昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

痛ツ !!

2021年05月22日 04時51分12秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年


サヨリの話し
 
            イメージ・サヨリの大群

夏の夕暮
潮が満ちて来ると
丸谷の波止場の入り江には、
決まってサヨリの大群が入ってくる。

網で掬えるかと想うほど近くを周遊するのである。
海面はベタ凪、
水は透き通っていて底まで見えた。

路からその姿が見えるもんだから、もう堪らない。
そこで私は
繋がれた船に乗込んで
普段はドジョー等を捕る網を持ってサヨリが来るのを待った。
「 来たらこれで捕っちゃる 」
暫らく佇んでいると、想ったとおり、サヨリが来た。
「 よーし 」
私は勇んで網を伸ばしたのである。

 
イメージ・サヨリがやって来た

昭和36年 ( 1961年 )
夏休み
サヨリの大群が接岸して来た。
吾々は待ってましたとばかり
ウキ替わりの箸を横向けに浮かせる仕掛けでもって
箸の先端にハリスを 5センチ垂らし、餌のゴカイをつけて精一杯遠くへ投げた。

釣竿は一切もたない、
木枠に巻いたテグスを手に持ち直接投げる

水面すれすれの所に餌を浮かす、それをサヨリに喰わすのである。
こんな仕掛けでも結構釣れるもんだから、
小学一年生の吾々でも必至になったのである。

私は誰よりも遠くへ投げようとありったけの力を込めて ウキを手に持ち、大きく腕を振って放り投げた。
餌のついた仕掛けは、海に向って飛んで行く
・・・筈であった。
ところが
「 痛ッ !! 」
こともあらうに
私の右太ももにハリが引っかかったのだ。

ハリにはかえしがあって刺さると外れないから、さあ大変
近所の皆も集まって
ちょっとした騒動になったのである。


三ノ瀬港 
本土・呉の仁方港への船が往来した
昭和35年 ( 1960年 )
巡視船に乗ってやって来た池田総理大臣も
港の桟橋から上陸したのである。
その姿を私は、
この波止場から眺めていたのである。
・・・リンク→総理大臣が軍艦に乗ってやって来た

 ←三ノ瀬港の桟橋
釣りの好きな私
あっちこっちに出かけては釣りをした。

三ノ瀬港では
波止場でギザミ(ベラ)、どんこ
桟橋の下でチョコセン(カワハギ)を釣った。
 ギザミ チョコセン

丸口 の
お爺さんに助けてもらう
三ノ瀬港の波止場で
同級生の今村道明、金田高好 ( ? ) の三人で釣りをしていた。
内側と雖も潮の流れは早い。
私は普段の仕掛けより、かなり大きな鉛の錘り、
チヌバリを着けた仕掛けを使っていた。

イメージ
吾々子供は滅多に使わない錘である。

餌はゴカイ
餌を買ったことは一度もない。
潮の引いた浜辺に降りて、自分で掘って捕ったものである。
此の日は
大きな錘りを掴んで投げていた。
ところが、その時に限って
何を想ってか、ハリを指先で抓んで投げたのである。
魔がさす』 ・・・は、此を謂うのであらう。
これが、やっぱり拙かった。
遠くにと、殊更力を入れて投げた。
「 痛ッ !!! 」
それは今迄に経験したことのない痛さであった。
右手の人差し指の先っちょ
指紋の有る部分に、まともに刺さったのである。
選りに選って
此の日は、チヌバリの大バリ

 イメージ ・チヌバリ
小学二年生の子供に
かえしのついたハリがまともに刺さって、それを取除ける筈もなからうに。
それはもう、痛くて痛くて・・・我慢なんかできるものか。

二人が丸口のお爺さんを呼んできた。
漁師のお爺さん。
私の指先に刺さったハリに、茶色の太い釣り糸をクルクルッと巻きつけた。
そして、両手でそれを引っぱった。
すると どうだろう
あれだけ どうしようも無かったハリが スルッと 外ずれたのである。
然も、痛くも痒くもない。
それは
マジックを観ているかの如くであった。
「 さすが 漁師のお爺さん 」
・・と、感歎した。

なにごとも無かった様に家に帰ると、
「 どうしたん? 」
「 喧嘩でもしたんか ? 」
・・・
と、母が言う。
鏡で我顔を覗いて見ると、
目の周りがまっ黒に汚れていた。

それは、
明かに泪を拭いた跡である。

痛みを堪え
泣かずんば
朱く腫れた指先の傷は
男児の勲章よと、吾は
男前よと
威張れたものを
余りにもの痛みに辛抱できず泣いてしまった
泣いたばかりに
逆に男を下げてしまったのである

男は泣いたらあかん
是、教訓である


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