昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

俺の目を見ろ 何にも言うな

2022年08月01日 05時12分44秒 | 2 男前少年 1963年~

大東商店街に
「 昭映 」 という映画館があった。
昭和42年 ( 1967年 ) 正月
10歳年長の叔父に連れられて
初めて大人の映画を観た。

当時人気の東映任侠映画
「兄弟仁義・関東三兄弟 」
昭和41年 ( 1966年 ) 12月31日封切
鶴田浩二、里見浩太郎、北島三郎
村田英雄、藤純子・・出演

義理と人情の男の世界を描いたもので
小学6年生 ( 12歳 ) の、純真無垢な少年には
その印象は、強烈であった。
危険な映画だったのかも知れない。


親の血をひく兄弟よりも 固い契の義兄弟
こんな小さい盃だけど 男命をかけて飲む
命を賭けてこそ男・・と
肝に銘じたのである。


俺の目を見ろなんにも言うな  男同志の胸のうち
ひとりぐらいはこういう馬鹿が  いなきゃ世間の目が覚めぬ
若き日の北島三郎が歌う 「 兄弟仁義 」
この文句に シビレタ のである。


義理だ恩だと並べてみたら  恋の出てくるすきがない
後はたのむと駆け出す路地に  降るはあの娘のなみだ雨
若き日の藤純子、演じる 「 あの娘 」
なんと可愛いあの娘 
女は斯くの如きもの・・・と、そう想ったのである。

私は、感動してしまった。
それは、吾心に響いたのである。
理不尽で卑怯な悪党に対して
辛抱・我慢の果てに
敢然と立ち向かう侠客の姿を
カッコイイ と、そう想った。
これぞ、男の中の男
・・・と、
これぞ、男の世界   ・・・と、
憧れを持った。
そう想う自分を、カッコイイ・・と、男前だと、
・・・そう想ったのである。

 昭和42年1月1日
男が カッコウ を ツケル ・・・とは、
生命を賭ける  ・・・とは、
如何いう事なのであらうか。
それは
何も、任侠の世界と謂う特殊な世界のものだけに限るまい。
キッタハッタのヤクザな行動や、用語を取除いて
或は、置き換えて観らば
そこに有るは、真実 ( マコト ) 己の姿であらう。
・・・リンク→おんな せんせい

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男前少年 と おんなせんせい

2022年07月26日 05時47分00秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和38年 ( 1963年 ) に、大都会大阪に移住した。
その頃は未だ、国全体が貧しい時代でもあった。
とは雖も、
大都会 ・大阪と広島、それも片田舎とでは、その生活格差は大きかった。
広島に在た頃 気にも掛けなかった日常生活そのものが、
ここ大阪では貧しいものと、思い知らされ、
私は劣等感を持ってしまった。


昭和40年 ( 1965年 ) 四月
私は、小学5年生に成った。
新学年 恒例のクラス替え。 (  ・・二年毎に行われる  )
新しい クラスは、5年2組。 担任は、おんなせんせい、である。
これから 5年生、6年生の二年間、彼らと人生を共にするのだ。


担任の
おんなせんせい、
家庭訪問の際、私ら家族の住まいを見て貧しいと認定した。
学校から文房具、靴、日用品、等が支給されるようになった。
しかしそれは、私には至極迷惑な事であった。
秋の運動会に於て、5年生全員が行う演目はプロムナード ( 行進 )。
トラックを、周ったり、交叉したり、すれ違ったり、 ( ・・・適当な横文字が想い付かない)
先生も、児童生徒も一丸となって演習したのである。
演習を終えると、全員が集合した。
その場で 「 十河先生 」
「 誰々は、明日 ハンコ 持って職員室に来る事 」
私の名前も読み上げられた。
「 あれ貰うんやで、あのこら  」 ・・・と、囁く声。
私は恥ずかしかった。
「 何もこんなところで、しかも、皆の前で・・」
私は、心の中で そう呟いた。

国勢調査の一環に準じたものか、そんな類の家
庭環境調査があった。  (たぐい)
先生の問いかけに、吾々が席を立って応える形式を採った。
「 住いでいる家が、持家の人 」
「 ハイ 」 ・・・と、数人が立つ。
「 借家の人 」
「 ハイ 」 ・・・と、大勢が立った。
私も立った。 (  契約上は、一応、○○アパート であった から )
その時、当時はハイカラである公団住宅に住む 吉井と 偶々目が合った。
私は ニヤッ と 笑った。 吉井も ニヤッ と 笑った。
共に同じであることが なんとなく嬉しかったのだ。
そんな二人の遣り取り おかまいなく、
おんなせんせい、
「 花田君は 間借り だから 違う 、 座りなさい 」
・・・と、咎められてしまった。
私は、吉井の手前 頗るバツ が悪かった。
「 家賃を払っているのに 」
私は、心の中で そう呟いた。

男前少年
昭和41年 ( 1966年 ) 六年生になった私は、
一学期の学級委員に選ばれた。
 




男女一名ずつ 学期毎に投票で選ばれる。
立候補はしない。 が然し 概ね
成績の良い者が選ばれた。
学級委員は男子のみで、女子は副委員だった。

表を読み上げる おんなせんせい、
「 なんで、ハナダ君 こんなに多いの ・・?」
どういう 意味で云ったのだろうか。
「 学級委員になったら あかんのか 」
私は、ひねくれた。


昭和41年 ( 1966年 ) 7月、臨海学校は 「 天ノ橋立 」 へ   
旅館の窓から、水鏡に写った 「 天ノ橋立 」 が見えた。 
「 絵に為る風景やな 」
・・・と、綺麗な風景を見て嬉しくなった私が云うと

「 ほんまに、絵に為る風景やな 」
・・・と、傍に居た安宅が、応えた。

( 安宅・・びっくりしたなぁもう !! ・・学級委員選挙に登場 )
写真  私は中列女子の横  私の前が吉井 
麦わら帽子の男先生が寺島先生 ( 寺島先生・・ 「目にあたらんで、よかったなぁ」
「 学級委員 ! 報告せよ ! 」 と、寺島先生
先生の正面に一人立ち 頭中 敬礼の私
「 報告、2組全員無事に海から上がりました ! 」
「 良し ! 」
その後の集合写真である。

長時間バスでの往路は、
やっぱり、バスに酔った。
されど
翌日からは元気一杯の私。
バスでの移動時、
意気揚々とバスに乗り込んだ私に、
おんなせんせい、
「 学級委員、点呼したの ? 」
「 おーい、みんな居るやろ ? 」
「 遅い ! !  点呼は、バスに乗る前に行いなさい ! 」
「 それに、今のは点呼に成っていない ! 」
「 ハイ  ! 」
・・・と、明るく元気よく 応えた私である。
 
クリック
左から6人目が 荒井 ・・右から二人目が tei

さて
私の任期が終わり
二学期の学級委員が選ばれた。
温厚で優しいヤツであった。
「 そんな事で学級委員が務まるの 」
「 そんな事なら学級委員 辞めてしまえ 」
おんなせんせい、
クラスの皆の前で、彼を罵倒する。
ホームルームの司会は男、女は書記と決まっていたが、
気に入らないとその役割を平気で変えた。

当時はまだ、
『 男は男らしく 女は女らしく 』 ・・・と、そういった時代であった。
男は女より 偉くて、カッコいいもの
・・・と、私はそう想っていた。

前任の私は、
しょげている彼に頗る同情したのである。
義侠心が湧いた。
「 お前、あれだけ言われているんやから 学級委員やめろ 」
「 おれ やったら 先生の前で 証状 やぶいたるワ 」
私は男前であった。
これに、他の男子も同調したのである。

