もう一つの 昭和・私の記憶

『 昭和・私の記憶 』 の、続編
吾生涯を物語る

2022年11月17日 | 

共に考えるを 友と謂う


大土二郎  ミュンヘンのカフェテラスから  1980年(?) 07.15


友 ・ 一
落日は速かった。
日が山に懸かり始めてから、
ほんの 2,3分で、日が沈んだのである。
日が沈むと、
あっという間に暗くなった。
城北公園まで帰って来た頃には、廻りが、まっ暗になっていた。
暗闇の堤防、ひとっこ一人り居ない。
「 どうしやう 」
来た経路 ( ミチ )で、帰ることしか頭になかった。
「 これが一番の近道 」
・・・と、自分に言い聞かせていたのである。
然し
灯りの無い堤防は、まっ暗で歩けない。
これ以上進めない。
4年生・山田、泣き出した。
「 男は泣いたら、アカン 」 ・・・あっという間に日が落ちて 

山田 浩  ヤマダヒロシ
昭和38年 ( 1963年 ) 初の友である


友 ・二
友ガキ ・舟木、
よくぞ 頑張った。
斯くも必死なる形相、・・・拍手を贈る。
而も、裸足。 而も、完走。
『 まけてなるものか  くじけちゃならぬ 』
彼のそんな姿、
私は、それまでとうてい知るものではない。
卒業アルバム中の 斯の画像を見るまで知らなかったのである。
おそらく、彼の17年の生涯に於て、最も命を燃やした瞬間 ( とき ) であろう。 ・・・「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

舟木伸次  フナキシンジ
『 連れ 』 として 1965年~1972年を共にした
かけがえのない友ガキである

1966年 ・・・風よ伝えてよ あの娘に 
1969年 ・・・修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」

 ・・・文学少女にはなれなかった
 ・・・置き碁・風鈴 「 もう、やめじゃあ 」 
1970年 ・・・バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」

 ・・・バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」


あっというまの
昭和47年 ( 1972年 ) 4月14日 ( 金 )
友ガキ・舟木 は 逝ってしまった。
私との約束、果せないままに。
凡てを、想い出に変えて逝ってしまったのである。
たった、17才で ・・・・
「 友との別れ 」  なんと 悲しいものである。
この感慨 たとえようもない。・・・17才のこの胸に 「 二人で唄った刑事君 」 

然し 私は、葬儀 には出なかった。
私は 悲しい場に身を置きたくなかった。
別れを告げたくなかったのである。
然しそれは、勝手な理由をつけて逃げたに過ぎない。
ちゃんと正面から向き合うべきであったのだ。 ・・・ちゃんと。
それが友ガキ ・舟木 に、私が取るべき 洵 だったのである。
然し、私は逃げた。 逃げてしまった。
・・・17才のこの胸に 「 友ガキ・舟木との別れ 」 

友 ・三
昭和50年(1975年 ) 2月15日 (土)
京阪電車で枚方の牧野に在る彼のアパートに行った。
親友 ・水阪
「( 結婚 ) 決めようと思っている。
しかし、最後のところで二の足を踏んでいる。
彼女と会って決心を固めたい。
お前、鹿児島まで、付き添って呉れんか 」
親友 ・水阪、私に背を押して貰いたかったのである。
私は、二つ返事で快諾した。・・・「 お前、変わってるなあ 」

親友 ・水阪、
小学校のグランドで子供らとボール遊びをしている。
私は、子供らとのボール遊びには加わらなかった。
砂場の渕に坐って、遠目でその様子を眺めていたのである。
「 あいつ、子供好きなんや 」
その時、私の傍らには彼女が坐って居た。
私は彼女に言葉した。
「 決めるべきです 」

ボール遊びを終えて
「 湯の元 」 の、旅館に案内された。
この日は此処で一泊するのである。
夕食が済んで、部屋に入った吾々。
親友 ・水阪、未だ肝心な用を達していない。
「 お前、話  して来いよ。 ( 俺 ) 此処に居るから 」
と、彼を促しすと、
「 うん、それじゃあ 行って来るワ 」
・・・そう云って、彼は部屋を出た。
果して
旨くいくに決まっている。・・・叶うものであれは゛ 叶えて欲しい

