三ノ瀬小学校 昭和46年 ( 1971年 )
よそ者
「 三ノ瀬の学校、いい学校、中を見ると、ボロ学校 」
私が母の実家のある、「 向 」 に言った時
こうして からかわれた ものである。
隣村・地蔵の子 が我村に居るのを発見した時
吾々子供は一斉に連呼した。
「 ジゾウの芋食い 」 ・・と。
文句は口コミで覚える・・・不思議に思ったことはない
これを無邪気という。
昭和36年(1961年) 小学校1年生の時のこと
海峡を挟んで 「 向 」 から 私の従姉妹 ( 1歳年上と3歳年上 ) が、遊びに来た。
普段私と仲良く遊ぶ二級上・三年生の岡田 ( 兄・四郎 )
何と
その姿を見つけるなり、『 よそ者 』 として意地悪するではないか。
私が従姉妹と一緒にいるのに
女の子だと思って、チョッカイ している分もあるが
それにしても普段とは うって変わった行動に私は驚いた。
そして
私は、庇った腕が痛かった。
椎の実を採りに
小学2年生、昭和37年 ( 1962年 ) の物語である。
椎の実 ( しいのみ )
我町三ノ瀬・丸谷の山には無かった。
隣村・下島の山でしか、採れなかったのである。
「 下島へ行こう 」
小学二年生の吾々4名 ( 私、今村、宇都宮、島末 )
隣村の下島まで、はるばる 椎の実を採り に、出かけたのである。
下島には、着いたものの 椎の実は 何処にあるのやら・・
吾々は 宝探しの様な気分で以て 椎の実を探していた。
「 何しょうる ! 」 ( ナンショウル )
突然であった。
学ラン姿の中学生 (1年生) が 頭 ( カシラ ) の いちみ 5、6人 に囲まれてしまった。
見るからに、どれもが 年長ばかり
吾々が何をしているのか、見張っていた様である。
ここでは、吾々は 『 よそ者 』
『 よそ 』 へ来ていると謂う 負い目、更に囲まれて 気弱 になっている。
意気消沈・・皆、泣きそうな気分であった。
そんな時
「 こんな、と、喧嘩せえ 」
頭 ( カシラ ) が言った。
3年生をやっつけてみい・・と云っているのだ。
相手はグループの中では一番格下の3年生一人、
とは謂っても
2年生の吾々からしたら、3年生は手強い存在なのだ。
吾々の意識の中では、
『 軍隊の階級 』 のように、
何年生というのが、力関係を示す重要な要素でもあり 計りでもあった。
『 一級上 』 は、値打ちがあったのである。
そのうえ、彼の後ろには4年生以上が控えている。
敵う筈も無からうに・・・・
皆、うつむいて黙っている。
私が相手と顔を突き合わせている。
隣の同級生島末
両手の指を組んで、両親指の爪を交互に押し当て、落着かない。
とうとう シクシク 泣きだした。
「 はよせい!」
頭 (カシラ) が喧嘩を焚きつける。
勝負は一瞬に着いた。
相手は3年生とはいえ一人なのである。
子供の喧嘩は啼いたら負け。
その時点で終結なのである。
案じていた、報復はなかった。
それどころか
どういう訳であらうか
頭 (カシラ) から、両手一杯 の 椎の実 を 貰ったのである。
吾々全員、ホウビとして・・・
吾々は嬉しくなって、心晴れ晴れ、帰宅した。
途中、プロパンボンベを運んだ帰りの車に乗せてもらって
・
下島の3年生、
仲間内での不始末を しでかした罰として
吾々と喧嘩させられたそうな。
吾々は、制裁の手として使われたのである。
後日
下島の3年生と、我町・三ノ瀬の役場の前で顔を遭わせた。
私は、旧知の間柄の様な気分になり、ニャッ と、笑った。
下島の3年生も、ニャッ と、笑った。
どの辺りが、「椎の実」の山か、記憶は無い ↓ 1979年6月撮影の下島・
この年(昭和37年)
出稼ぎの親父が小型のレコードプレーヤーを購入して、帰って来た。
レコードを沢山買って
その時聴いた、橋幸夫と吉永小百合の
「 いつでも夢を 」
これまで耳にしたことのない、新しいメロディ が 明るくて、爽やかだった。 ♪ 星よりひそかに 雨よりやさしく あの娘はいつも唄っている
下蒲刈は、地蔵、下島、三ノ瀬 の 三ヶ村 から成る
小学校までは別々の学区からなり、中学で初めて、一つにまとまるのである
海峡を挟んだ、「 向 」 は、三ノ瀬とは大昔は一帯であったと聞く
今は、上蒲刈として、別の地区である。
画面中央の扇状地の 陸地側の町並みが下島
海側が見戸代 中央の半島から右側の町並みが丸谷~三ノ瀬
海峡を挟んで三ノ瀬の対岸が「向」