ところが これを
おんなせんせい、 に
『 告げ口 』 をした女子がいた。 ( ・・ それが彼女の正義だった )
私と学級委員を務めた女子である。

彼女は人気、実力ともに トップの優等生。
そして児童会の会長。
所謂  『 エエトコの子 』 でもあった。 ・・・リンク→学芸会 
おんなせんせい、からの信頼も 大に 厚かった。
しかし 自他共に認める 「 ナンバーワン 」 の彼女にとって私は、
日頃から 『 眼の上のコブ 』 の存在であったのだらう。
だから、他の男子を巻き込んで騒いでいる私が、気に入らなかったのである。

男気を出しすぎた。

放課後、
首魁三人 ( 私、tei 、荒井 ) 並んで、教師机の前に立たされた。
先生は椅子に腰かけている。
「 最近のあなた達、特に花田君の態度が目に余る、
一度こらしめてやって・・
と、女子が云っている 」 
女子がどんな風に告げ口したかは知らない。
しかし・・「 そんな言いぐさが あろうか 」  ・・・この時そう想った。

おんなせんせい、からすると
教師である自分への、 謂わば叛乱である。
おんなせんせい、メンツにかけて反省を求めてきた。

クラスの皆は教室の掃除をしながらこちらを伺っている。

当時の教師は権威があった。
「 先生は偉い人 」
児童生徒は、大人の教師に対して畏敬の念を懐いていた。

「 何処が悪い 」 ・・・そう想っていた。
他の二人も同じ想いであったらう。

ところが 斯の二人、
先生の怒りに怖れを為し 意気消沈、
素直に反省の意を表したのである。
最後に私、彼らに続き、
「 右に同じ 」
・・・と、そう告げた。
ところがこの文言が まずかった。
おんなせんせい、これを 「 反省していない 」 と 受取ったのだ。
「 他の二人に追随しただけ 」 ・・・と。 ( さもあらん )

従順した彼等は放免された。
私は依然として立たされたまま

クラスの皆の視線を背中 (せな) で感じた。

「 謝りなさい 」
怒りのこもった言葉であった。
「 そんなもん、
受容れられるものか 」
・・・そう想った。
だから私は、何も言わなかった。
次の瞬間、
往復ピンタをくらったのである。
こともあらうに、皆が見ている中だ。
「 如何して 殴られる 」
・・・そう想った。

私は不覚にも、泪してしまった。
この時、
「 一度こらしめてやって 」
・・・と、告げ口した女子は、
どんな想いで 私を見ていたのであらうや。
日頃、「 女の前で泣いた事は無い 」
・・・と、豪語していた私
「 負けた 」
・・・そう想った。

私の男前は飛ばされてしまった。




求められ、
反省文を提出して
一件、落着。



『 渥美清の 泣いてたまるか 』
この頃
視ていたテレビドラマである。


空がないたら 雨になる 
山が泣くときゃ 水が出る
俺が 泣いても 何にも出ない
意地が 涙を 泣いて 泣いて たまるかよ
通せんぼ ♪


『 一件、落着 』
・・・ ・・・
私の心懐に
そんなもの
あるものか

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紅白歌合戦を風呂屋で観る

2022年07月15日 05時05分05秒 | 2 男前少年 1963年~

「 お金も 着物も いりますわ 
あなた一人が 邪魔なのよ 
・・・やてー 」
昭和40年 ( 1965年 ) 元旦
偶々、一級上の 「 島崎タエちゃん 」 と、顔を合わせた。
私は、開口一番 こう言ったのである。

新年の挨拶もろくにせず
専らの話題は、
大晦日の紅白歌合戦
殊に
和田弘とマヒナスターズが歌った 「 お座敷小唄 」
吾々10歳の少年も、最初から最後まで歌った曲である。
その、最後のフレーズを変えて歌ったのだ。
それが、吾々子供にも ウケタ のである。

 イメージ

お座敷小唄 が終わると
家から2分
私は独り、風呂屋へ走った。
一年の垢 ・・未だ、落としていなかったのである。
「 子供は早様 風呂 行っとかんからじゃ 」
・・・と、親父に叱られた。
けれども、
大晦日は特に見たい番組が多かった。

「 今なら、(風呂屋) 空いている 」      (スイテイル)
・・
案の定、風呂屋はガラガラ
否、人っ子一人 居なかったのである。
貸切の風呂屋で、一年の垢を落とした私。
風呂から上がって、
脱衣場の壁に掛かったテレビを視ると、
ザ・ピーナッツ が 歌う 「 ウナ・セラ・ディ・東京 」
・・・
が、流れていた。


街は いつでも
後ろ姿の 幸せばかり
ウナ セラ ディ東京
ム ・・・

私は、
貸切りになった
風呂屋で一人
しみじみ、と 聞いたのである。

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山田 浩 「 男は泣いたら アカン 」

2022年07月14日 18時46分56秒 | 2 男前少年 1963年~


大阪での友達 第一号

つい昨日までは、
山や海で、天真爛漫の地金を如何なく発揮していた私、
大阪に来てからは、発揮する術 スベ も、テリトリーも無かった。
そんな私を観て、さすがに不憫と想ったか。
親父は、旭区赤川三丁目の市電通で店を探し歩いて、黒いグローブを買って呉れた。
念願の myグローブは、こうした形で手にしたのである。
然し、友達はそう簡単に出来るものか。
独り、
家の前にある、コークリートの万年塀に、
ボールを投げては返ってくるボールを拾う、
「 一人キャッチボール 」・・を、するしかなかったのである。
これが、私の日課になった。

そんなある日のこと、
いつもの様に
塀を相手にキャッチボールをしている私に、

「 こんど 引っ越して来た児か ? 」
そう、声をかけながら 私の顔を覗く斯の人。
近所に住む、二級上の5年生、市川のヨッチャン であった。
私にとっては、「 救世主現る 」 であった。 そう、想った。
知る人一人もいなかった私、それが どれほど感激なことであったか。
そして、キャッチボールをしたり、バッテイングしたり、楽しい時間を過ごしたのである。
然し、そんなこともそれっきり、後にも先にも、彼とは この一度っきりであった。
再び 私はいつもの、「 塀を相手に一人キャッチボール 」 に戻ったのだ。
然し、そんな私の姿を観ていた者がいた。

そして ある日、
そいつは 
いつもの様に、
「 一人キャッチボール 」 する私に近づいて来ると、
私の横で 塀に向かってボールを投げたのである。
「 あそぼ 」
どちらが言ったかは覚えちゃあいない・・・・
そいつは、隣りに住む一級下の 山田浩 であった
此がきっかけとなり、友達として 共に遊ぶ様になったのである

然し
これには理由があった。

「 遊んでやってほしい 」 ・・と
友達のいない私を心配して、母が近所を回って呉れていたのだ。
彼等はそれに、応えて呉れたのである。
このこと、私は後で知った

昭和38年10月運動会の日の登校前 
岩中オサムチャン、山田浩、犬の名ゼット ( 野良犬・名は私と山田とで銘々す )
「 一人キャッチボール 」 を、日課にしていた処である。
右に久田さん家の壁、
万年塀側からの撮影で撮影は大家の息子 「 ボン 」・・・だと思う
大阪に来てやっと地域に馴染んできた頃の一コマである。

 昭和39年運動会
山田 浩
なんといっても、
彼との一番の想い出は 「 鳥飼大橋までのマラソン 」
・・・・
日が沈むと、あっという間に暗くなった。
城北公園まで帰って来た頃には、廻りが、まっ暗になっていた。
暗闇の堤防、ひとっこ一人り居ない。
「 どうしやう 」
来た経路 ( ミチ ) で、帰ることしか頭になかった。
「 これが一番の近道 」 ・・と、自分に言い聞かせていたのである。
然し
灯りの無い堤防は、まっ暗で歩けない。
これ以上進めない。
4年生・山田泣き出した。
「 男は泣いたら、アカン 」
・・・・