水阪昭二  ミズサカショウジ
 『 家族ぐるみの つきあい 』 ・・叶わなかった
1972年 ・・・パトカー に乗って帰宅する
1974年 ・・・青年は夢を追いかけろ

空が白けて来た。

都工の正門前の道路にへたりこんで、待つこと 6時間
滔々 夜を明かしたのである。
暁払い
一台の車、Civic  が、吾々の目の前に止った。
運転席には水阪の顔
ドアを開けるや
「 スマン スマン 」

寝過ごしたのだと言う。
仕事が終わって一眠りしたところ、気が付いたら午前3時。
「 スワッ、大変 」
・・・と、高速道路突っ走ってきたんだと。  
・・・君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」


友 ・ 四 
「 おい!」
倖せなとき なかったよなあ
苦悩ばかりしてなぁ
人生
生きてゆくのは むつかしいよなあ
楽しいことなんて なかったよなあ
「 でも ・・・ どうして?」・・・友を亡くした悲しみ 

大土二郎  オオツチジロウ
無二の親友である
・・・蒜山高原 
・・・コートにかける青春 


親友・大土の様子がおかしい。
いったい、どうしたというのか。
「 最近調子悪うてな。薬、飲んでるんや。 仕事も二週間ほど休んどる 」
「 何があったんや 」
「 最近、職場での皆の態度が変ってな。
あいつは偉い人やから、自分等と違うんや
そこまで頑張らんでもええやろに残業までして、それじゃ自分等がサボっている様に見えるやろ
・・・陰で、そう云うとるんや。
外課たかの同僚と共同した論文が賞を取って本に載ったことや、
そいつらと、ヨーロッパ旅行した事を嫉んどるんや。
でも、そんなことぐらい別にどうってことはない、云わしとったらええんや。
・・・でもな、
最近、設備工事の見積金額が業者に洩れていることが庁内で判ってな。
・・・キャリアの上司が遣ったことなんや。 周りの者もそれを知っているくせに。 皆 黙っとる。
そのキャリアが俺に罪を擦り付けたんや・・・。
君の面倒はちゃんとみるから黙っておいてくれ。 悪いようにはしないから。
・・・そう云うて、そのキャリア 俺にはヘラヘラ機嫌をとってくる。
そのくせ、裏で犯人は俺・・と言いふらしているんや 」
薬の副作用からか、ろれつが回っていない。
「 そんな阿保なことがあってたまるか。 何か手立てはないんか 」
「 相手はキャリアや、組織が護ってくれる。ノンキャリの俺なんか、トカゲのしっぽでしかないんや。
闘こうても、結局負ける・・・云われるが侭 黙っておるしかないんや 」
涙声になっている。
「 庁内に仲間は居らんのか 」
「 居る・・・けど、皆、黙っとる ・・・」
「 そんな ぁ・・・」  ・・・プロローグ ・ 遥かなる想い

・・・4月3日、日曜日は告別式
大阪府庁の職員が葬儀を取仕切っていた
その余りにも多勢に、私等同窓生たかが10人、出る幕など無かった
大阪府庁の一職員の踏切り事故死に
ここまで役所が入って来るのかと、その異様差に戸惑いながら、彼を送ったのである
出棺のアイズの音
彼を乗せた車が去って行く時、悲しいものが込上げた
28歳
青雲の涯へ、逝ってしまった・・
感慨表現のしようもない

出棺を見送って各々が帰宅する前に
同窓生の仲間全員、近くの喫茶店に集まろうと謂う事になった
「皆、揃ったか?」
「大土 が、まだや」
「・・・・」  ・・・青雲の涯 遙かなる想い 

仲間達
・・・昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」
・・・反骨な奴のレジスタンス
・・・腕自慢でも敵わなかった万博の大屋根 

