中村君
四月四日の朝、
當番で僕が机の上をふいてゐると、
先生が知らない生徒を一人つれてお出でになりました。
「 ここがあなたの教室です。せきはあれにします。」
といつて、此の間からあいてゐたせきをおさしになりました。
さうして 「 山田さん 」 とおよびになりましたから、「 はい 」 と答へますと、
「 此の方は中村さんといふ人で、今度遠い所から來て、今日から此の級へはいる方です。」
とおつしやいました。
又中村君には、
「 これは級長の山田さんです。分らないことは此の方におききなさい。」
と おつしやいました。
私ども二人はていねいにおじぎをしました。
中村君は色が黒くて、まるまると太つてゐます。
氣がさつぱりしてゐて、二三日たつと、前からの友だちのやうになりました。
中村君がこれまで居た所は日本の南の方で、冬でもめつたに雪のふることがなく、
うめやさくらも、こちらよりはずつと早くさくさうです。
何でも汽車に二日二ばん乗通しで、こちらへ着いたのださうですから、
何百里かはなれてゐるのでせう。
こちらは今さくらのさかりですが、あちらでは、もうとうにちつてしまつたさうです。
ある日、僕がうんどう場へ出て見ると、中村君が泣いてゐました。
聞けば級のものが二三人で、中村君を 生いきだ といつて、いぢめたのださうです。
僕は
「 君、しつかりしたまへ。日本の男は泣くものではない。」
といつて、力をつけてやりました。
中村君は學問もよく出來るし、うんどうも上手です。
僕は自分よりえらい友だちを大ぜいしていぢめるのは、男らしくないと思ひます。
戦前の教科書
国語読本巻五 第二課 ( 三年生用 ) から
昔は首席の者が級長と為った。
選挙で選ばれた学級委員とは覚悟が違うのである。
私は いじめられた覚へはないし。
亦、泣いたこともない。
そんなことより、
『 よそ者 』 扱いをされている・・・と、そう感じていた。
下記は、昭和38年度 ( 1963年度 )、
通知表に於いての、「 学習および行動その他の所見 」 である。
謂わば、担任・戸田和子先生からの 私に対してのメッセージである。
1 理数科面の頭脳良い。 暗算早い。 造形工作等創造力に富みうつくしい。
大胆でよい。宿題はできるが授業中 隣人との話はやめよう。
2 一学期より油断したようだ。勉強中に話しをするのをやめよう。
独創性に富み図工は伸びている。言語がはっきりでて頭良いのだが宿題時々忘れてくる。
素行伴に良。
3 1学期より大してかわりませんが明朗な勉強ぶりで学級会の時間よく発表しましたね。
不言実行が守られたら・・・とおもいます。
図画工作は 5 の私
毛馬の洗い堰を、写生したものが、展覧会に入選した。
当時は小学三年生迄は クレヨン画で、絵の具 ( 水彩 ) を使うようになつたのは、四年生からであった。
賞状をちゃんと保管していなかった事が悔やまれる。
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毛馬の洗堰とかんそく橋 テリトリー
300万都市・大阪
昭和38年、大阪市は人口314万人で、首都東京に次いで二番目の大都会であった。
それが亦、誇らしくもあった。
大都会大阪での生活にもようよう馴染んだ頃の2学期。
そろそろ、天真爛漫なる地金 を、発揮し始めた。
『 300万都市・大阪 』
而して
「 大阪はすごいんや 」
其は、この頃 私の脳裡に刻んだもの。
そして、そのイメージを、今だに持ち続けているのである。
「 広島は ? 」
「 日本の7大都市は、東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸、そして北九州市 」
「 北九州市が、7番目の人口100万の都市になりました 」
・・・と、戸田先生。
即座に私は、
「 広島は ( 何番目 ) ? 」 と、訊ねた。
私の問いに、
「 ウーン・・八番目かな ? 」
地名がでるたびに、私は得意に成って、「 広島は? 」 と、訊ねたのである。
これに、担任の戸田先生 ( 広島県出身のおんな先生 )
黒板にわざわざ、広島の位置関係を画き示して呉れて
「 広島は、この辺・・」
と、私に応えて呉れた。
生意気な奴
クラスの隅っこに在た 「 下田 」
私がクラスで最初に出来た友達である。
その彼に、皆が こう云った。
「 こんな奴と、友達になるな 」
「 こんな奴 」 とは、如何なる奴を謂うのであらうや。
・
クラスの皆が よそ者として、私を相手にしない。
私は、そんな皆に対して 中々馴染めなかったのだ。
言葉 ( 方言 ) の違いだけではない。
やっぱり、生活のレベルが違う。
服装然り。食べるもの然り。遊び然り。
持っている物が違った。 否、私は何も持ってはいなかったのだ。
馴染めないのはその為。・・・と、そんな風に想っていた。
しかし それは、見当違い、外れていたのである。
中学2年生で再び同じクラスになった 「 塩田 」 に、この頃の事 問うと。
「 あの頃、お前は、生意気だった。 喧々していた 」
彼はそう 答えたのである。
私の態度が気に入らなかったと言うのだ。
なんと皆は、
私の天真爛漫振りを、喧々していると捉えた。
そして亦、孤軍奮闘している私を 生意気 だと捉えたのだ。
それが、私に対する クラスの空気だったと謂うのである。
それは私には、意外、否、思いもよらぬことであった。
何も此の事、 学校だけでは無かった。
居住する地域の御近所も同じであったのだ。
「 よそもん と 付合うな 」
・・・と、なかなか 受容れて呉れなかったのである。
昭和38年 ( 1963年 )
高度成長時代の始まりし頃故、
吾 家族同様、職を求めて、地方から都会へ出てくる者は多かった。
生きていく為に、子供等に腹いっぱい飯を食わす為に、親達は必至だったのである。
しかし、それは、
元々 大阪に住んでいる者 からしたら、
吾々は 田舎者 で よそ者 で 迷惑 な 存在だったのだらう。
『 郷に入りては 郷に従え 』 と、謂う。
しかし よそ者が、
郷に受容れて貰うまでには、時間がかかるものである。
身に沁みて味わった私である。
類似・イメージ
大阪で最初の夏 ( 7月 )
淀川・城北公園付近で行われた、水都祭の花火
生まれて初めて見た 打上げ花火に、私は感動した 歓喜した
そして
クライマックス の 仕掛け花火 「 ナイアガラの滝 」
凄かった
驚いた
「 こんな 凄いの初めてじゃあ!! 」