昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

「 お前、変わってるなあ 」

2020年08月09日 20時50分50秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

「それッ、喰えー」
一斉に箸を出すから、(手鍋で拵えたすき焼き ) 一瞬で無くなってしまった
「ちょっと、まて! 俺、肉 食うてへんど」
・・リンク→仲 間 達
昭和49年 ( 1974年) 12月7日の仲間達との宴会は、大いに盛り上がった。
斯の時以来、仲間達との親交も、水阪との友情も更に一層深めていったのである。

想い叶って
昭和 52 年11月 結婚式後の仲間達主催二次会での水阪 ( 23才 )
こうして彼は、吾々の誰よりも逸早く妻帯した
撮影は私

昭和50年の新春、
「 相談したいことがあるねん 」
と、親友・水阪が言う。
牧野のアパートに来て呉れと言うのだ。
彼は、我々に魁て一人暮らしをしていた。
木造二階建ての長屋でその二階の一室が彼の住いである。
今ならば単身者住居、1ルームマンションといったところであろう。
昭和50年(1975年 ) 2月15日 (土)
京阪電車で枚方の牧野に在る彼のアパートに行った。
親友・水阪
「( 結婚 ) 決めようと思っている。
しかし、最後のところで二の足を踏んでいる。
彼女と会って決心を固めたい。

お前、鹿児島まで、付き添って呉れんか 」
親友・水阪、私に背を押して貰いたかったのである。
私は、二つ返事で快諾した。
そして吾々は、春分の日の3連休を選び、
遥々 九州鹿児島へ旅することになったのである。

・・・以降は
叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・
に 続く
鹿児島での私 ( 2 0才)

「 お前、変ってるなあ 」
専ら 他人と違うことを信条とした私
「 お前、変ってるなあ 」 ・・は 私にとっては 誉め言葉であった。
ところで
水阪の室には学習机と書棚があった。
書棚の中に、なんと幸徳秋水全集が並んでいる。
「 へえー、お前 こんな本読んどるんか 」
「 そうや、お前の 『 北一輝 』 に倣ったんや 」
「 ほんまかいや、それにしても、幸徳秋水とはな 」
大逆事件の幸徳秋水は、幸徳が私と同名であることから関心を持っていたのである。
アナーキズム・無政府主義という言葉に惹かれて二、三の書物を読んだりもしていた。
が然し、私にはとうてい理解ができるものではなかった。
その幸徳秋水を、親友・水阪が 勉強していると言うから まあ驚いたのである。
イデオロギーに関心を持つことが ステータスであった、吾々の若いころ。
彼も亦、こうして一つの青春をおくっていたのだ。


表紙--裏表紙 計60頁    リンク→四年目の檄 (原本・感想記入付)
此れを読んだ会社の先輩・小久保氏が訊ねた。
「 昭和 45 年11月25 日の日付、おかしないか ? 」
「 本当は49 年ですけど、四年目の檄 としているので敢て45 年としました 」
「 ふーん 」

二十歳の時私は、『 四年目の檄 』 という小冊子を著し、仲間に配った。
果してその反応は、打てば響く鐘の音の如く・・・とは、行かなかった。
「 誰も 関心がないのか 」 と、そう想った。
「 時は滔々と流るる 」
30才を過ぎると 仲間の誰もが・・判を押して・・妻帯した。そして子をもうけた。
此が、吾々の適齢期だったのである。
仲間の一人・西村が、
「 花田には なんなんやけど 」 ・・と、前置きして、
「 俺の息子の名前、北一輝の名を貰って一輝 ・カズキ と つけさせてもらった 」
「 遠慮することもなかろうに 」
ちなみに、吾が息子は 石原莞爾の名を貰う

昭和 は、64年 ( 1989年 ) で終った。
久し振りに仲間達と一堂に会したる平成17年 ( 2005年) 夏のこと
仲間の一人・梶、
「 花田の息子は早稲田 ( 大学 ) にでも いかせたんか?」
「 いや、・・・どうして? 」
「 硬派のお前の事やから、そうかな・・・と、思うて 」
『 四年目の檄 』
やっぱり
仲間の彼等にも、 よくよく インパクトがあった様だ。

その後 親友・水阪の 『 幸徳秋水 』 が、何処に行ったかは知らない


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