この続きは、リンク→あっという間に日が落ちて


個人文集 『 鷹 』
昭和42年 ( 1967年 )、
中学一年生の時、
国語の課題で編さんしたもの。
その中の一文に、彼との別れを綴ったものがある。

「 友との別れ 」    花田幸徳
僕が小学校三年の時大阪に移住してきた。
その時の一番最初友達になった。

僕より年の一つ下の山田浩という子。
初めての友達なのでうれしかった。

僕も野球が好きで山田も好きだった。
毎日いっしょにキャッチボールをしたりした。

夏になると公園で野球をやっていつもいっしょだった。
フロもいっしょにいった。
ある日 フロでいっしょに体を洗っていたら、兄弟かといわれた。
これほど仲が良く 僕も弟のように思って遊んだりした。
だから、あいつがどこかえいっている時は、さみしくてたまらなかった。
勉強学校も そろばん も同じ所でいっしょにいった。
山田がひっこすことになった。
僕は 「 ガン 」ときた。

その日は一度も顔を合せてなかった。
その夜、僕はフロに行った。
フロの中で、
「 このフロにいっしょに はいったな。」
と思うと僕は泣きそうになった。
野球をやっても全々おもしろくない。
僕があいつに、いつも、いっていた 「 山田、何やってんね、もっと体低くせえ !
が思い出させる。
親しい友達と別れるということが、こんなにつらいということを体験した。
僕は今、あいつがいたらと思うことがある。
いつか あいつと野球ができることを願う。

斯の作文、読めば
二人の関係がどれほどのものだったか推して知るべしであらう。
いつも一緒だった。 ・・・のに。
吾人生
最初の、「 友との別れ 」 ・・・である。

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学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」

2022年07月13日 10時53分00秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和41年 (1966年 ) 10月27日~28日
小学六年生の修学旅行は伊勢へ
ここまでは、元気一杯の生活を送っていた。
ところが・・・・。

斯の写真  調子に乗って 「 チーズ 」 と、言って撮ったもの
二列目 左端に tei  一人おいて 私  私から二人目が本田 ( 帰りの近鉄の駅で共に 『 連れ便 』 をした仲 )
私と tei 共に大東商店街の 「 ハルミヤ 」 で購入したる ダイヤ柄のカーディガンを着ている。
「 同じ服を着ている 」 ・・・と、盛り上がったは 55年前 遙か遠き哉 。
後列左から3番目が 「 友ガキ・舟木 」  6番目が千葉  前列 右端が 佐賀さん

左端に、「 友ガキ・舟木 」
こういうスナップ写真に、彼は よく写っている。
「 すぐ隣りに居ったのに 」 ・・・つくづく、写真運のない私である。


昭和41年 ( 1966年 ) 11月のこと
金曜日の夕方、
新道湯の浴槽カランで遊んでいるところへ、偶々親父が入って来た。
これまで、斯の時間帯に親父が風呂に来ることは無かった。
「 なに しょうるんな 」
間の悪い時とは、こういう時なのであろう。
「 背中を流せ 」 と、親父、
吾 生涯で一度っきり、親父の背中を洗った時である。

深夜
遠くでサイレンの音がして目が覚めた。
サイレンの数が増して来る。
相当数の消防車が駆けつけているのであろう。
東面の窓ガラスが赤い。
「 火事じゃ、何処じゃろう 」

親父が窓を開けると、暗闇の中 東の空が紅に染まっていた。
親父が昂奮の面持ちで叫んだ。
「 鐘紡じゃあ、鐘紡が火事なんじゃあ !!
・・・と、その時
「 幸徳、どしたんな 」
・・・と、私の顔を覗きこんだ。
顔がむくんでいたのである。 それは尋常ではなかった。
人相が変るくらい、むくんでいたのである。
もう、『 対岸の火事 』 どころじゃない。

「 これは、大事じゃ 」
よっぽどの大病
と親父が必死になった。
「 大きなところで診てもらわにゃだめじゃ 」
・・・と そう言って、
暁払い一番、大東町の 「 大道医院 」 へ 走った。
斯の病院、鉄筋コンクリート造3階建で入院も出来る。
町内では 大きな病院と目されていたのである。
ところが 院長
「 腎臓が悪い。 ( 12歳 ) 子供の病気は難しい。うちでは診ることができない 」
・・・と、眉間に皺を寄せて言った。
私は黙ってそれを聞いていたのである。
一時も惜しい。
親父は機敏だった。
大道医院を出ると 直ぐに 市電通りに出た。
そして一直線、高倉町の ツジ病院へ 走ったのだ。
大きな病院であった。
大勢の人が居た。そして長い時間待たされた。
あれだけ むくんでいた顔も いつのまにか引いていた。
やっとのことで、診てもらったところ、
 「 うちでは 診れなない 」
・・・と、同じことを云う。
日赤病院へ行って呉れと 云うのだ。
「 そんなにすごい 病気なのか 」 ・・不安が募った。
「 日赤病院へ行こう 」
親父はそう決意した。然し、此の日は土曜日だった。 昼は過ぎていた。
これから駆け付けても間に合わない。
明日は日曜日、日を改めることができるものか。
一刻も早く治療をしなければ。
「 こうなったら 」 ・・・・と。
普段親父が診てもらっている 毛馬町の 「 吉村医院 」 へ走った。
医師一人、看護婦一人の、所謂・医院である。
「 急性の腎臓炎。 
  風邪を引いたことで、喉から入った黴菌が腎臓に廻ったんだろう。
  タンパクが降りている 」
・・・との診断に
「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」 ・・・と親父。
( 今更そんなこと 言われても・・・而も此処で云うか )
「 先生、治りますか 」
既に、二つの病院で 「 診れない 」 と云われている。
平然としておれる親はいない。親父は必死だった。
「 先生 どうか助けやってください 」

・・・・次頁  学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」  に、続く。

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学校を休む ・ 2 「 闘病とは辛抱我慢すること 」

2022年07月12日 04時56分36秒 | 2 男前少年 1963年~

翌年の昭和42年 ( 1967年 ) 正月
クラスメート・ 佐賀さんから届いたた年賀状


前頁
学校を休む ・ 1 「 その顔、どしたんな 」 の続き。

「 私が、治してあげます 」
吉村先生のこの言葉は、力強かった。そして勇気を与えた。
私も、親父も、どれだけ安堵したことか。

これから通院。

毎日、朝一番に尿を採った。
そしてそれを 「 吉村医院 」 に、持って行く。
タンパクの有無を調べる為である。

車椅子など無かった時代のこと。 移動は 「 乳母車 」。
いったい どこから調達したのであらうや。
それを、母が押した。


病気の治療は、専ら食事療法。

タンパク質は駄目、油脂も駄目、糖分も駄目、刺激物も駄目、
そして、塩分は以ての外だと謂う。

腎臓を浄化するために水分は採るように・・・と、( 此の当時はそれが良しとされていた )
「 スイカ があったら食べられたのに 」
スイカなら一石二鳥だったのに、冬にスイカがあるものか。

薬局で無塩醤油を買った。

食べるものと謂えば、お粥と野菜。
「 ♪ キャベツばかりを かじっていた 」

特別に、
栄養補給としてアリナミンを食後に一錠飲んだ。

さぞや 高価なものだったであらうに。
表面の黄色の部分は甘いけれど、中味はニンニクのような 不快な味がした。
甘いもん欲しさに 舐めていて そのことを知ったのである。
片栗粉に熱湯を注ぎ、少々の砂糖を加えて混ぜると、透明のゼリーができる。
それが 唯一の甘い食べ物であった。

家族が焼肉を食べているところへ、偶々 叔父が遣って来たことがある。
「 病人の前でそんなもん喰うて、可哀想な 」
「 幸徳は大丈夫じゃ 」 ・・・と、親父。
家族が美味しいものを食べている・・も、気にはならなかった。
「 仕方のないこと 」 ・・・そう想っていたのである。

