昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

気がついてみたら

2016年04月02日 05時02分02秒 | 1 想い出る故郷 ~1962年

「 あはははは 」
3級年長のターボン ( 山本タダトシ ) が、押し出されて尻餅をついた。
その姿が滑稽で、思わず笑ってしまったのである。

類似イメージ
図は、『 エスケン 』 という、子供の遊び。
8合戦と同じ種類の遊びである。

8 合戦
男児の遊びである。

地面に大きく、8の字を描いて、丸の中が互いの陣地。
8の字の上下に出入り口をあけ、
8の字の周りは 1m程幅の通路を作った。
出入り口から通路を通って、相手の陣地へ攻込む。
陣地、通路から敵方全員を押し出せば、勝ち という遊び。
外へ出されたものから、ゲームオーバーするのである。
大阪でも 8合戦と全く同じルールの 『 さざえさん 』 が、あった。

文化は継承されてこそ、文化に成り得る。
相撲やチャンバラが子供の遊びの主役だった頃、
情報源は人の口、クチコミであった。
古典的な遊びは先達から伝承され、後輩へ伝承した。
少なくとも昭和の30年代までは。

昭和36年 (1961年)
蒲刈中学校の運動場
中学1年のヤンダー (山田貞夫・6歳年長、叔父と同級 ) が、頭でもって  (カシラ)
小学1年の私を含めた、十人程で遊んでいた。
敵味方に別れての 『 はち合戦 』
年長の者が 幼き者に手加減する 」
・・・
其は、
当り前のこと、「 暗黙のルール 」 で、あった。

「 あはははは 」
3級年長のターボン ( 山本タダシ ) が、押し出されて尻餅をついた。
その姿が滑稽で、思わず笑ってしまったのである。

それまで、あたりまえの如く機嫌良う遊んでいたのである。
ところが
私に笑われた 「 ターボン 」 所謂、気性(たち)が悪い。
笑われた事が、気に入らなかった。
私を睨みつけている。
「 やられる・・」 ・・・そう感じた。

2回目の合戦が始まった。
やっぱり、案の定。
彼は まっしぐらに、私の処へ来るや否や
真正面から 渾身の力でもって 私を突き飛ばしたのである。
してやったり 」 ・・・ドヤ顔の ターボン。

ところが、尻餅だけでは済まなかったのだ。

「 ドン!」
後頭部が 勢いと共に地面へ 
まとも であった
私は、天を仰いでいる
泪で滲んだ太陽が見える   ( ニジンダ ) 
自分の泣き声が 周りの声が
全く 聞こえない
痛みも分からない 
視野が徐々に狭く成って行く
それは、スローモーションの如く であった
視野がなくなる前に意識がなくなった

目が覚めると、太陽 は沈んでいた

どれだけの時間、
眠っていたのであらうか。
その間、
所の大人を呼ぶ事もせず
私の家に知らせに走る事もせず
況や
「 病院へ連れて行かねば 」
・・・なぞ
誰一人として、考えもしなかったのである。
それどころか
気絶した私を
そのまま運動場に
放置したまま、
じっとしていたのである。

「 もう・・夕方か・・」
皆が鉄棒の周りで遊んでいる。
シーソーの板に立っている者もいる。
皆が遠巻きに、私の顔を覗き込んでいる。
そして、私が立上がるのを見とどけると
安堵した面持ちで、それぞれの家路に付いたのである。


頭はクラクラしていた。
運動場から道路へ続く階段を上がった処に店があった。
私は、透明のビンに入った 5円の 「 酢イカ 」 を買った。
そして、10円 支払った。

・・・のだけれど
おつり の 5円 貰ったか否か、
記憶が無い。

後日、
この事を知った母は、
「 頭 」 が 頼りない。
・・と、嘆いた。


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