大阪ヒーロー
漫才、落語、新喜劇の革命児達、我がヒーローを物語る
目次
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一
笑いたいのをこらえたのに
昭和38年(1963年)
大阪に引越してきて、テレビで初めて「漫才」を知った
漫才、落語、漫談、浪曲、講談、新喜劇・・
8歳の少年の私
これを、「おもしろい」と思った
こういう芸能文化の在る大阪が、とてつもなく大都会に想えたのである
少年は感動したのである
二
「おかあちゃん、この漫才おもしろいで」
新しい風
昭和42年(1967年)
(中学1年の)私は、いつものとおりテレビで漫才を見ていた
そして
「おかあちゃん、この漫才、おもしろいでェ」
夕食の支度をしていた母に、そう叫んだのである
それはもう、おもしろかった
三
おまえ・・ブタマン屋の娘やろ
グラマーな女優(ハーフがかった美形の顔付)・・西川洋子が通行人の役で登場する
岡八郎が歩み寄り
「お嬢さん、僕と結婚して下さい」
「お断りします」
「なんや、八ちゃん、初対面の相手にいきなり」
「俺は、女性に遭うと、結婚を申し込む、システムをとっとるんや」
断られた、腹癒せに
「なんや、おまえ・・よう肥えて」
「おまえ・・ブタマン屋の娘やろ」
「ブタマン屋の娘です」 ドテー・・・ここで観客大笑い
岡八郎全盛期の吉本新喜劇の一場面である
四
革命児達
昭和44年(1969年)
大阪万博の前年、大阪は活気に満ちていた
そして、この活気に満ちた、大阪の勢いが、ヒーローを産み
そして、彼等は、「大阪の笑い」 を革命していく
笑福亭仁鶴
吉本新喜劇の岡八郎
漫才の横山やすし・西川きよし
各々の革命児の出現と共に、笑福亭仁鶴の登場も亦、大阪の笑い を変えた
そしてそれは、大阪の芸人の存り方をも変えたのである
是、真に革命的と謂えよう
落語でもなく、漫談でもなく、これまでに無い形の喋りは、積重ねた過去をも、凌駕したのである
中学生の吾々は、だからこそ これを 面白いと想った
これを 吾々のモノ と、認めたのである
そして、この吾々が認めたる モノ は、大阪発 は、全国区に展開していった
吾々は得意に成って、自慢したのである
彼は 吾々のヒーローなり と
五
すきがあったら どっからなと かかってこんかい
岡八郎の真骨頂
吉本新喜劇の歴史上最大のギャグである
これほど爆笑を取ったギャグが他にあるものか
私にとって
岡八郎は
まさに、ヒーロー なのである
六
ガオー 岡八郎
男は泣いたらあかん
そう、教育された
人前で泣いて、どうする
歯をくいしばって、頑張らんかい
男は、泣いても、生涯で3回だけや
男が泣く時は、理由がいる
そして、その時は、誰はばからず
豪快に泣け
そう、教えられたのである
「男は豪快に」・・を信条とする
吾々の世代、誰もが持つ、認識である
七
人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして
面白い落語から大爆笑落語へ
昭和45年(1970年)~50年(1975年)
革命児・笑福亭仁鶴が、我々に落語を知らしめ、落語に耳を傾けさせた
落語も面白いもの・・・と
落語を聞く・・を、若者の一つのファッションとしたのである
然し、それは未だ、粋の範疇、通の領域
落語の域を超えるまでには行かなかったのだ
時代は進化する
昭和48年(1973年)桂小米は桂枝雀を襲名した、そしてこれを機に
枝雀がばけた 大ばけした
ここに、ヒーロー・桂枝雀が真打登場・・したのである
彼の落語はこれまでの全ての落語を凌駕した
それはもう、大爆笑の大爆笑
落語を聴かせて、且つ、我々を大爆笑させたのである
これぞ、枝雀落語の真骨頂・・と・
八
大阪名物パチパチパンチ
ポコポコヘッドに、カンカンヘッドは男のロマン
困った困ったこまどり姉妹、しまったしまった島倉千代子・・・
・・・等々のギャグを持つ
強面のキャラクターが、一転愛嬌たっぷり変貌するところが可笑しかった
私の知るところ、異色なキャラクターであった
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8 大和撫子
に続く
当時、大正人のインテリ系義父は、一緒に浅草で飲みに行くと「◯◯クン、明治は良かった」を聞かされました。
昭和しか知らない◯◯クンには羨ましかったですね。
今、皆、周囲が鬼籍に入り、令和まで生きながらえて、初めて「昭和は良かったヨ、キミィ~」と言える権利だけは確保できたようです。
私は戦後の高度成長期の時代と伴に過ごし、
だから『 私の昭和 』は、感動の連続だった。
そんな良き時代に生きたこと、嬉しく思っています。