昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

丸谷の波止場 と 「 夕焼けとんび 」

2021年02月16日 06時17分05秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

    昭和29年 ( 1954年 ) 親父
丸谷の波止場
波止場には

拡声機 ( トランペツト式スピーカー ) が有った。
スピーカーから流れていたのは
三橋美智也の 「夕焼けとんび」  昭和33年
一 
夕焼け空が まっかっか

とんびがくるりと 輪をかいた
ホーイのホイ
そこから東京が 見えるかい
見えたらここまで 降りて来な
火傷をせぬうち
早ッコヨ  ホーイホイ

上りの汽車が ピーポッポ

とんびもつられて 笛吹いた
ホーイのホイ
兄ちゃんはどうして いるんだい
ちょっぴり教えて くんないか
油揚一丁 進上ヨ   ホーイホイ

一番星が チーカチカ

とんびはいじ悪 しらぬ顔
ホーイホイ
祭りにゃ 必ず帰るって
おいらをだまして 置いてった
兄ちゃも お前も
馬鹿っちヨ  ホーイホイ
私はこの歌、波止場で覚えたのである。
波止場のスピーカーから流れしは、
それこそまさに 『 時 』 であった。
・・・と、そう想う。
  昭和33年 ( 1958年 ) 母 妹
昭和33年 ここで
両親と三人で釣りをした

私が、カニを釣上げた  

 マッコ ・・隣の兄さん
遙かなる日
時は 斯くも ゆっくりと流れていた。
写真に映し出された人や風景、
況や画像そのもの・・も、

れも、ゆったり と、したものを感じる。
↓ 道路に沿って海側にある白線は、干潮時の床 のライン
画面左端の広がった部分から砂浜になってゆく    この辺りは ゴカイが多く捕れた

昭和44年(1969年) 中学3年の秋
クラスの男子生徒で、誰が一番高く、ボール(軟式球)を真上に投げるかを競ったことがある
自信のある奴が、我こそはと、放り投げる
しかし、どれも、放物線を描いて、遥か前方に落下するのである
真上に上がらない
球筋も観ていていかにも弱々しく、急速に落下する
「なんやおまえら、高く あがらんやんけ」
だれも皆、真上に投げられないのだ
そして、真打登場とばかり、私が投げて見せる
「オー !」
私の投げたボールは、勢い良く真上に上った、放物線など描かない
皆が真下から見上げている
ボールは、一直線に空高く舞上がり、なかなか落ちてこないのである
そして投げた位置の真後ろ1メートルに落下した
「ドヤッ !」 と、得意顔の私
絶頂の瞬間(とき)である
・・・リンク→腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
昭和36年 ( 1961年 ) 小学一年の時、
松本店前の道端から波止場に向かって石を投げた。
投げた石が波止場を越えて行く。
7歳からしたら、40メートルの将に大遠投である。
『 誰よりも遠くに石を投げる 』
これを男のロマンとしたる そのルーツは、
ここ丸谷の波止場にあったのである。

因みに
石を海に向かって投げる・・・こと
覚えたのは住吉の浜 ( 三ノ瀬小学校 の更に向こう ) でのこと、
見様見真似で平らな石を拾って水面を滑らせて投げた。
これが始まりである。


昭和36年 ( 1961年 )
道路と波止場の分岐点

私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。
・・・リンク→貞子さん(ていさん)


あんぱん を食う私
昭和36年 ( 1961年 ) 3月 6歳
卒園の日 ( 弘願時・・村の寺、保育所 )
年長の梅組の室から
卒園式を行う本堂に移ると、各自の記念品・証書が置かれてあった。
祝い品として、紅白まんじゅう 為らず あんぱん が配られた。
私は、皆より少し遅れて本堂へ入室した。
すると
私の(座る)場所には、記念品の あんぱん が、ない。
・・
「 ゆきくん 」
「 ん 」
「 わしの、食うてもええよ 」
と、松崎親男君が云う。
「 まちごうて、ゆきくん のを、食うたんじゃきん 」
・・・
その アンパンを食べているのである


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4 コメント

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私:S28年生下蒲刈町大地蔵出身で大学入学を期に... (重森 昇)
2009-01-02 05:52:00
私:S28年生下蒲刈町大地蔵出身で大学入学を期に大阪に居ついて早35年、細々と建築設計事務所をやってます。
たまたま開いたページに懐かしく投稿させて頂きました。蒲刈には弟が家を継いで実家があるけど、両親亡き後はあまり帰省もせず、ゆえに余計昔のよき時分の記憶が増幅されて思われます。
 貞さんの話、地蔵にも似た境遇の人いました。ちなみに私、中学校入学時カルチャーショック受けました。三ノ瀬は私には都会に見えたのです。岩崎の店で食べたうどんの美味しかったこと。to be continued
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重森 昇 様 (shouwa)
2009-01-02 17:57:00
重森 昇 様
ご訪問頂きまして有難うございました

同郷のかたからのコメントに喜びと共に、少し緊張もしております
私がそのまま島で過していたなら、蒲刈中学の先輩後輩として、交わっていたかも知れません
ブログでのご縁に、「時代」を感じます

私事、昨年盆に、久し振りに墓参りしました
妻共々(妻も三ノ瀬の出身) 久し振りのことでした
初めて安芸灘大橋も渡りました
大阪に越してきて46年
時代の進化と共に変貌する故郷に
瞼の裏に焼きついていたはずの、幼年期の景色の記憶も消え失せてしまいそうです
望郷の念も 消え去ろうとしています
寂しく想いますが、これも「時代」と諦めております

「貞(てい)子さん」・・読んで頂き有難うございました
感謝の念でいっぱいです

「岩崎」・・私の存した頃(s29~37)は無かったように記憶しております(私は丸谷の子です)
三ノ瀬の都会ノ子の妻(s34生)は知っているとのことです

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私が27年生まれの同世代です。 (Unknown)
2012-01-22 14:33:35
私が27年生まれの同世代です。
たまたま拝見させて頂きました。
私は上の出身です。芋を食べていた事、チャンバラをしていた事。懐かしく想い出しました。
また貞子さんの話涙が出ました。あの時貞子さんは
何を考えていたのだろう、と。黙って海を見つめている、多分深く考える事柄だったのでしょう。
心に残りました。
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27年生まれの上の御方 (Unknown)
2012-01-23 22:23:44
27年生まれの上の御方
コメント頂きまして有難うございました
「貞子さん」の話・・悲しいものが込み上げて仕舞い、 記事を纏めるのに一週間程かかりました
精一杯の 私の想い・・です
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