって考えぬいたすえの決行だった。
そのときの境地が 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 であり、
悩みぬき、考えぬきして越えてきた山坂道、
その末にひらけたものは、意外にも坦々とした道だったのだろう。
それらが 「 本朝のこと寸毫も罪悪なし 」 の 決意だったのだろう。
この決行が契機となって、
これまで横道に迷いこんでいたものを正道にかえる出路を見出し、
あいともに 一つの道を一つの方向に進むにちがいないと思ったのだろう。
それが挙軍一体一致して御奉公にはげむことであり、
そこにおのずから維新の端緒がひらけるというのが、
相沢中佐の祈念であり祈願だったのだろう。
・・・リンク→ 本朝のこと寸毫も罪悪なし
3・・・男の至誠
わたくしどもの結婚は、
最初西田の親の反対で入籍出来ず、忙しさに紛れてそのままになっておりました。
西田の死刑の求刑のありました直後に入籍いたしました。
ある資料に、渋川善助さんが
「命を捨てて革命に当る者が妻帯するとは何事だ」
と言って、西田をなじったという話が書かれております。
このことはわたくしはこの本をみるまでは存じませんでしたが、結婚早々のことだったのでございましょう。
渋川さんの詰問に、西田がどんな答えをいたしましたのでしょうか。
革命運動を志す者は、たしかに結婚しない方がよろしいのじゃないかと思います。
その渋川さんも結婚なさいましたし、
二・二六事件の若い青年たちは、何故あれほど急いで結婚なさったのでしょうか。
青年将校の結婚
歩兵第三聯隊の坂井直中尉は、昭和11年 ( 1936年 ) 2月9日。
野戦重砲兵第七聯隊の田中勝中尉は、昭和10年 ( 1935年 ) 12月27日。
歩兵第一聯隊の丹生誠忠中尉は、昭和10年 ( 1935年 )。
夫人は思い返して もう一度、一人で面会に行った。
田中は この思いがけない訪問を、
「 一人で来てくれてよかった 」 と 喜色いっぱいに受けた。
生きた表情の夫がようやく戻ってきたと夫人は思い、夫の顔を凝視した。
向いあって テーブルについての面会である。
田中は妻の手をとると、
「 お前のことを考えたら、おれ、死にきれねえ 」
と 言った。
この言葉が田中の口をついて出た瞬間、
改まった遺書には仄めかしもしない二十六歳の男の真情が、堰を切ったように溢れ出した。
おそらく生きて抱くことのないわが子を思い、
新婚の蜜月から叛乱・死刑の男の未亡人となる妻の身の上を思って、
独房の田中は悶々として眠れぬ夜を重ねたのであろう。
二人の結婚の実生活は ほぼ四十日、
その一日一日が愉しく充実していたと妻にたしかめながら、
「 一日を一年と思えば、四十日は四十年になる。そう思って堪忍してくれ 」
そう 夫は言った。
・・・リンク→ あを雲の涯 (十四) 田中勝
判決のあとは毎日面会に参りました。
十八日に面会に参りましたとき、
「今朝は風呂にも入り、爪も切り 頭も刈って、綺麗な体と綺麗な心で明日の朝を待っている」
と 主人に言われ、翌日処刑と知りました。
「男としてやりたいことをやって来たから、思い残すことはないが、お前には申訳ない」
そう 西田は申しました。
夫が明日は死んでしまう、殺されると予知するくらい、残酷なことがあるでしょうか。
風雲児と言われ、革命ブローカーと言われ、毀誉褒貶の人生を生きた西田ですが、
最後の握手をした手は、長い拘禁生活の間にすっかり柔らかくなっておりました。
「これからどんなに辛いことがあっても、決してあなたを怨みません」
「そうか。ありがとう。心おきなく死ねるよ」
白いちぢみの着物を着て、うちわを手にして面会室のドアの向うへ去るとき
「さよなら」 と 立ちどまった西田の姿が、今でも眼の底に焼きついて離れません。
