昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

明日があるさ

2021年07月09日 22時02分10秒 | 2 男前少年 1963年~

 ケイトウ
昭和38年 ( 1963年 )
小学三年生、9歳の頃のこと、私は、夜 眠りに着くのが嫌だった。
トイレへ行きたくなかったのだ。
トイレは部屋を出て廊下のつきあたりにある。
ところが、トイレには灯りがなかった。
だから夜中に一人、トイレに行くのが怖かったのだ。
幼い妹等は母が連れて行って呉れる。
しかし、『 あんちゃん 』 の私、『 男前 』 の私、
恐ろしいから、ついて行って・・・とは、言えなかったのである。
寝る前にチャンと用を足したのに、布団に入ると もよおす。
「 さっき したばっかりなのに・・・・」
我慢すれば、我慢するほど、したくなる。
辛抱我慢の末、せっかくトイレへ行ったけれども、小便は出ない。
仕方なく、戻って布団の中で しばらくすると 又もよおすのである。
もういやになっちゃう のである。
「 ホースを便所から布団の中まで伸ばしてそれでション便したら、便所迄行かんでもええのに 」
・・・私は、そんなことで毎晩 葛藤していたのである。

訃報
夜中のトイレに対する葛藤が漸くなくなった。
もう、平気。
・・と、自信も出て来た 昭和39年 ( 1964年 ) 8月、
10歳、小学四年生の 或る夜。
ドンドンドッ 、と、戸を叩く音。
驚いて戸を開けると、血相を変えた顔で叔父が入って来た。
もっと驚いたのは、故郷に存る筈の祖父が続いて入って来たことだ。
「 どしたんな。こんな晩に。」
と、親父が訊いた。
「 ・・・・・」
薫・伯父が亡くなったこと、知らせに来たのだ。


昭和37年 ( 1962年 ) 8月、
あの和歌山でのこと。 ・・・リンク→教えたとおり、言うんで
和歌山に着いたその晩、私は三人の伯父 ( 一人は叔父 ) たちと一緒に寝ることにした。
薫・伯父が私に寝ながら話を聞かせて呉れると言う。
私は 5歳の頃 叔父たちと一緒に寝た夜、定・叔父から寝ながら 『 日本狼の絶滅 』
という話を聞かされたことがあった。
その時の楽しかった一夜を思い浮かべた私、「 それじゃあ 」 と、喜んで応えた。
ところが、これがとんでもない恐ろしい話であった。
『 怪談・田んぼの一軒家 』
「 大阪へ来る時、列車の窓から田んぼが見えたじゃろう、
ほいて、田んぼの中に家があったじゃろうが・・・・ 」
山陽本線上り、窓から見える風景は、田んぼ ばかり。
私は、田んぼに点在する一軒家の風景や、広告看板が並ぶ風景を眺めてきた。
「 その、田んぼの一軒家に住んじょった 家族の話なんじゃ。
家にはのお、
おとうさん、おかあさん、小さい赤ちゃんの三人が居ったんじゃ。
家族三人で仲よお暮しょうたんじゃ・・・けど、
ある時、おとうさんが病気で死んでしもおてのお。
残された おかあさんは、たいそう悲しんで泣いてばかり居ったそうじゃ。
その おかあさんも いつのまにか姿が見えんようになったんじゃ。
『 こりゃ、おかしい 、どうしたんじゃろ 』
村の人らが心配してのお、・・・その、田んぼの一軒家を訪ねて行ったんじゃ。
そしたらのお、その家にはのお、
赤ちゃんを抱っこした、おかあさんがおったんじゃ・・・
そのおかあさんはのお・・・やせ細ってのお、白い着物を着て、長い髪を垂らしてのお・・・
・・・赤ちゃん、よう見たら、もう死んじょる。
『 死んじょる赤ちゃんをずっと抱っこ しちょったんじゃ 』
『 気が狂うちょる 』
村のみなは それはもう 恐ろしゅうなってのう・・・ 」
伯父が さも恐ろしいげに話す。
「 いびしい !!  」
私は恐ろしくって、枕を被った。
それでも、伯父は私の耳元で尚も話を続ける。
もう二人の伯父たちは、その様子を微笑んで見ていた。
「 赤ちゃんは腐っちょってのお、体には ウジ虫が ウジョウジョ・・・ 
ほいてのお、
おかあさんが 長い髪をだらーんと垂らしたまま こっちへ向ってくるんじゃ。
うつむいた顔をあげて のお・・・ イーヒッヒッヒ・・・・ 」

斯の話、8歳の私には度が過ぎた。 

昭和38年4月、
大阪に移住して来た吾が家族。 伯父の近所に居を構えたのである。
明日は、転校初日 亦 始業式である。
不安一杯の私に、

「都会のもん はなあ、体は大きいても、力はないんじゃ」
「田舎のもん はなあ、
ちいちょうても、強いんじゃ!」
と、私を勇気づけて呉れた伯父。 
・・・リンク→びっくりしたなぁもう !!

その伯父が亡くなったのである。

訃報を聞きつけて、
祖父母、伯父・叔父、叔母と親戚の全てが伯父の家に駆け付けた。
私も親父と一緒に駆け付けたのである。
伯父の遺体はまだ家には帰って無かった。
皆は遺体が帰ってくるのを待った。誰の気持も重かった。
そんな緊張の最中に、いったい何をどう話 したらいいというのか。
誰もが黙りこくってシーンとしていたのである。
伯父の娘、二人の幼い従妹 ( 8歳と6歳 ) も、親の死に 未だピンと来ていないみたい。
いつもの様に、貢・叔父に 『 カモネギ 』 の話を従妹がすると、叔父はいつもの様に笑って愛想した。
その笑い方がいつもの笑い方より一段大げさだった。
私はそれを不思議に感じた。
がしかし、10歳の私、それがどういうことか判ろう筈もない。
そんな中、伯父の小母 ( 義伯母 )さんや、お姉ちゃん ( 叔母 ) が私を相手に絡んで来た。
皆の悲しみなぞ判ろう筈のない私が無邪気にそれに応える。
私のその無邪気な応へに、大声を上げて笑う小母さんとお姉ちゃん。
「 喜んでいる 」 と、勘違いした私、さも得意になって喋った。
そんな時、遺体が帰って来た。
すると、つい今しがた、大声で笑っていた二人、
笑い声は一転、大地も裂けんが如く、泣き叫んだのである。
私は、愕然とした。
「 さっきまで、あんなに笑っていたのに・・・・」
そして、その姿を茫然と見つづけたのである。

人が死ぬとは、殊に親兄弟が死ぬとは、・・・こういうことなのである。

この家のトイレは、家の外にあった。  そして、灯りが無かった。
夜、こわごわ用足しに向かうと、
「 ワシも一緒に行く 」・・と、祖母が追っかけて来た。
私は祖母と一緒に用を足したのである。

♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もうくる頃  もうくる頃
今日も待ちぼうけ
明日がある  明日がある  明日があるさ ♪
・・・斯の時、
従妹が口遊んでいた歌である。

幼い娘二人を抱えて、女手一人で育てて行かねばならぬ小母さん。
酷な人生であろうと、生きて行くしかないのである。

 おしろい花
トイレの傍に、従妹らが植えたものか。
おしろい花が咲いていた。

その中にひとつだけ、
真赤に咲いた鶏頭 ケイトウ の花
・・・ひと際鮮やかであった。

そして私
一時は克服したと想った、夜中のトイレでの葛藤。
又 始まったのである。


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