 
宇宙家族ロビンソン
この頃 視たテレビ番組である
然し、テレビは長い時間見ることは出来なかった。
頭が重くなったからである。


眠れぬ夜
吾 闘病とは、辛抱我慢すること。
自然治癒力に任せて只管 恢復を俟つことである。

「 一晩辛抱したら、明日は病院に行ける 」
具合が悪く成った時、それを支えに我慢した。

土曜日の晩は嫌だった。
辛抱したとて翌日は日曜日、病院が無い。
心がめげて弱虫が湧いてきた。

眠れない夜が 屡々あった。

テレビの劇中、頭を抱え苦悩するシーンを見ることがある。
言葉が繰返すごとに大きくなって、しかも重なって 襲ってくる・・・というもの。
これに似ている症状、それはいつも突然襲って来た。

脳波の乱れか、目眩の症状か、・・・・。

脳中の症状を文章で表すことなぞできるものか。

その症状は私を悩ませた。
このまま意識が 何処かに行ってしまう ・・・。

うん !!
そう 発声することで、弱虫を祓おうとした。

天井の一点を ジッと見つめ  症状が治まるのをただ只管俟った。

凝視することで無心になろうとしたのである。

斯の症状
中学生になっても、高校生になっても、時折これに 見舞われた 。

それは、成人しても尚暫く続いたのである 。
原因が何かは判らない。

兎に角 私は
嵐が過ぎ去るまで、辛抱した。 我慢した。
眠れぬ一晩を一人で堪えた。

「 コンコンコンコ・・・」
母が庖丁で俎板を叩く音が聞こえる。
「 お母ちゃんが起きた 」
・・・そう想うと、眠れた。

   
「 吉村医院 」 の並びに、「永田 」 という書店があった。
 週刊 「 少年マガジン 」 「 少年サンデー 」 「 少年キング 」
一冊50円程しただろうか、診察しての帰り、購入して貰った 漫画本である。

通院も一ヶ月半
暗くて長いトンネルも、いつまでも続く筈はない・・・

先生
いつもの様に、試験管を振っている
そして
「 もう、タンパクは出とらん 」 ・・・と。

完治した。

「 味噌汁 」
こんなに美味いものなのか
・・・そう想った。


吉村医院の院長、
洋もく  『 HALF and HALF 』 をパイプで吸っていた 。
「 シガレット 」 を、お歳暮として贈ったら、
たいそう喜ばれたことを覚えている 。

「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」
・・・と、親父が言った。

もし あれが 病気への キッカケならば、

風呂で遊んでおらなければ、病気にはならなかったのか。
・・・・そんなことを考えても それは詮無いこと、
成るべくして病気に成ってしまったのだ。

「 風呂で遊びょうるきんじゃ 」
普段からのそういった行動が積重なって、そして許容限度を越えた時、
その因果は溢れ、その結果 病気に成るのである。
親父の云いたかったは、此の事なのである。

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あっという間に日が落ちて

2021年09月27日 04時07分41秒 | 2 男前少年 1963年~


    昭和39年 ( 1964年 ) 10月  私と山田

あっという間に日が落ちて
昭和和40年 ( 1965年 ) 10月終わりの土曜日
小学校4年生 ・山田、
5年生 (私)、
6年生・有原、の3人
淀川の堤防を、
毛馬から鳥飼大橋まで、
約8km 
マラソン しよう、という事に成った。
3人中、6年生・有原しか、
鳥飼大橋まで行った経験が無い。

淀川小学校では毎年、冬の3学期、耐寒訓練と称して淀川を走った
ゴールを学年に応じて決めていて、
5,6年生 男子は、鳥飼大橋まで、
3,4年生、5、6年生女子は、城北公園付近の河川敷 ( 今のラグビー場付近 )、
1,2年生は、学校内の運動場を駆ける
・・・と、そう謂うものであった
それは、午前中に行われた

昼飯を済ますと、3人は出発した。
家から、淀川小学校前を通り
北毛馬公園 ( 現、毛馬中央公園 )、
淀川中学校前を通って、淀川の堤防に上がる。

いざゆかん
意気揚々、走りだしたのである。
右に、
桜ノ宮高校のグランド

公団都島団地
左に、
赤川鉄橋
・・・
と、駆け抜けて、調子が良い。
城北公園にさしかかり、しばらく徒歩に。

イメージは 昭和55年 ( 1 9 8 0 年 ) 頃 ?   城北公園 
物語の 昭和40年 ( 1 9 6 5 年 )  当時は 豊里大橋 も 阪神高速道路も無かった


太子橋 ( 現、豊里大橋付近・昭和45年建造 ) 付近から又、走りだす。
家からだと、かなりの距離である。
ではあるが、
振り向くと、赤川鉄橋も見える。
此の辺りまでは、遠い とは、感じなかった。
ここから先、淀川が大きく蛇行する。

八雲 ( 守口市 ) まで来ると、
さすがに遠い処まで来たと実感するのである。
振り向けど、
赤川鉄橋はもう見えない。
さすがに、不安に成ってくる。
「 遠くまで、来た・・・」
八雲を過ぎると、前方に鳥飼大橋の姿が見える。
あと、すこし
走ったり、歩いたり、休憩したり
長道中ではあったが、
やっとのこと
鳥飼大橋に辿り着いた。

どのくらい、時間が掛かったかは、判らない。
時間なんて、気にも掛けていなかったのだ。
そもそも
時間の意識は無かったのだから。


ゲルバートラス橋の鳥飼大橋
1954年建造で、私と同い年
2006年 撮影

小休止終了
「 さあ、引き返そう 」
日は、未だ高い
高い と、想った。
 類似イメージ
秋の淀川、きれいな景色だった。
八雲付近で河川敷に降りると、
暫らく、河川敷を歩く。
「 クッツキムシ を探そう 」           ( クッツキムシ ・・オナモミ  )   
見つけると、
お互いに投げ合った。
3人は良い気分で歩いていたのである。
されど、時間の意識がない。

 類似イメージ
豊里大橋下から菅原城北大橋を撮影 ・・ 2006年
菅原城北大橋は当時は無い

河川敷から観た夕焼け、・・キレイだった
「 もう、夕方かァ ・・」
そこで、初めて、時間を意識したのである。
・・・
夕日も山に懸かっていない ・・し
「 大丈夫 」
そう、思いたかった。
3人から言葉がなくなった。
誰もが同じ気持ちなのである。
3人は黙ったまま、歩く
焦っているのに、気は逸るのに、もう走れない。

類似イメージ
「 どうしよう・・・」
日が山に懸かり始めた。
それでも、廻りは未だ明るい。
大丈夫、暗くなるまで、未だ、時間はある
・・・
そう、思った。

類似イメージ
而して
落日は速かった。
日が山に懸かり始めてから、
ほんの
2,3分 で、日が沈んだのである。
日が沈むと、
あっという間に暗くなった。

城北公園まで帰って来た頃には、廻りが、まっ暗になっていた。
暗闇の堤防、ひとっこ一人り居ない。
「 どうしやう 」
来た経路 ( ミチ )で、帰ることしか頭になかった。
「 これが一番の近道 」
・・・と、自分に言い聞かせていたのである。
然し
灯りの無い堤防は、まっ暗で歩けない。
これ以上進めない。
4年生・山田、泣き出した。
「 男は泣いたら、アカン 」
「 暗い 」 ・・・と、いう恐怖
その恐怖心が、パニックにする。
ちゃんとした状況判断を出来なくするのである。
然し
城北公園まで辿り着いていたことが幸運だった。
遊びに ( 連れられて ) 来た事があったのだ。
「 知っている 」 ・・・という、安心感が、
「 堤防を降りる 」 ・・・という、発想を生んだ。
城北公園から家の方角がイメージできたのである。
イメージした方向を 「 勘 」 で歩く。
街灯なぞない薄暗い道路を三人は黙々と歩いた。
そして、イメージどおり
赤川鉄橋・城東貨物線のガードまで辿り着いたのである。
ガードを くぐると、吾テリトリーである。
出発地点に着くと、薄暗い道端で 4年生・山田の母親が心配して立っていた。
山田、母親の胸の中へ
私の母親は、このことを知らない。

