昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

故郷は遠きにありて想うもの

2021年02月11日 13時34分28秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

「 嗚呼、行ってしもうた 」
・・・と、祖母 ( 母方)
一人窓辺に佇み、海峡を見つめては      
そう 呟いていたという。
( 佇む ・・ その場に留まっまま・・坐ったまま)

昭和37年 ( 1962年 ) 秋、
母方の蒲刈町 向、従妹の運動会での写真
前列、私8歳  母28歳  妹1歳  祖母  妹4歳
後列、姐さん  従姉姉妹  伯母さん  従弟
       
美佐枝ちゃん元気ですか
御手紙頂いてながい事送るを出さずごめんね
美佐枝ちゃんが待って居ろうかと思いても手紙か書くのがたいぎいのでゆるして下さい
美佐枝ちゃん三人の事を思うとなみだが出てしよう有りません。
病気せぬように一生けんめいべんきょうしなさい
あまりながいこと便りがないがないので もう おばあさんの事わすれたのかと思て居ました □□あれがとう
千代子も一生にうつせばよいのにと 皆ゆうて居ます
お姉さんも一生険命い学校にかよつて居ます
あんたも遠くに 遊に行かないて千代子をあそんでやりなさい
又 おじい様の二十五回忌がきて居ます
其時はおかあさんがかえられんかったら

福原のお伯母様や信行兄さんとつれてもどってもらいなさい
美佐枝ちゃんが帰られんようでしたら六月にします  又帰ってこられたらおじい様の あたり日にちにします
そこわ 信行兄さんと思 ( 想 ) 談して見なさい
皆なにも又 此ちから知らせます
ちょうど夏休みに成るから良いと思います
たのしみに待っております
元気でね  さようなら
幸徳
美佐枝  さんに
千代子
おばあさんより

此の手紙はかいて一ヶ月たちました

お姉ちゃんがふうとうを買て来てくれないからおそく成りました
ごめんね
イリコオクります

昭和43年 ( 1968年 ) 祖母からの手紙である。

唯ひたすらに、「 帰って来いよ 」 ・・・と、切願している。
祖母は、遠き処に行ってしまった孫を、孫の顔を見たかったのである。
しかし、祖母の切ない願いは叶わなかった。
・・・リンク→故郷に錦を飾る それまでは


私の故郷
広島県安芸郡
下蒲刈 ・三ノ瀬、丸谷、下島
上蒲刈 ・向

望郷
「 田舎では仕事が無い 」
・・・と、親父。
心機一転、起死回生とばかりに、一家を引連れ大都会大阪へ出た。

昭和38年 (1963年) 4月のことである。
「 どうして、大阪へ・・・ 」
我が子にひもじい想いをさせたくない・・此も仕方の無きこと
母はついてゆくしかなかった。
しかし、
そんな理由なぞ、7歳の私に分かるものか。
「 故郷に帰りたい 」
との、望郷の想いが募るばかりであった。


故郷は遠きにありて想うもの

「 瞼に焼付いた吾故郷を確認しやう。
  そして、
積年の想いを遂げん 」 ・・・と
昭和54年 (1979年) 6月19日
私は、一人帰郷した。

それまで、二度帰郷したことがある。
一度目は、
大阪に出た 昭和38年 ( 1963年 ) の盆休み、
貢・叔父に連れられ、私だけ三ノ瀬・丸谷に帰省した。
二度目は、
昭和44年 ( 1969年 )、
向の母方祖母の病気見舞に急遽 母と四人で祖母の許へ馳せた。
 
中学三年生の10月
・・・リンク→ 「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた
                引き潮が 満ち潮に変わる時
しかし、何れも もの足りなかったのである。
それ以来の帰郷であり、三ノ瀬・丸谷には16年振りのことであった。

   
仁方港からのフェリー から見た故郷

驚いたは、
山々には、車が通れる道路が走り、海峡には 蒲刈大橋が跨いでいる
埋め立てられた 丸谷の波止場 、蒲刈中学校前の浜。
下島の田圃が宅地に変貌しようとしている。
嗚呼・・吾想い出の海も山も何処へ。
此が、時の流れと謂うものか。

幼年期の面影は、かろうじて残ってはいるものの、
16年振りに私が見た故郷は、私の想いとは余りにもかけ離れていたのである。
   
祖父母の家の前と祖母
帰郷したのは、まさにサプライズ。
にもかかわらず、
祖母は大そう喜んで呉れた。そして精一杯もてなして呉れたのである。


昭和37年5月26 日(土) の航空写真 
此の瞬間 (トキ) 私は何処で何をしていたのであらうか ・・・
私の瞼に焼きついた故郷の姿である

「 故郷は遠きにありて想うもの 」
私にとって、
『 遠きにありて 』
・・・とは、
過ぎ去った時を謂う。
「 瞼をとじらば、一軒一軒の家並みが視える
  地図は確と脳裡に刻んである。

  嗚呼  歩かば、想い出る故郷 ばかり 」
・・・との、私の想い虚しく
私の瞼に焼きつけた幼年期の風景なぞ もはや 存在しなかった。
そして、懐かしむ 友ガキ すらも在なかったのである。
此処では私は 『 よその者 』 でしかなかったのだ。

時代は進化する。
16年越しの 私の想いは 叶わなかった。  さもあらん。

しかし、
瞼をとじさえすれば吾故郷はいつでも
其処にある。
そして、想い出は鮮やかに蘇えるのである。
瞼に焼きついた吾故郷と、
湧き水の如くあふれる想い出は、
永劫に、無くなりはしないのである。


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