村の駐在さんが
自転車オートバイに乗って走っていく。
吾々はその後を追いかけた。
そして、排気ガスを吸った。
堪らなくいい匂いがしたのである。
昭和35年 ( 1960年 ) の、ことである。
出逢い
「 おとうちゃんを迎えに行ってきて 」
・・と、母が云う。
六歳の私は、
叔父から借りた自転車を三角乗りして
花田先生宅へ
親父を迎えに行ったのである。
平成の花田先生の家
小学校の恩師である先生から
五右衛門風呂を請負っていた親父。
完成してこの日
もてなしを享けていたのである。
案内されて上がると
「 たぶん・・飲めょうるんじゃろうて 」
・・と、母の推ったとおりであった。
親父が独り、先生を肴に得意気に歌を唄っていた。
手もみの手拍子をとりながら、
目を閉じて顎をあげて唄っている親父の姿を観て、
「 だいぶ酔うちょる 」
・・と、そう感じた。
先生は黙って親父の歌を聞いていた。
然し、もて余している様子である。
奥さんが私に何か食べさせようと、
別室に案内しようとするので、「 いらん 」・・と私は遠慮した。
わしは、『 ホイトボ 』 じゃない。
『 ホイトボ 』 ・・と、想われたくなかったのである。
然し、そんなことなぞ気にも掛けずに後ろから抱え上げたのだ。
遠慮したからには、誰がすんなり抱えられるものか。
私は、足をジタバタさせて抵抗した。
それでも、いっこうに構わず、私をムリヤリ別室に連れて行ったのである。
私は抱かえられた事、大に恥ずかしかった。
室には、高学年の男児小学生が二人いた。
ところが この二人、親父が帰るまで私の相手をして呉れたのである。
然し、何を食べたかは まるで記憶しない。
「 花田先生の家はれっきとした武士の家柄で、 剣術指南役じゃったんで。
大小の二本差し、じゃったんど、 それに比べて、うちの花田は足軽じゃきん
短い刀しか持てんかったんじゃ 」
「 同じ名字でも親戚じゃない、遠い親戚かも知れんが 」
・・親父から、そう聞かされた。
「 我が花田家は脇差し一本では食うてゆけんもんじゃきん、
左官屋と百姓の二刀流しちょるんか 」
・・・と、そう想った。
然し、真実のところは分らない。
人生あな不思議
翌年の昭和36年(1961年)4月
私は三ノ瀬小学校に入学した。 ・・・リンク→想い出る故郷 三ノ瀬小学校
ピカピカの一年生
そして
担任は、おんな先生
なんと、驚く勿れ
おんな先生こそ、あの時の花田先生の奥さん
日出子先生であったのだ。
2016年の今
日出子先生の御顔
覚えちゃあいない
然し
私が子供の頃から
ずっと心懐にある面影は
映画・二十四の瞳の大石先生こと
高峰秀子さん
・・・そう、
想っている
三ノ瀬小学校 昭和54年(1979年)6月20日 向・母の実家より撮影
1階玄関の左横が一年生の教室、次が二年生の教室 昭和36年、37年と此処で学んだのである
♪春の小川は さらさらゆくよ
岸のすみれや れんげの花は
すがた優しく色美しく
咲けよ咲けよと ささやきながら♪ イメージ
昭和36年 ( 1961年 )
小学校一年生の理科の時間、
教室を出て学習することがあった。
海があり、浜がある。小川があり、田圃がある。野があり、山がある。
そんな自然環境のあるところ。
それならば、住吉浜から大地蔵への山路を歩けばいい。
道行き、皆で唄った 「 春の小川 」
それはもう、楽しいに決まっている。
山路で見つけた シダ の葉。
帰り道 「 米が なっちょる 」
・・・と言って、刈り取ったはカラスむぎ。
田圃一面ピンク色
♪ れんげの花がひらいた
昭和37年 ( 1969年 )の テリトリー
想い出の一風景
今も、私の心懐に在り続けて消えることはない
忘れることはない・・・のである