翌年の冬の耐寒訓練
私は鳥飼大橋まで、大勢の 6年生と一緒に走った。
「 川の向う ( 対岸 ) は、吹田ヤデ 」
・・・6年生が言った。
皆が一斉に
「 おなか!」 「 スイタ!」
「 おなか!」  「 スイタ!」
・・・そう、
掛け声をだして走ったのである。
・・調子に乗って
鳥飼大橋に着いて、小休止
堤防の土手の直ぐ際まで 「 ワンド 」に、なっていた。
土手の下に降りた私は、川の水で のどの渇きを癒やした。
それはもう、おいしかった。

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白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」

2021年09月11日 02時18分04秒 | 2 男前少年 1963年~


昭和41年 ( 1966年 ) 10月
わが 淀川小学校の 「 秋の大運動会 」 が行われた。
競技は
紅白に分かれて戦かった。
私は、白組であった。
そしてそれは亦、小学生最後の運動会でもあった。

何と謂っても、此年の目玉は
六年生男児・・吾々の行った
相撲体操
皆で、ふんどし締めて 四股を踏んだのである。 ( 褌は晒で拵えた )
そして、最後に形だけの取組みをした。
相撲の強かった私、小柄なれどクラスの横綱は周知の事実。
( 得意技は すくい投げ・・自慢であった )
・・・身長134cm ( 6年生時 )
だから、演武とは謂え、此は大に不満であった。
「 もっと相撲を取らせて欲しかった 」
・・・のである。


男は男らしく・・・女は女らしく
吾々の時代
質実剛健、優美髙妙、男女別ありて然り・・・・此が、信条であった。
騎馬戦、棒倒し は、男児の定番 その勇ましい姿を披露した。
そして女子は、踊り以て編む優雅な姿を見せた。
男と女の力の差
運動能力の差は歴然としていたのである。
( だからといって、此を差別と言うなよ。 区別と言えよ )

五年生男児の棒倒し              優美な姿の女子
( 六年生男児は騎馬戦 )


クライマックス は
楽しかった運動会も 愈々 ラストプログラム。
吾ら 六年生男子の組立体操で幕を閉じるのだ。
トンボ、サボテン、扇、タワー、・・・・
練習した成果を出し切ろうと、皆一丸となって頑張った。
クライマックスは、 5-3-2-1 のピラミッド 。  ( 私は、3の位置 )
組み上がったピラミッド。 どのピラミッドも それは堅固であった。
そして、
お立ち台の先生から号令がかかる。
「 ピーッ ! 」  ・・・『 頭、右 』
「 ピッ ! 」  ・・・『 頭、中 』
「 ピーッ ! 」  ・・・『 頭、左 』
「 ピッ ! 」  ・・・『 頭、中 』
そして、
「 ピーッ !!!
・・・と、一段と高い号令。
吾々は、
一斉に腹這いになって、ピラミッドを崩した。
巧くできた。
「 やったー 」・・・心でそう叫んだ。 
「 オオーッ 」 ・・・どよめきが起きた。
そしてそれは
「 よく やった 」 ・・・と、大歓声に変わったのである。
会場は もう ヤンヤ ヤンヤの 拍手大喝采。
「 してやったり !!
誰もが興奮の面持ちであった。
茲で吾々は、
大なる達成感を味わったのだ。
そして、意気揚々と引き揚げたのである。

興奮さめやらぬ
そんな中、
「 花田君  」
・・・と、おんなせんせい。
「 白組が勝ったら、あなたが優勝旗を取りに行きなさい 」
「 負けたら、準優勝楯は ○○さんが取りに行くことになってるから 」
・・・と、告げたのである。
○○さん・・とは、一学期 共に学級委員を担った女子のこと。
児童会会長でもある スーパーエリート。  ・・・リンク→おんな せんせい
然し 吾々の 斯の時代、
晴れの舞台は、やっぱり男児だったのである。

全てのプログラムを終えて、
全校生徒が運動場へ集合した。
愈々結果の発表が為される。
「 白組優勝 」
・・・と、アナウンスされたのである。
果して、白組が勝った。
私は徐に列を離れた。
そして 縦列の間を一人 小走り、前へ、前へ、進んだ。
皆が私を見つめていること、背中 せな で感じた。
そして、全校生徒の中央 ・一番前に立った。
私の正面には、お立ち台に立つ校長。
優勝旗を抱えて、私が来るのを待っていた。
私は校長の正面に進み出た。
全校生徒が見つめている。  父兄も見つめている。  全ての人が見つめている。

秋晴れの大運動会
私は、勝者白組代表として優勝旗を受けた
私の心は 天晴 日本晴れ

この後、( ↑ )
傍に付添う
6年6組の
鈴木百合子先生

「 泣いているの?」 ・・そう言った。
なんで泣くものか
私は
額の汗を拭っただけである。

親孝行とは
この瞬間を遠くで見ていた母は、息子の晴れ姿と慶んだ。
ご近所の多くの親達も見ていた。
そして、母共々、慶んで呉れたのである。
「 あんたとこの子、こんなに偉いんか
母は 鼻が高かった そうである。
「 こういう事が 親孝行になるのか 」
そう、想った私である。

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世の中に、こんなにうまいもんがあるのか

2021年08月20日 06時09分48秒 | 2 男前少年 1963年~

うどん
年期 ( 広島に在した頃 )、
素麺、ひやむぎ、中華そば は 記憶すれど、
「 うどん 」 ・・・を、食べた記憶がない。

昭和38年 ( 1963年 ) 大阪に引っ越してきて、
毛馬の大衆食堂 「 ふくのや 」
・・・で、
食べた 「 すうどん 」 から始る。
一杯、30円の 「 すうどん 」 に、大阪の味を感じたのである。
「 すうどん 」 という ネーミング にも 感心した。
以後、今日まで、うどん を 好物として食べ続けている。
そのなかでも、「 かもなんうどん 」 は、美味い。

恵叔父に連れられ、天王寺動物園へ行った。
もちろん、動物園など生まれて初めてのことである。
「 ゴツン・・言うたナァ!」
我々の見ている前で、
サイ が コンクリートの壁にその角を突いた。
突いた時の音に、見物の皆が、驚かされたのだ。
「 サイ・・すごいなぁ 」
ライオン や トラ を見たであらうが、その記憶は無い。
ゴツン という音の記憶が、あまりにも強烈だった為である。


動物園の帰り、
通天閣傍の大衆食堂で昼食を取った。
叔父が ちゅうもん したのは、
どんぶりばち の蓋に タクアン双切れが小皿の乗った
『 親子丼 』
生まれて初めて食べる
・・・・
ところが
食べて ビックリ
世の中に こんなにうまいもんがあるのか !! 」

まさに感動の味であった
9歳の少年の私、
それはもう
幸せな気分に成ったのである

而今
吾々は何でも食べられる
そんな幸福の中に存る
それはもう、美味しいものばかりである
しかし
「 美味しい 」 とは 想えど

「 こんなうまいもん 初めて食べた !! 」
・・・そんな、
感動的な出遭いは無い

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明日があるさ

2021年07月09日 22時02分10秒 | 2 男前少年 1963年~

 ケイトウ
昭和38年 ( 1963年 )
小学三年生、9歳の頃のこと、私は、夜 眠りに着くのが嫌だった。
トイレへ行きたくなかったのだ。
トイレは部屋を出て廊下のつきあたりにある。
ところが、トイレには灯りがなかった。
だから夜中に一人、トイレに行くのが怖かったのだ。
幼い妹等は母が連れて行って呉れる。
しかし、『 あんちゃん 』 の私、『 男前 』 の私、
恐ろしいから、ついて行って・・・とは、言えなかったのである。
寝る前にチャンと用を足したのに、布団に入ると もよおす。
「 さっき したばっかりなのに・・・・」
我慢すれば、我慢するほど、したくなる。
辛抱我慢の末、せっかくトイレへ行ったけれども、小便は出ない。
仕方なく、戻って布団の中で しばらくすると 又もよおすのである。
もういやになっちゃう のである。
「 ホースを便所から布団の中まで伸ばしてそれでション便したら、便所迄行かんでもええのに 」
・・・私は、そんなことで毎晩 葛藤していたのである。