  
青春のたまり場 2008.08.14 撮影
 

「 ちょっと、まて! 俺、肉 食うてへんど 」
「 俺かて、食うてへん 」
「 みんなが、食えるようにしようで 」
「 順番に食おうや 」
「 おれが、ちゃんと造ったるから 」
「 おい、ハナべー に任せようや 」

ワイワイ 言いもって 食べた すき焼き は 美味かった。
そして 仲間達と初めて会して飲んだ酒。
それはもう
『 五臓六腑に染渡った 』 ・・・のである。  ・・・君達がいて僕がいた 1 「 仲 間 達 」 

昭和49年 ( 1974年 )
社会人 2年目の秋
その頃、
「 体を鍛えよう  」 ・・・と
偶にであるが、親友 ・平野と二人、大阪城にて、ジョギングをしていた。
大阪城の外堀を、一周するコース
何背、20歳・・・元気はあった。
ジョギングの後は、キャッチボール がいつものメニューであった。
野球少年の吾々、腕に覚えはある。
キャッチボールだけでは、もの足りなかった。
「 みんな集めて 野球しようか 」
「 それええなぁ 」
親友 ・平野との斯の会話から、
『 君達がいて僕がいた 』 ・・・茲に、物語は始まる。
青春のたまり場 「 MA会 ・ 都島アーキテクチャー 」 

友 ・五
人生
咲かない華
どうして、次に継ひでいく
咲かない華 一生懸命、咲かさうとしている
側から観て、哀れ と 言ふ
華をさかせる・・・何を意味するのか
価値判断は何処に在るのか・・・明 にすべき所 であらふ
何が 価値か
一生懸命が価値なら、結果は問へなひ
結果の成否で一生懸命を評価するのか
あるひは 幸運・不運 で決めるのか
砂漠で 咲かない華 
一生懸命、咲かさうとしている と 言ふ
是 不運か  是を 悲運 と 言ふのか
私しの咲かさうとしている華 は 咲かない華 か
私しは 砂漠 か
私しの 咲かさうとしている華は 確かに咲く
「 確かに咲く 」
信じて今日 なるも
さて
咲かない華 
どうして、次に継ひでいく

人生において
( 平野 匡勇 ) 2006-04-16 12:39:12               ・・日曜日
人生において、その過程も結果も満足できれば幸いです。
僕は怠け者なので、平均点を目指しているだけです。
追い立てられて一所懸命になるときもありますが。 
・・・あれから 1 『 人生 』  への コメントである


「 千夜子さん、花田君をよろしく 」 ・・・吾結婚披露宴での祝辞
平野匡勇  ヒラノマサオ
受験番号一番の男
「 一番は誰哉?」
興味津々の私の前に立つは 小柄の坊主頭の男・平野匡勇だった。
一番と二番の出逢い
此が縁 えにし茲に、彼との友情が始まる。
『 共に生きるを、友と謂う 』
こうして彼とは鎖縁、
以後なにくれと行動を共にすることになるのである。  ・・・受験番号一番の男 と 人生航路
1970年 ・・・バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」
 ・・・貴ノ花の相撲を見たかったのです
1971年 ・・・鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」 

  1973.09.03
ところで 四人集まれば、やはり高校時代の事が思い出される。
何らかんら 僕らは3年間言ってきたが。
やっぱり今思えば 思い出として人生の貴重な時期であったろう。
( ところで 君らが来た時、妹はなにかのセールスマンと思ったらしい )
夜十時頃、花田と机をならべて もう一度勉強してみたいと思った。
僕は一刻も病気を回復して、君らと旅行をしたり、ゆっくりと話をしてみたいと思う。
そして、僕らは良い意味のライバルとして、お互いの進む道 ( ともに建築ではあるが ) に、
共に腕を磨いて行こう。
そしていつか、ゆっくりとした時間を持って何かをしてみたいと思う。  ・・・酢豚の想い出 
 