面会は今日で終りになる。
・・・・
処刑は明日か明後日だ。
泣かずに聞いてくれ
・・・・はい
私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい
・・・・
薫
はい
私を許してほしい
君を妻にしたことを・・・・君を独り 残してゆくことを・・・・許してほしい。
あなた・・・・私は幸せでした。
あなたに妻と呼んでいただいて 幸せでした。
八月十九日の早朝、
二千坪はある庭の松の木に、みたこともない鳥がいっぱい群がって
異様な雰囲気でございました。
西田の遺体は白い着物姿で、顔に一筋の血が流れておりました。
拭おうと思うのですが、女の軀はけがれているように気臆れして、とうとう手を触れられませんでした。
気持が死者との因縁にとらえられているためでしょうか。
刑務所から火葬場へ向かうとき、秋でもないのに一枚の木の葉が喪服の肩へ落ちたのを、
西田がさしのべた手のように感じました。
・
亡くなった西田は、心変りのしようもございません。
現世を終えてわたくしがあの人の許へ赴くのを待っていてくれるという、
この頃は待たれる身の倖せを心静かに思う日も多くなりました。
八月十七日、処刑の前々日に
「残れる紙片に書きつけ贈る」
と 書かれた遺詠に、
限りある命たむけて人と世の
幸を祈らむ吾がこゝろかも
君と吾と身は二つなりしかれども
魂は一つのものにぞありける
吾妹子よ涙払ひてゆけよかし
君が心に吾はすむものを
と ございます。
一緒に起き伏しした時間の三倍も一人で生きて参りましたのに、
西田の姿は今日までとうとう薄くはなりませんでした。
あの処刑前日の面会で、
西田は 「さよなら」 と 言いながら、
別れられないいのちをわたくしに託したのでございましょうか。
・・・
今だに西田の夢をありありと見る夜がございます。
刑死の直後には、
最後に会った日の白いちぢみ姿で
「迎えにきたよ」 と 言われる夢も見ました。
夢の西田は、姿はまざまざと見えますのに、
いくら手をのばしても軀に触れることが出来ません。
遠くにおります。
夢の中でさんざん泣いて、
ふと目覚めると、涙で枕が濡れていることもよくございます。
おいて逝かれた悲しみは、涯がないようでございます。
夫婦の因縁とはこんなにも深いものなのでございましょうか。
・・・リンク→西田はつ 回顧 西田税 3 あを雲の涯
4・・・・女のまこと
そして、愛情であった。
それは、
男が男であった
女が女であった
まさに その時代を観たのである。
「 私が命を賭けて書いたものを、君が運び出してほしい 」
・・・・映画でこの後の展開はない。
しかし、この台詞の素は、夫・磯部浅一を信じ 共に闘った妻・登美子の至純があった。
それを、『 女のまこと 』 として、描こうとしたが描き切れず、
亦、捨てきれなかった作者の想いの表れと、私は観たのである。
実は磯部が苦心して残していった遺書があるのです。
他の同志が銃殺された後、磯部は昼間は気狂いのごとくあばれまわって、看手を困らせ、
夜になると疲れた振りをして、毛布を頭からかぶって寝込んだようにみせかけ、
看手を安心させ、油断させて毛布の中で書き綴ったものらしいです。
私が面会に行った時、立会いの看手のスキを見て、ひそかに机の下から手渡してくれました。
あぶない思いをして持出した遺書は、やがて岩田登美夫さんなどの手で、写真に撮られ、
あるいは印刷されてしかるべき要所に、いわゆる怪文書として配られました。
虚を衝かれた軍部はびっくりすると同時に、大変困って、さっそく憲兵を動かして、
その出所を徹底的に追及して来ました。
・・・磯部夫人・登美子・・・リンク→ 磯部浅一の嘆願書と獄中手記をめぐって