訃報
夜中のトイレに対する葛藤が漸くなくなった。
もう、平気。
・・と、自信も出て来た 昭和39年 ( 1964年 ) 8月、
10歳、小学四年生の 或る夜。
ドンドンドッ 、と、戸を叩く音。
驚いて戸を開けると、血相を変えた顔で叔父が入って来た。
もっと驚いたのは、故郷に存る筈の祖父が続いて入って来たことだ。
「 どしたんな。こんな晩に。」
と、親父が訊いた。
「 ・・・・・」
薫・伯父が亡くなったこと、知らせに来たのだ。


昭和37年 ( 1962年 ) 8月、
あの和歌山でのこと。 ・・・リンク→教えたとおり、言うんで
和歌山に着いたその晩、私は三人の伯父 ( 一人は叔父 ) たちと一緒に寝ることにした。
薫・伯父が私に寝ながら話を聞かせて呉れると言う。
私は 5歳の頃 叔父たちと一緒に寝た夜、定・叔父から寝ながら 『 日本狼の絶滅 』
という話を聞かされたことがあった。
その時の楽しかった一夜を思い浮かべた私、「 それじゃあ 」 と、喜んで応えた。
ところが、これがとんでもない恐ろしい話であった。
『 怪談・田んぼの一軒家 』
「 大阪へ来る時、列車の窓から田んぼが見えたじゃろう、
ほいて、田んぼの中に家があったじゃろうが・・・・ 」
山陽本線上り、窓から見える風景は、田んぼ ばかり。
私は、田んぼに点在する一軒家の風景や、広告看板が並ぶ風景を眺めてきた。
「 その、田んぼの一軒家に住んじょった 家族の話なんじゃ。
家にはのお、
おとうさん、おかあさん、小さい赤ちゃんの三人が居ったんじゃ。
家族三人で仲よお暮しょうたんじゃ・・・けど、
ある時、おとうさんが病気で死んでしもおてのお。
残された おかあさんは、たいそう悲しんで泣いてばかり居ったそうじゃ。
その おかあさんも いつのまにか姿が見えんようになったんじゃ。
『 こりゃ、おかしい 、どうしたんじゃろ 』
村の人らが心配してのお、・・・その、田んぼの一軒家を訪ねて行ったんじゃ。
そしたらのお、その家にはのお、
赤ちゃんを抱っこした、おかあさんがおったんじゃ・・・
そのおかあさんはのお・・・やせ細ってのお、白い着物を着て、長い髪を垂らしてのお・・・
・・・赤ちゃん、よう見たら、もう死んじょる。
『 死んじょる赤ちゃんをずっと抱っこ しちょったんじゃ 』
『 気が狂うちょる 』
村のみなは それはもう 恐ろしゅうなってのう・・・ 」
伯父が さも恐ろしいげに話す。
「 いびしい !!  」
私は恐ろしくって、枕を被った。
それでも、伯父は私の耳元で尚も話を続ける。
もう二人の伯父たちは、その様子を微笑んで見ていた。
「 赤ちゃんは腐っちょってのお、体には ウジ虫が ウジョウジョ・・・ 
ほいてのお、
おかあさんが 長い髪をだらーんと垂らしたまま こっちへ向ってくるんじゃ。
うつむいた顔をあげて のお・・・ イーヒッヒッヒ・・・・ 」

斯の話、8歳の私には度が過ぎた。 

昭和38年4月、
大阪に移住して来た吾が家族。 伯父の近所に居を構えたのである。
明日は、転校初日 亦 始業式である。
不安一杯の私に、

「都会のもん はなあ、体は大きいても、力はないんじゃ」
「田舎のもん はなあ、
ちいちょうても、強いんじゃ!」
と、私を勇気づけて呉れた伯父。 
・・・リンク→びっくりしたなぁもう !!

その伯父が亡くなったのである。

訃報を聞きつけて、
祖父母、伯父・叔父、叔母と親戚の全てが伯父の家に駆け付けた。
私も親父と一緒に駆け付けたのである。
伯父の遺体はまだ家には帰って無かった。
皆は遺体が帰ってくるのを待った。誰の気持も重かった。
そんな緊張の最中に、いったい何をどう話 したらいいというのか。
誰もが黙りこくってシーンとしていたのである。
伯父の娘、二人の幼い従妹 ( 8歳と6歳 ) も、親の死に 未だピンと来ていないみたい。
いつもの様に、貢・叔父に 『 カモネギ 』 の話を従妹がすると、叔父はいつもの様に笑って愛想した。
その笑い方がいつもの笑い方より一段大げさだった。
私はそれを不思議に感じた。
がしかし、10歳の私、それがどういうことか判ろう筈もない。
そんな中、伯父の小母 ( 義伯母 )さんや、お姉ちゃん ( 叔母 ) が私を相手に絡んで来た。
皆の悲しみなぞ判ろう筈のない私が無邪気にそれに応える。
私のその無邪気な応へに、大声を上げて笑う小母さんとお姉ちゃん。
「 喜んでいる 」 と、勘違いした私、さも得意になって喋った。
そんな時、遺体が帰って来た。
すると、つい今しがた、大声で笑っていた二人、
笑い声は一転、大地も裂けんが如く、泣き叫んだのである。
私は、愕然とした。
「 さっきまで、あんなに笑っていたのに・・・・」
そして、その姿を茫然と見つづけたのである。

人が死ぬとは、殊に親兄弟が死ぬとは、・・・こういうことなのである。

この家のトイレは、家の外にあった。  そして、灯りが無かった。
夜、こわごわ用足しに向かうと、
「 ワシも一緒に行く 」・・と、祖母が追っかけて来た。
私は祖母と一緒に用を足したのである。

♪いつもの駅でいつも逢う
セーラー服のお下げ髪
もうくる頃  もうくる頃
今日も待ちぼうけ
明日がある  明日がある  明日があるさ ♪
・・・斯の時、
従妹が口遊んでいた歌である。

幼い娘二人を抱えて、女手一人で育てて行かねばならぬ小母さん。
酷な人生であろうと、生きて行くしかないのである。

 おしろい花
トイレの傍に、従妹らが植えたものか。
おしろい花が咲いていた。

その中にひとつだけ、
真赤に咲いた鶏頭 ケイトウ の花
・・・ひと際鮮やかであった。

そして私
一時は克服したと想った、夜中のトイレでの葛藤。
又 始まったのである。

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夏休みは いつも一人で

2021年07月02日 05時36分32秒 | 2 男前少年 1963年~

少年時代、
親と出掛けたことなど、一度も無かった。
旅行も無い、外食も無い
・・・何にも無いのである。
この時代は、皆がそうだったのだらう
・・・と、そう想っていた。

昭和39年 ( 1964年 ) 8月31日
隣り近所の久田さん ( 17才・高校2年生 ) に連れられて、箕面の滝に出かけた。
これが、夏休み唯一の外出であった。


一人で壁相手に

キャッチボール
建物の影が伸びた時刻
家の前の道端で一人私は
ンクリート万年塀にボール(軟球)を投げる
反って来るボールを、「 パチーン 」・・と、快音響かせ
スナップを利かせたグラブ捌きで、叩き取る。
これを、繰り返しては、亦、繰り返す
「 オッ、ぼく、うまいな ! 」 
上手くもなる
昭和39年 (1964年 ) 八月・夏休み
これが、私の日課だったのである。

