昭和29年 ( 1954年 ) 親父
丸谷の波止場
波止場には
拡声機 ( トランペツト式スピーカー ) が有った。
スピーカーから流れていたのは
三橋美智也の 「夕焼けとんび」 昭和33年
一
夕焼け空が まっかっか
とんびがくるりと 輪をかいた
ホーイのホイ
そこから東京が 見えるかい
見えたらここまで 降りて来な
火傷をせぬうち
早ッコヨ ホーイホイ
二
上りの汽車が ピーポッポ
とんびもつられて 笛吹いた
ホーイのホイ
兄ちゃんはどうして いるんだい
ちょっぴり教えて くんないか
油揚一丁 進上ヨ ホーイホイ
三
一番星が チーカチカ
とんびはいじ悪 しらぬ顔
ホーイホイ
祭りにゃ 必ず帰るって
おいらをだまして 置いてった
兄ちゃも お前も
馬鹿っちヨ ホーイホイ
私はこの歌、波止場で覚えたのである。
波止場のスピーカーから流れしは、
それこそまさに 『 時 』 であった。
・・・と、そう想う。
昭和33年 ( 1958年 ) 母 妹
昭和33年 ここで
両親と三人で釣りをした
私が、カニを釣上げた
マッコ ・・隣の兄さん
遙かなる日
時は 斯くも ゆっくりと流れていた。
写真に映し出された人や風景、
況や画像そのもの・・も、
どれも、ゆったり と、したものを感じる。
↓ 道路に沿って海側にある白線は、干潮時の床 のライン
画面左端の広がった部分から砂浜になってゆく この辺りは ゴカイが多く捕れた
昭和44年(1969年) 中学3年の秋
クラスの男子生徒で、誰が一番高く、ボール(軟式球)を真上に投げるかを競ったことがある
自信のある奴が、我こそはと、放り投げる
しかし、どれも、放物線を描いて、遥か前方に落下するのである
真上に上がらない
球筋も観ていていかにも弱々しく、急速に落下する
「なんやおまえら、高く あがらんやんけ」
だれも皆、真上に投げられないのだ
そして、真打登場とばかり、私が投げて見せる
「オー !」
私の投げたボールは、勢い良く真上に上った、放物線など描かない
皆が真下から見上げている
ボールは、一直線に空高く舞上がり、なかなか落ちてこないのである
そして投げた位置の真後ろ1メートルに落下した
「ドヤッ !」 と、得意顔の私
絶頂の瞬間(とき)である
・・・リンク→腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根
昭和36年 ( 1961年 ) 小学一年の時、
松本店前の道端から波止場に向かって石を投げた。
投げた石が波止場を越えて行く。
7歳からしたら、40メートルの将に大遠投である。
『 誰よりも遠くに石を投げる 』
これを男のロマンとしたる そのルーツは、
ここ丸谷の波止場にあったのである。
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因みに
石を海に向かって投げる・・・こと
覚えたのは住吉の浜 ( 三ノ瀬小学校 の更に向こう ) でのこと、
見様見真似で平らな石を拾って水面を滑らせて投げた。
これが始まりである。
昭和36年 ( 1961年 )
道路と波止場の分岐点
私が坐っているコンクリート護岸の先端に
貞子さん ( ていさん ) は坐っていた。
・・・リンク→貞子さん(ていさん)
あんぱん を食う私
昭和36年 ( 1961年 ) 3月 6歳
卒園の日 ( 弘願時・・村の寺、保育所 )
年長の梅組の室から
卒園式を行う本堂に移ると、各自の記念品・証書が置かれてあった。
祝い品として、紅白まんじゅう 為らず あんぱん が配られた。
私は、皆より少し遅れて本堂へ入室した。
すると
私の(座る)場所には、記念品の あんぱん が、ない。
・・
「 ゆきくん 」
「 ん 」
「 わしの、食うてもええよ 」
と、松崎親男君が云う。
「 まちごうて、ゆきくん のを、食うたんじゃきん 」
・・・
その アンパンを食べているのである
たまたま開いたページに懐かしく投稿させて頂きました。蒲刈には弟が家を継いで実家があるけど、両親亡き後はあまり帰省もせず、ゆえに余計昔のよき時分の記憶が増幅されて思われます。
貞さんの話、地蔵にも似た境遇の人いました。ちなみに私、中学校入学時カルチャーショック受けました。三ノ瀬は私には都会に見えたのです。岩崎の店で食べたうどんの美味しかったこと。to be continued
ご訪問頂きまして有難うございました
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同郷のかたからのコメントに喜びと共に、少し緊張もしております
私がそのまま島で過していたなら、蒲刈中学の先輩後輩として、交わっていたかも知れません
ブログでのご縁に、「時代」を感じます
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私事、昨年盆に、久し振りに墓参りしました
妻共々(妻も三ノ瀬の出身) 久し振りのことでした
初めて安芸灘大橋も渡りました
大阪に越してきて46年
時代の進化と共に変貌する故郷に
瞼の裏に焼きついていたはずの、幼年期の景色の記憶も消え失せてしまいそうです
望郷の念も 消え去ろうとしています
寂しく想いますが、これも「時代」と諦めております
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「貞(てい)子さん」・・読んで頂き有難うございました
感謝の念でいっぱいです
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「岩崎」・・私の存した頃(s29~37)は無かったように記憶しております(私は丸谷の子です)
三ノ瀬の都会ノ子の妻(s34生)は知っているとのことです
たまたま拝見させて頂きました。
私は上の出身です。芋を食べていた事、チャンバラをしていた事。懐かしく想い出しました。
また貞子さんの話涙が出ました。あの時貞子さんは
何を考えていたのだろう、と。黙って海を見つめている、多分深く考える事柄だったのでしょう。
心に残りました。
コメント頂きまして有難うございました
「貞子さん」の話・・悲しいものが込み上げて仕舞い、 記事を纏めるのに一週間程かかりました
精一杯の 私の想い・・です