昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」

2021年06月09日 05時31分21秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年(1970年) 4月8日(水) 午後5時45分
「 ドーン 」
「 なんの音や 」
「 火事や!!」


昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」 の 続き

夕刻 五時頃、偶々外に居た。
この日、午前中に始業式を終えて帰宅した。
夕方になって、近所の
友ガキ・宮下と会い 互いの高校の情報交換をしていたのである。
彼は 大阪市立桜ノ宮高校へ入学した。
ここには多くの同窓生が入学していた。
斯の 「 青い鳥 」 然り、斯の 「 カーディガン 」 然り、私には興味津々だったのである。
    
ちょうどその時。
西の空に煙が上がっているのが見えた。
「 どこやろ? 」
「 長柄のほうやで 」
共に
煙の方向へ走った。
毛馬橋まで来ると、煙の上がっている位置が確認できたのである。
大した煙の様に見えなかった。
民家の火事程度と感じたのである。
「 天六の方やな 」
「 遠いなぁ 」
そう言って、それ以上進まなかった。
毛馬橋を渡らなかったのである。

ところが
夕食時、テレビのニュースを見て驚いた。
天六の地下鉄谷町線工事現場でガス爆発事故が起こったと報じていた。
大事故だったのである。
一度爆発が起こり。
それを見に集まった人人が、二度目の大爆発に巻き込まれたと 、・・・
そう報じていたのである。
大勢の死傷者が出たと報じている。 大惨事である。
私は、
「 見に行かんで良かった 」
「 あのまま、行っていたら、死んでたかもしれん
共にテレビを見ていた家族に、興奮してそう語った。

所謂
天六ガス爆発事故
私の高校生初日
始業式の日に起こったのである

翌日( 9日 ) 朝礼に於いて、
都島第二工業高校 ( 定時制 ) の生徒一人が事故に巻き込まれたと、校長が告げた。
当時は、天六駅から都島工業高校まで通学路として徒歩で通う生徒や教師が大勢いたのである

天六
天神橋筋六丁目の略称で、大阪人はテンロクとそう呼ぶ
昔は、阪神電鉄の路面電車や阪急電鉄千里線の始発駅
 大阪市営路面電車の停車駅もある交通の要所でもあった
斯の有名な、日本一長いアーケード附き商店街・天神橋筋商店街もここから始まる

周りには映画館等が有る、私が居住する地から最も近い繁華街であった

 

 
特に想い出深きは是
阪急電鉄千里線・天神橋駅

「♪ 走れ狼少年ケン ♪」・・・と、

昭和39年(1964年)小学4年生の秋、遠足での帰り
改札口を出て階段を降りながら、クラスの皆と唄ったこと
阪急・天神橋駅での想い出・・である

昭和44年(1969年)12月6日
地下鉄堺筋線(天神橋筋六丁目-動物園前)が開通した際
阪急千里線は大阪万博・EXPO'70の開催を機に、地下鉄堺筋線と相互乗り入れとなり
地上にあった阪急天神橋駅は無くなり、駅舎も改装され昔の面影は無くなって仕舞った

今や、改装された建物も無くなった
これも、時代の流れ
仕方なきこと・・なれど、想へば懐かしい


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Unknown (dollyosaka)
2021-05-01 01:00:01
あの天六の事故の日、私は桜宮高校のすぐ横の都島公団住宅に住んでいました。
爆発があった時、ガラス戸が響いたのを覚えています。
父親がなかなか会社から帰らないので心配していましたが、忘れ物をして天六から会社のある本町に取りに戻ったそうで、九死に一生を得ました。知り合いの娘さんが爆発で亡くなりました。私は9歳でしたが非常によく覚えています。
書いてくださってありがとうございました。
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天六ガス爆発事故 (唯我独尊)
2021-05-01 19:30:34
dollyosaka様へ
昭和45年4月8日に起きたこの大事故。
私が事故に遭遇するか否かは、紙一重だった・・と。
然し、その紙一重がどちらに向かうか・・という事は分らないもの、亦、それが運命というものだとすると。
毛馬橋を越えなかったこと・・が紙一重、私の運命だった。
51年経った今でも、そんな想いが心懐にあります。
コメント、ありがとうございました。
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メディアのいい加減さ… (chokotto)
2023-05-25 08:52:13
遠い過去の、この「天六ガス爆発事故」の記事をネットで触れることはできます。しかし、この“事件”を正確に記述の例はなく、それどころか出鱈目というのが実態でしょう。そしてその事実をON TIMEの人らでない、すなわちネット依存者の若い人、中高年にしても気付かない。「ネット」だけでもありません。大新聞メディアも今ではこの「事件」を伝え聞いた世代の記者が書いているため、当然、正当性の欠く記事が流布され、またそれに触れた読者庶民が誤った認識のままにこの世を過ぎるのでしょう。
少々の「前置き」でしたが――、
この「事件」の重要な点に大メディアも(当然に)ネットもまったく触れていない事項がいくらもあります。その一つは、このガス爆発事故が起きた日が何の日だったか?、ということです。何の日?…事故の日でしょ!、と返すしか脳のないメディア、ネット、ではないでしょうか?

この事故は学校の「始業式」の日に起きたのです。
この「事件」について触れた記事で事故当日が「始業式の日」と書かれたものは目にしたことがありません。始業式、この日の事故であり、そして始業式を終えた「夕刻」が事故発生時刻であること、そしてその「経路」の致命的な遺憾性、当時、天六駅周辺では「明日から学校が始める」と新学期に向け、文房具や準備品を求め学童らが「天六阪急ビル」内一階の「ハチキン」(阪急共栄物産→阪急共栄ストア→現:阪急オアシス)へ“集結”するのが慣例でした。文具品が最も品数豊富だったからです。この天六阪急ビルへ向かう経路と、建物が面する都島通りで事故が起きたのです(当ブログ参照)。多くの子供らに犠牲を与えた「日時の属性」について触れた記事が皆無であることに、メディアやネットのいい加減さと「ゴミ」ぶりが露呈しています。
また、この事故が「繁華街」で起きた事故と吹聴の傾向ですが、事故が起きたのは繁華街の(むしろ)「外れ」です。こちらのブログ記事でそれを確認できます。「天六の繁華街で起きた事故」とすれば「煽る」ことができ、無慈悲な人らへ興味を示すことができます。それがメディアの本性、記者やネット記事の書き手らも(こちらのブログを除き)同じムジナと言えるでしょう。
最後にこの“事件”が大阪市電の廃止の翌年であったことと、「大阪万博」が開催開始の翌月であったことを記しておきましょう(これについてもメディアは触れた類がありません、事件の遠因であるという重要な眼目であるにもかかわらず…)。
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