竹尺で叩かれる  (タケザシ)
夏休みの、ある日
未だ日が高い時刻だというに、親父が仕事から帰って来たことがある
建物の影が伸びて、涼しくなるのを待っていた私
「イザ、始めん」・・・と、塀相手に一人キャッチボールを始めたばかり
そこへ、偶々早く帰って来たのである
左官職人の親父
外で遊ぶ私が気にくわなかったのだらう
「わしが、帰ってくる時間には家に居れ」
「ちゃんと家に居って、わしが帰ってくるのを迎えんか」
と、それがあたりまえだと言うのだ
「外で遊びようる」 とはもってのほか
・・と、ひどく叱られた
よっぽど、虫の居所が悪かったのであらう
立たされ、竹尺で太ももを叩かれた
10才の私、親父の言う理屈、分らう筈もない
「いつ、帰って来るかもわからんのに」・・と、そう想った
 リンク→10時になったら、帰ります

「 遊びょうらんと、勉強せえ 」
午前中に、
同級生の安宅と北毛馬公園で野球をした。       
(現在は毛馬中央公園)
やっぱり暑いと、
2時間程しての帰り道

安宅の家の方が先に着く、彼は玄関に入るなり
「 アー、やっぱり家は涼しいなー 」
・・・と、言った。

覗くと、さもあらん
・・・涼しそうな玄関であった。

「 うちは、外の方がまだ涼しいのに 」
行儀に座るだけで、
膝の内側に汗を掻く、そんな暑い我家

扇風機も無い昼間に、どうして 勉強なぞできるものか。
 

 B1c118fe   次郎物語          
  ひとりぼっちの 次郎はのぼる

  ゆらゆらゆらゆら かげろうの丘

  ひとりぼっちの 次郎はのぼる

  ぴいろろぴいろろ ひばりの峠

  次郎 次郎 みてごらん

  松の根は 岩をくだいて 生きていく

1964年
NHKで夕方 
6:00~6:25 放映された 「 次郎物語 」 の、主題歌である

NHK神話
夕方は子供アニメの放送が多くあった。
アニメを夢中になって観ていた私に親父は
「 良いテレビ ( 番組 ) を見ろ 」・・と。
そして、押し付けられたのが、「 次郎物語 」 で、あった。
己が見て評価した訳でもないのに
NHK は良い・・と
親父は、素直にNHKを
信頼していたのである。
私は、親父に
謂われる侭に素直に此を見ていた。
「 NHKのは良い 」 ・・・ものと。

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鉄腕アトム

2021年07月01日 05時01分03秒 | 2 男前少年 1963年~

♪ 空をこえて ラララ 星のかなた
ゆくぞアトム ジエットの限り
心やさし ラララ 科学の子
十万馬力だ 鉄腕アトム ♪

・・テレビアニメ 
「 鉄腕アトム 」 の主題歌である

「 鉄腕アトム 」
午後6時15分から始った。
ちょうど、夕食時である。


あつーい !
然し
我家には、扇風機は無かった


昭和39年 ( 1964年 ) 10才 小学校4年生の夏休み
夏場の涼を得る唯一の手段と謂えば うちわ

「 扇風機の風は体に悪い 」
「 うちわ が 一番ええんじゃ 」
・・・
と、親父
上半身裸、サルマタ一枚姿で以て、一升瓶を脇に於いてのコップ酒
胡坐をかいて呑んでいる
「 暑い、扇げ 」 ・・・と
酒を呑んどるんやから、そりゃ ( 体が ) 熱いに決まっとろうに
私はそう想いつつも 両手で うちわ を掴み扇いだのである
額に汗して

汗をかきかき夕食
丸い卓袱台 ちゃぶだい を、5人の家族が囲での夕食
行儀に坐って (・・・正座のこと )
一家の大黒柱たる親父が箸をつけるのを待った
我家では、何事も親父が一番なのである
「 食べよ 」 ・・・と、親父
じっと待っていた 吾々兄妹
只 冷めただけの、とうてい不味い麦茶を飲みながら食事を進めるのである
( 私は麦茶が嫌いなのは、この頃の体験から )

行儀に坐ると折り曲げた膝の内側に汗が溜まる
然し、脚を伸ばすことなぞ許されなかった
( 自分は胡坐をかいているくせに・・・)
胡坐は大人のもの、子供はしてはならぬもの
「 行儀が悪い 」 ・・・と、そう訓えられたていたのである


一貫目の氷
扇風機も無い家に、冷蔵庫なぞ有ろう筈も無い
猛暑の中
母が一貫目の氷を買ってきた
そして
皆で食べた冷やしそうめん
それは もう、美味しかった
夏一番の御馳走であった
どれだけ歓んだことか


夏休み
膝の内側に汗を溜めながら 食べた御飯
不味かった麦茶
そして
一貫目の氷
忘れられない想い出である
然しそれは
貧しきとも、家族五人で過ごした
掛け替えの無いもの
愛おしき瞬間 トキ
・・・だったと

そう想う 

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四つ葉のクローバー と ドナドナ

2021年06月26日 16時27分10秒 | 2 男前少年 1963年~


カタバミ
綺麗なハートの形をした三つ葉である。
私はこれをクローバーだと思って、これの四つ葉を探したけれど、
どんなに探しても、ハートが四枚の葉は見つからなかった。
それでも私は
『 願い事が叶う 』 ・・・四つ葉のクローバー
どうしても欲しかったのである。
 クローバー
四つ葉のクローバー
昭和40年 ( 1965年 )、小学5年生
「 四つ葉のクローバーなら、なんぼでもある 」
そう、同じクラスの吉井が言う。
私はワクワクしながら、彼等の住む 日本住宅公団都島団地に足を運んだ。
約束の場所に行くと、吉井の外、同じ団地に住む、谷本や西川も居た。
「 ここや。ここになんぼでもあるぞ 」
吉井がそう言って指を指した。
「 これ、クローバーとちがうやろ 」
「 いや、クローバーや。 これが、クローバーなんや 」
吉井、谷本、口を揃えて、そう言うのである。
・・・想うてたんとちがう・・・
そう、想った。

私が勝手に、カタバミをクローバーと想い込んでいただけのこと。
「 そうか、これがクローバーか 」
吉井の指さしたクローバーの塊かたまりを、立った儘 覗いて視るだけで、
あっちにも、こっちにも・・・・有る、有る。
嬉しくなって、もう夢中になって摘んだのである。
四つ葉のクローバーを、いっぱい手にした私、
そんなにたくさん、願い事 叶えてどうする。


天下無敵
四つ葉のクローバーは、ひとまず置いといて。
我々は、長さ70㎝程の草木の幹を刀代りに対戦して遊んだ。
テレビドラマ、『 隠密剣士 』 や、『 忍者部隊月光 』 等が、我々少年に 『 忍者ブーム 』 を巻き起こしたは先年。
五年生の高学年にもなると、單にチャンバラごっこするのでは物足りず、
「 だれが一番強いか 」 ・・・と、それは剣道の対戦の如く 対決したのである。
いつも必死の私、誰にも負けはしない。『 天下御免の向う傷 』 だ。
「 お前ら、弱いな 」 と、私が自慢する。
ところが、皆は、どこ吹く風とばかり さほど悔しがらないのだ。
こんなことに必死になることもあるまいに・・・・そんな心構えなのである。
やっぱり、彼等は都会のボンボンなのだ。  ・・・そう想った。
「 都会のもんは 弱い。田舎のもんは 強い 」 と、伯父が云った意味とは、
田舎もん・・この コンプレックス、此を 力にする・・そういうことなのだ。


昭和40年 ( 1965年 )  林間学校・高野山
大阪へ移住して三年目、地域に まだ馴染んでいなかった。
そして、クラスメイトとも 未だ未だ 距離があったのである。
その分、私は頑張った。その頃のものである。

