昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

ラジオ体操 第二

2017年04月18日 05時14分46秒 | 3 青い鳥 1967年~


 ↑ 運動会・昭和 44年 ( 1969年 ) 10月12 日 中学三年生時

「 ラジオ体操第二を次の授業までに覚えて来る様に 」
昭和42年 ( 1967年 ) 4月
中学一年生の突端

鉄人と綽名された吉田先生
吾々に そう 告げたのである。

これは、一年生男子全てに共通だと云う。
「 えーっ
誰もが、ラジオ体操第一 までしか 知らない。
ラジオ体操第二
知っている者など、誰もいなかったのである。

いきなり 「 自分等で覚えろ 」 とは、
さすが中学、
小学校とは違う、
そう感心も したが ・・・

スワッ 大変
放課後 一年生男子全員、運動場へ集まった。
「 上級生に教えて貰おう 」 と、
各々が 所属するクラブの先輩の所へ、教えを乞いに 押掛けたのである。

ところが、どうであらう。
運動クラブの上級生、必至の吾々に対し、
ニヤニヤ するばかりで 教えて呉れない。
「 去年の俺等も おんなじやった 」
・・・
と、二年生が云う。

ならば、教えて呉れても よからうに・

「 教えてやろう 」 ・・・と云う上級生
誰一人と いなかったのである。

しばらく
皆で 駆けずり廻った けれど、成果は無かった。
吾々は 体育館の前で、肩を落とした。

お天道様は ちゃんと見ていた。
「 ラジオ体操第二、教えて上げよう 」
三年生であった。
「 助かった 」  ・・・ 一同は安堵した。
吾々は整列して、
「 頭 ・中 」
教えを享けたのである。

吾々にとっては 『 神様の様 』 な 三年生。
何も 男気を出して カッコウ を 付けての登場ではない。
気まぐれ でも 戯れ でもない。
純粋に吾々に手を差し伸べたのである。

後日 生徒会集会に於いて、
「 学校では、大阪弁ではなく、標準語で 話そう 」
・・・
と、発議をした人物で
男気云々 と謂う表現に 一番縁遠い 為人 であった。

「 こういう 真面目な人がいる 」 ・・・私は、感心した。
勇気ある人、斯くして現る。
さすがに 中学である。

出題する教師、
真面に応えんとする生徒、
手を差し伸べる上級生
誰も皆 素晴らしい。

そんな
吾々の時代が
宝物の様に愛おしい
而今 
そう想う、私である。


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