昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

鎖縁の物語 「 共に野球部に入ったけれど 」

2024年04月27日 04時16分03秒 | 4 力みちてり 1970年~

高校入学早々の体育の授業で体育館内をランニングさせられたことがあった。
吾々は指示されるまま 黙々と駈った。
「 ピーッ 」 と、笛の音。平野が呼び止められた。
体育教師・黒田先生に呼ばれた平野、 先生と二人でなにやらヒソヒソ喋っている。
なにごとがあったというのか。
戻って来た平野に その由を訊ねると、
「 先生、俺の走り方が変なのに気付いて、その理由を訊かれたんや。
中学の準硬式野球部でピッチャー していたころ、膝が痛うなったことがあってな、
検査したら 膝に結核菌が廻っとったらしい、
もう治ってる 想うて 気にもかけてなかったが、やっぱり ちゃんと走れんみたいや 」

大田幸司 
昭和44年 ( 1969年 ) 夏の甲子園 青森・三沢高校と愛媛・松山商業 との決勝戦は
延長18回でも決着がつかず、翌日再試合となった。  中学三年の私は 此を リアルタイムでみていた。

野球をしたい
「 高校入学したら、野球部に入る 」
ユニホームを着て、スパイクの金具をカチャカチャ鳴らして歩きたい。
其は私の夢であった。平野も亦、同じ想いであったろう。
しかし、互いに体力的に自身が持てず、躊躇していたのである。


私と鎖縁の平野、共に住宅研究部に入って遊んでいた。
リンク→貴ノ花の相撲を見たかったのです
住宅研究部、部室前で平野が戯れにピッチングしているところを、
偶々 通りがかった、建築科の一級先輩・藤原さんの眼に留った。
彼は、軟式野球部のレギュラーの一人だった。
平野の投球フォームは江夏豊そっくり、
スリークォーターの左腕からくりだす糸をひくよな 快速球、揺れながら落ちる
ナックルボール、
「 これなら三振が取れる 」

と、平野の投球を観た藤原さん、一目でその才を見抜いたのである。
「 軟式野球部に入れ 」
勧誘された平野、まんざらでもなかった。
「 軟式野球なら 」
・・そう、心が動いた。

阪神タイガース  ・ 江夏豊
スリークォーターの投球フォームから投げられた快速球は圧巻だった。
1971年7月17日のオールスター戦で、リアルタイムで観た 9連続奪三振は、生涯の記憶である。

「 お前が入るんなら、俺も入る 。お前、ピッチャーになれ。俺はショートをやる 」
彼の入部がこれまで躊躇していた私の背を押すことになったのである。
そして、二人 連れ以て軟式野球部に入部した。
昭和46年 ( 1971年 )、高校二年の4月28日の事である。・・・

滔々、「 野球をしたい 」 という希望が叶った。
「 イザ、ゆかん 」
"力満ちてり、意気は湧けり。 剣とりて、皆勇み立て。闘い抜け、嗚呼俺等の選手達よ。"
・・・と、それはもう意気揚々の私。
そしてこれから、平野との鎖縁の物語がもう一つ始まる・・と、そう想った。

ところが相棒の平野、
練習に参加したのは、初日の たった一日だけ。
『 三日坊主 』  に、二日も満たない。
だから、物語にもならない、・・・のである。
理由は知らない。


野球をしたかった私、
新チーム結成後では、
エースの四番としてデビュー

・・・したけれど
リンク→背伸びした一分(イチブン)

結果的に 彼は
『 私の背を押した 』
そういう運命的な役割を果たした。
これも鎖縁
そういうこと・・・である。


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