昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

君は王将だ !!

2016年04月17日 07時16分15秒 | 2 男前少年 1963年~


吹けば飛ぶよな 将棋の駒に

賭けた命を 笑わば笑え
うまれ浪花の 八百八橋
月も知ってる 俺らの意気地
・・・村田英雄 「王将」 1961年

  坂田三吉

昭和38年 ( 1963年 )
♪ うまれ浪花の八百八橋 
・・・と、「 王将 」 で歌われた
大阪に越してきた。
王将・坂田三吉 のお膝元、将棋は大阪の文化であった。
町内には、必ず有った 『 縁台 』
そこで、大人達は
将棋を指していた。
子供等が 関心を持つのは 当然の事、
大概は大人達の指す将棋を 観様見真似 で 覚えたものだ。
「 強いのは 頭が良い 」 ・・・と、誉められた。
だから 子供等は 選り一層頑張ったのである。
私もその中の一人であった。

昭和の街角風景、
縁台はコミュニティの場でもあった


昭和41年 ( 1966年 )
小学校6年生の頃
クラスの男子間で、将棋の試合をすることが流行った。
私は、他流試合 ・・と、意気込んだ。
腕自慢 したかったのだ。
 類似イメージ
戦法の一つ ・・『 棒銀 』
私の得意とするものであった


ところが
指してみると、クラスの皆、そこそこ強いのである。
将棋が好きという程の熱心でもないくせに、私より強いやつが存たのである。
そんな相手に負けて、口惜しくて 堪らない。

私の戦法 『 棒銀 』 が、通用しなかったのだ。
♪ あの手この手を 思案を胸に
・・・
私なりに研究をした。
そして、
戦法、攻め方を、『 中飛車 』 に変えた。
 類似イメージ
当時、私が指した戦法は、『 原始中飛車 』 だった

♪ 明日は東京に 出て行くからは
 なにがなんでも 勝たねばならぬ


そして、試合を申し込んでは、
対戦したのである。
私より強いやつ
一人ひとり 負かしていった。
そうして、
自称・クラスの王将
・・・に、
成ったのである。

「 自分等はもう飽きて仕舞って、(将棋は)していないのに
(自分は) 将棋ばっかりして、押しかけてくる。
必至にやっているんだから、強くなるのは当たり前で、
しかも 勝つまで やって来る。
あの しつこいのには まいった。
それで、勝ったら、自慢する 困ったもんや 」
 ・・・昭和53年 ( 1978年 ) 4月9日(日)
男女4人、おんなせんせい宅でミニ同窓会をした時、
その時の対戦相手であった tei
懐かしき想い出を そう語った。
・・・リンク→テケテケテケテェッ・・・・


「 おい、写真撮っとるぞ、気づかん振りしとけよ 」 
・・・と、小林 ( 半袖シャツ )
左の勇 右の私 は、彼の謂うとおり気づかぬ振りをした
ポーズをとった のである
然るに
「 下辻、お前だけ カメラ目線しとるやないか 」
別府からの帰りの舟で

昭和47年 ( 1972年 ) 5月、
高校の修学旅行は九州
帰りは別府から船で神戸港までの長い船旅であった。
船内では各々が、ゲームをしたりして時間を潰していた。
私しは
担任の教師も混じっての将棋を指して時間を過した。
これも、
「たかが 遊びとばかり 」の皆
そんな皆に勝って、
一人得意顔の担任教師 ・木全先生。
彼に勝負を挑んだのである。
・・・・
「 君は王将だ!」
私に負けた、先生が発した言葉である。


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