「 ソ連が攻めてきたら、白旗を掲げて降伏する 」 ・・・右翼青年
と、言った平野君の天皇観である。

私と悉く異なる彼の思想信念は、
どこから産れ、亦、築き上げてきたのであらうか。
・・・平野君の天皇観 1975 

大土の 出棺を見送って各々が帰宅する前に
同窓生の仲間全員、近くの喫茶店に集まろうと謂う事になった
「皆、揃ったか?」
「 大土 が、まだや 」 
と、そう言って とぼけた
平野一流のパフォーマンス、 亦哀し ・・・青雲の涯 遙かなる想い 

朋友
「俺はオレ、オマエはお前」
これを肝に銘ずる
其れで善いではないか
汝は汝たり 我は我たり ( ・・・吉田松陰 )

最後まで頑張って自己を尊重し、自尊心を護ることが
取りも直さず 人間を尊重することに成る
自己を尊重する者が人間を尊重でき、真実を尊重できる  ( ・・・三島由紀夫 )
不変
「おまえ、かわったなあ」・・と

吾は不偏で不易
そうみえざるは
おまえこそが、かわったのである  ・・・
人と人との間

此の日
親友・長野と共に旭屋書店に行った私は
己の欲するところ欲するがままに
武者小路実篤の著書
若き日の思い出、ある彫刻家、おめでたき人、若き人々、馬鹿一、
人生論、人生雑感、人類の意志について
の、8冊(文庫本)を纏めて購入した。
親友・長野も数冊束ねていた。
自分を磨こうと、読書三昧の日々を送っていたのである。
別に競ってはいない
カラー違いの似た者同士、タイプの違った同類項・・故に
相互が、
「 俺はオレ、オマエはお前 」
「 吾、汝に関知せず 」
・・・と、そう想っていた。
其を肝に銘じて語り合ったのである。
そして二人は、
『 自分を磨く 』 ・・・と、格好をつけた。
格好をつけたがるは、若い力ゆえのもの
「 己が気持ちに素直に生きる 」
その方が、楽に決っている。
然し、それは出来ない、やっちゃあいけないと
若い力が邪魔をするのである。
自分を磨くことこそが、夢を追いかけることに繋がる
そう、確信したのである、これが人生と
そんな二人が、堂島川の護岸に坐ったのである。・・・若い頃


長野卓夫  ナガノタクオ
1973年 ・・・チェリッシュの悦ちゃん
 ・・・旅情 ・ 兼六園
 ・・・心の旅 
1974年 ・・・歴史との出逢い 
1975年 ・・・「サークル」 

昭和50年9月、私は斯の時の想いを
『俺は自尊心の強い男』 と題する小編の中に「 男のロマン 」 として綴った
私の拙文を吟読した親友・長野は、次の感想文を綴ってよこした

斯の頃
親友・長野が謂う 「 力の方向 」
私と彼の 「力の方向 」 は、次元が異なっていた
だから  現実主義の彼に、私の「 男のロマン 」 なぞ、分るべくもない
それは、 私が 彼の 「力の方向 」 を、理解できなかったように   
・・・男のロマン・生涯一の大風景

 
長野君の小冊 1975.12.29 
 ・・長野卓夫 著  ノンタイトル ( 上記タイトルは私が名付けたもの )
昭和51年 ( 1976年 ) 1月9日 ( 金 ) 謹呈さる
以後、幾度と読む・・も、読み熟せない。
46年経ち 68歳の而今、ちっとも不易ない。
長野君の小册
・ 
長野君の小册 ・ 1 『 空虚の裏側に充実の存在に気づいた 』 
・ 長野君の小册 ・ 2 『 気晴らし 』 
・ 長野君の小册 ・ 3 『 自我の眼差し 』 
本編は、吾偏見で以て原作を読み、亦 独断で以て 『 写書 』 したもの。
だから原作とは、多少? 変質したものになったかも知れない。 
1977年
・・・ほう・・・、それで、親孝行とは如何ですか

・・・「ママ、可哀そう」
・・・人 間 革 命 
  ・・・
自尊心を問う 1977.3.11


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