昭和45年 (1970年 ) 4月1日 ( 水 )
大阪市立都島工業高校・建築科に入学した
意気揚々、高校生になった自分が誇らしかった。
4月8日 ( 水 ) は、始業式。
私は新品の自転車に乗って 颯爽と登校した。
大阪市立都島工業高等学校 ( 通称 都工 みやこー )
建築科 一学年80名 全学年240名 襟章 A
土木科 一学年80名 全学年240名 襟章 C
電気科 一学年80名 全学年240名 襟章 E
機械科 一学年80名 全学年240名 襟章 M
機会電気科 一学年40名 全学年120名 襟章 ?
工業化学科 一学年120名 全学年360名 襟章 ?
6科 総勢1440名
科と科の交流は無く、6校の単科校が一つの学園を構成したようなものであった。
( 昭和45年には 他に産業科という40名の 特殊なクラスが一つあったが、
正規のものか否かは不明。 一年で廃止になった )
大阪市立都島第二工業高等学校 と謂う 『 定時制 』 を併設していた。 ( これ以上のことは、分からない )
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校旗と校章
大阪市の市章 『 澪標 』 、 五つの 澪標 みおつくし で、大阪市花 『 梅 』 をデザインしたもの。
『 都島工業学校 』 当時、大阪市の代表校として、
昭和4年6月にありて、昭和天皇の御臨幸という 名誉を賜った。
戦後になっても、
学力は高く 「 北野高校 」 か 「 都工 」 と謂われた。
此れらが、 『 天下の都工 』 と 称号された いわれ だと謂う。
時代の申し子・・・だったのである。
臨幸記念
校歌
一
淀の川面に花影うつりて
悠々たる流れめぐれるあたり
その名もゆかしきわが都島
古き伝統輝く歴史
みよわが母校の姿を
二
秋空高く青雲しのぎて
そびゆる金城吾等仰ぎつ
雨にも風にもたゆまずうまず
まことを究め素子をつらぬく
みよわが学徒の精神を
三
いしづえかたく浪速に開けし
工業の道うけつぐ吾等
理想は高くつとめは重し
若き力に技術を鍛えん
みよわが使命の栄光を
建築科の襟章のデザインは Ⓐ
昭和45年度入学の者は 地が青色で白抜き文字、3年間同一を着けた。
一学級 40名が 一単位。 学級名はA組、B組、と称した。
私は、建築科1年B組 席次29番
始業式が終わると、
吾々は 本館3階の西端にある教室に入った。
廊下側から順次、
名前の 「 あいうえお順 」 ( 席順を席次 ) に席に着いた。
茜、安藤、生田、勇、石倉、石黒、井上、〇崎、梅村、大土、
1 1、2 1、2 1、2 1、2 1 1、3 1 1 1、3
音田、梶、河村、北谷、呉津、小坂、小林、下辻、杉本、○○、
1、3 1、2 1、2、3 1、3 1 1、3 1、2 1、2 1、3 1
○○、高田、寺内、中島、中前、西尾、西岡、西村、花田、平野、
1、 1、2、3 1 1 1、2、3 1、2、3 1、3 1 ☆ 1、3
藤田、松井、松尾、水阪、宮田、宮崎、森本、山下、山田、吉田、
1、2 1、2、3 1 1、2 1、2、3 1 1 1、2 1 1、2、3
○○・・・は、中途退学した者 名前の記憶が無い ・・・リンク→受験番号一番の男 と 人生航路
〇崎・・・は、怪我で長期休校の為 留年した 名前の記憶が無い
自己紹介
先ず、
担任の木全先生
が、口を開いた。
「 君等はもう、高校生だ、中学生と違う 大人扱いをするぞ 」
と、担任・木全先生の訓示は、
「 高校生とは、斯くなるものか 」
と、吾々を感激させるものであった。
次は、吾々
中央の教壇に立ち、一人づつ自己紹介を行った。
茜、大土、北谷が印象に残った。
席次一番の男・茜
大柄。 もの静か。真面目な秀才。・・・第一印象である。
担任・木全先生の発案で、席順一番の茜を級長 ( 学級委員 ) として、クラスの世話役とした。
北谷は中学の時 「 組長をやっていた 」 と自己紹介した。
皆が 「 組長 」 ・・・と、どよめくと 彼はすかさず、
「 組長 」 とは学級委員のことだと云い、彼の学校ではそう称していたと云った。
彼一流のパフォーマンス だったのである。
茜 北谷
画像は卒業アルバムから。
入学時は北谷の他は坊主頭であった。
大土 西村
大土が教壇に立った時、私の前の席に坐っていた西村が、
「 明日、ちゃんとクラブへ来いよ 」 と、偉そうな口振りで声をかけた。
彼等は4月1日の入学式の時、既に硬式野球部で顔を会わせていたのである。
私が始業式迄の間、親父の仕事の手伝いをしていた時、
彼等は野球部を訪れていて部の練習を観ていたのだ。
平野 安藤
受験番号一番の男・平野。
斯の入学試験の時、 殊更、私の目を惹いた、黒縁のメガネの男・大土。
「 こいつ、口の周りにカビ・・生えてる 」・・・無精ひげの男・安藤。
・・・リンク→受験番号一番の男 と 人生航路
彼等は共に同じクラスに成った。
茲に、生涯の友となる者が一堂に会したのだ。
縁 えにしとは不思議なものである。
そして、明日から愈々 高校生としての本番がスタートするのである。 ・・・と、そう想った。
昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」 に、続く