ワンダースリー
1965年6月6日~1966年6月27日 フジテレビで放映
必死ではないが、視ていた。

♪ とてもすき  ボッコ  プッコ  ノッコ
    ・・・
   それゆけ  ワンダースリー ♪

クラスメイトの西川
『 オッコチャン 』 と、呼ばれていた。
ワンダースリー・キャラクター 馬の 『 ノッコ 』 が その素である。
スマートでクラスの人気者であった。
昭和41年秋、彼が転校するを惜しんで クラスで お別れ会を催した。
そこで彼が、
「 お別れの挨拶として歌います 」
と、一人唄った。

君の目の前の小さな草も       
生きている  笑ってる             
ホラ  笑ってる                              

君の目の前の小さい花も
生きている  泣いている 
ホラ  泣いている 

君が遠くに見る  あの雲も山も
生きている  歌ってる
ホラ  歌ってる

ふまれても  折られても
雨風が吹き荒れても

君の目の前の  この僕の手に
君の手を  かさねよう
ホラ  ともだちだ
ホラ  歌おうよ
ホラ ともだちだ


昭和40年 ( 1965年 )
坂本九

オッコチャン
しんみりと、また上手に唄った。  私は 想わず聞き入ってしまった。
君の目の前の小さな草も
生きている  笑ってる
ホラ  笑ってる
・・・それは、
私の心に沁みたのである。


「 ドナドナ 」
ある晴れた昼下がり  市場へ続く道
荷馬車がゴトゴト  子牛を乗せて行く
かわいい子牛  売られてゆくよ
悲しそうな瞳で見ているよ
ドナドンドナドナ  子牛を乗せて
ドナドンドナドナ  荷馬車が揺れる

巷では、流行りの 『 歌声喫茶 』 なるものがピークに達していた 昭和41年 ( 1966年 ) 、
小学六年生の私、哀愁を感じる これらの歌をよく歌った。
「 ともしび 」
夜霧のかなたへ  別れを告げ
雄々しき 男子ますらお でてゆく
窓辺にまたたく  ともしびに
つきせぬ乙女の  愛のかげ
 ・
・・・この画像から
サークル、労働組合、
なぜかしらん、政治臭を連想してしまう。

此を、文化として捉えるのか。
それとも、単なるファションとして見るのか。
この時代の若者といえば、私の叔父や叔母の世代である。
この若者たちは、何を求めていたのであろう。
彼等の人生観、亦、世界観はどういうものであったのか。
そして、この時代、日本は何処へ行こうとしていたのであろうか。
・・・そんなことを考えてしまう。
当時、12歳の私にこのような体験はない。
その雰囲気すら知らないのである。
私には、全く 見当もつかない世界なのである。
同じ頃、叔父に連れられて、
『 兄弟仁義 』 の映画を観て、素直に 男の世界 に痺しびれた私。
・・リンク→俺の目を見ろ 何にも言うな
やっぱり、
育ちが違う・・・のである。
しかし、そんな私でも、
「 ともだち 」 「 ドナドナ 」 「 ともしび 」
聴かば、ジーンと心に沁みるのである。

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姿 三四郎 「鉄壁の不動心」

2021年06月24日 15時38分50秒 | 2 男前少年 1963年~


映画・姿三四郎 1943年黒澤明監督、藤田進主演

昭和38年 ( 1963年 ) 11月~昭和39年 ( 1964年 ) 5月

午後8時から、8チャンネル ( フジテレビ系列 ) で、
倉丘伸太郎主演のテレビドラマ
「 姿三四郎 」 ・・・を、放映していた。

9才の私は、
毎週欠かさずにこれを見ていたのである。




鉄壁の不動心
雨の中
池に身を沈め、杭にしがみ付く、三四郎。
ヒル に 襲われても、歯をくいしばって頑張る、その姿。
之を 「 鉄壁の不動心 」 と、謂う。
9才の私の脳裡に焼付いたる
一シーン である。
「 これが、修業なのか、自分を磨くということなのか 」
・・・と
それは
少年の心に響いたのである。

姿三四郎・・・村田英雄・唄

人に勝つより  自分に勝てと
言われた言葉が  胸にしむ
つらい修業と  弱音を吐くな
月が笑うぞ  三四郎
二  
花と咲くより  踏まれて生きる
草の心が  俺は好き
好きになっては  いけない恋に
泣けば雨降る  講道館
三  
締めた黒帯  一生かけて
技も捨身の  山あらし
男だったら  やるだけやるさ
それが道だよ  三四郎

♪ つらい修業と弱音を吐くな 月が笑うぞ三四郎 ♪
少年の吾々は、この歌を唄った。
そして誰もが
歌の意味を分っていたのである。

「 卑怯者 」
と 呼ばれることを 恥じた時代
弱きを援け、悪を挫く
・・それが強き者

正々堂々を尊び、卑怯を恥じろ
陰徳あれば、陽報あり
お天道様は見ている
何の為に勝負するかを知らば、その
勝ち方が大切な筈
どう勝つかは、己の人生の表現であらう
だから
「 卑怯なまねはするな 」
・・・
そう、訓えられたのである。
卑怯が罷り通る世の中に、お天道様はいらない 」
・・・

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拾った金を寄付した・・けれど

2021年06月24日 05時28分58秒 | 2 男前少年 1963年~

昭和38年(1963年)の事である。
家の前にある工場の塀 ( コンクリート製の万年塀 ) にボール(軟球)を投げて、一人キャッチボールをしていた。
「 アッ ! 」
はずみでボールが塀の中に入ってしまった。
( 小学校 ) 三年生の私では、2mの塀を乗り越える事は出来ない。
グルッと周って 工場の正門からボールを捜しに・・・
ボールは直ぐに見つかった。
そして、その帰り路、
「 アッ こんなところに・・」
草むらに落ちている女物の財布 ( がまぐち ) を見つけたのである。
財布の中には、百円札3枚と一円玉が数枚入っていた。


お金を拾ったのである。
5円でアイスキャンデーが買えたこの頃、300円は大金であった。
広島から引っ越してきたばかりもあって、警察の在る場所を知らない。
親父と一緒に交番へ行った。
毛馬橋の東詰め、道路の交差点北隅に交番があった。
( 道路巾拡張の際、無くなったが、交番の背後に在った桜の木は、残っていて今でも毎年、花を咲かせている )
交番には警察官が二人居た。
親父は得意になって云った。
「 一円でもお金は、拾ったら警察に届ける様、教育している 」
「 三百円は大金である 」
「 一年経って持ち主が現れなかったら、この三百円は、恵まれない人に、寄付をする 
私は親父の側で聞いていた。
「 寄付をするのか 」


写真 下 当時の毛馬町1丁目  
写真のこちら側に交番が在あった

一年が経った、昭和39年(1964年)
(小学校)4年生の私は、赤川一丁目から市電(路面電車)に乗って、都島本通に向かった。
都島本通に在る、都島警察署に行く為である。
都島本通は、市電の高架線が張り巡らされていて、私にはずいぶん都会に見えた。
その先は、さらに大都会の大阪駅かなァ、・・と、そう想った。

市電を降りて3分、都島警察署に着く。
受付で、「 寄付をするの 
それなら、「あっちで・・」 と言われ、あっちへ
途中、刑事に調書を取られていた、24、5歳の若い女性を見た。
そして、その女性と 偶々 目が合ったのである。
女性は 「 クスッ と笑った 」
「ニャッ」 と 笑ったのかも知れない、「ニコッ」 と微笑んだのかも知れない。
が、しかし・・
私は 「クスッ」 と 笑らわれた様な気がしたのである。

私は
「 拾った三百円と数円 」
恵まれない人に ・・・と、寄付をした。
・・・

帰り
都島本通から市電に乗り、窓を背に腰を掛けた。
座ると
右親指の処に穴のあいた私のクツ
余計に気になった
・・・・・・・・・

昭和39年 ( 1964年 )
東京オリンピックの想い出
 
東京オリンピックの体操競技
初めて知って 「 スゴイ 」 と、
感動した。

「 円谷(ツブラヤ)頑張れ!」
日本中が絶叫した。
私も、母と共に
リアルタイムでこの瞬間を視ていた。
 

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