昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」

2024年02月11日 06時17分01秒 | 3 青い鳥 1967年~

青 い 鳥 
の、続き

♪♪
あなたが 耳もとで  ささやいた夜明けは
ふたりが 結ばれた  美しい夜明けよ
ひとすじこぼれる  このほほの涙に
あなたも濡れていた  懐かしい夜明けよ
忘れないわ  あのひととき
私は今  あなたのもの


ピンキー と  キラーズ 唄う
「 涙の季節 」 も、流行っていた
学年末、
最後の 『 席替え 』 が行われた。

私の席は、教室中央列の前から2列目の位置。
彼女の席は、私の席の1列左横・後ろ2列目。
やっぱり、
相席、机を合せること ・・・適わなかったのである


小さな幸せ
教室正面の黒板上には、
額に入った絵画が掛けられていた。
額中絵画
「 オッ!」
席に座って見上げると、
額のガラスが鏡に成って 私の後ろの景色が見えた。
なんとそこに、彼女が写っているではないか。
私は 小さな額の中に 『 青い鳥 』 を、みつけたのである。
毎日 『 青い鳥 』 を、見ることができる。
而も
一人、ひっそりと。
黒板を見る振りをして、『 青い鳥 』 を、見ていたのである。
それはもう、幸せな時間だった。

♪  小さな幸福を ぼくの手に乗せたのに ・・・・

ところが、
幸せな時間は、長くは続かなかった。

「 花田君、黒板見る振りして、キーコ 見てやる!」
選りにも選って、
告白の時、彼女が 「 OOOやろ 」
と、言った OOOが 皆の前でそう告げたのである。

「 私、知っているよ 」 と、彼女。
( なんてこったい ・・・かっこ悪いったらありゃしない )

私から彼女の姿が見えるのである。
だから当然、彼女からも見える。
しかも、彼女は私の後ろに居て、私の動きが見えるのである。
そんなこと、考えなくっても判ること。
然し私は、そう云われるまで、その事に気がつかなかったのだ。

そして、
「 知っているよ 」
と、彼女がそう言ったこと、
私の耳に届いたのである。

それ以来、
私は、カナシバリにあったが如く、
黒板上に目を向ける事ができなくなった。
もう 『 青い鳥 』 を、
見ることが できなくなったのである。

OOO ・・・おまえの所為やぞ


昭和44年 ( 1969年 ) 3月15日 (土)
三年生の卒業式の日。
二年生の吾々は半ドン、教室で自習していた。

教室の窓から、淀川堤に大勢の卒業生の姿が見えた。
話声が聞こえそうなほどの近距離である。
ついさっき、卒業式を終えたばかりの卒業生。
クラスメイトとの名残りを惜しんでいるのだ。
一年前と同じ光景である。

その中に、クラブの先輩も居た。
「 如何して、( 判を押したように ) 卒業生はああして堤に上るのであらうや 」
・・・と、そんな想いで眺めたのである。

泪する女子生徒。
杉本さんが泣いていた。
『 青い鳥 』 も、目に泪を浮かべている。
誰の為に、泣いているのであらう ・・や


千昌夫  『 星影のワルツ 』
この頃 流行っていた
当時の吾 心境にピッタリ・・・と、唄った

別れることは つらいけど  しかたがないんだ。
君の為、別れに 星影のワルツ を歌おう ・・・♪

愈々二年生も終る。
三年生になると、クラス替がある。
あれだけ仲の良かったクラスメイト とも お別れ。
それは、
『 青い鳥 』 との、別れでもある。

昭和44年 ( 1969年 ) 3月24日、終業式
中学二年生を終了した。

・・・ 青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」 に 続く

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青い鳥 1 「 青 い 鳥 」

2022年09月25日 05時20分03秒 | 3 青い鳥 1967年~

♪♪
青い鳥を見つけたよ 美しい島で

幸福はこぶ 小さな鳥を
だけど君は あの空へ飛んで行くんだろう
ぼくがこんなに 愛していても
小さな幸福を ぼくの手に乗せたのに
青い鳥 青い鳥 行かないで
君がそばにいるだけで ぼくは嬉しいのさ
そのまま ぼくを見つめておくれ
・・・ザ ・ タイガース

 
告白

昭和43年 ( 1968年 ) 秋の放課後
掃除当番だった私は、大橋達と共に教室を掃除していた。

掃除がほとんど終わりかけた頃
教室の後側に5、6人の女子のグループが、
前の黒板側には、同じように男子のグループがあった。
私は、その男子のグループに居た。

「 行ってくる 」
私は独り、女子グループへ向った。
めざすは一人 女子グループの中に居る。
彼女は、クラスの男子生徒のマドンナ。
吾々は 『 青い鳥 ・ガール 』 と、呼んでいた。

「 ちょっと、話しがあるねん 」
「 何・・」

彼女は、私がこれから何をし様としているのか判っている。
前の男子達も、後ろの女子達も、皆判っている。
女子の集りから彼女一人を連れ出し、黒板前の教卓へ・・

教卓を挟んで差し向かえ、彼女は黒板を背にしている。
皆が固唾を飲んで、こちらを見つめている。
彼女は、うつむいている。

「 俺の好きナン誰か、知っているやろ 」
「 〇〇〇 ヤロ・・ 」
「 違う ・・お前やで 」

然し
私の期待していた、
「 私も・・」
は、無かったのである。

「 好きとか、嫌いとか、謂うの抜きで、話し したい 」
と、予期しなかった返事に私は対応できなかった。
だから、それ以後何を話したか てんで覚えていない。

只 茫然と、
戻って行く彼女の後姿を見送ったのである。

私は、フラレタのか・・・否か
中途半端な結末となってしまった。
白黒はっきり した方が スッキリしたのに。

然し
おんな心は、解らない
フラレタ 訳ではなかった。
それだけではない
クラスの皆に認知されたのだ。

吾々の時代、中学2年生は純粋であった。
女子と会話するだけで
あいつ、男のくせに、「 チャラチャラ 」 していると、非難される。
さもあらん。  私も、そう考えて居た。
そういう時代であったのだ。
だから
クラスの皆が認知してくれるだけで、良かった。
二人で交際するなどとは、考えもしなかったのである。

とは雖も
告白以来
彼女とは、まともに話すことができなくなってしまった。
なぜかしらん、意識してしまった。 ( 彼女にも、亦 周りにも )

「 話しをしよう 」
そう言って、一度だけ 呼びかけたことがある。
その時、私に示した 彼女の嬉しそうな笑顔、
生涯忘れない。

その時の
彼女の笑顔は

ピンキーこと
今陽子にそっくりだった

男はつらい
昭和44年 ( 1969年 )
年が代わって3学期、席替えがあった。
抽選で、男女二人一組で机を並べて座る。
これまでに、一度も、ペアにならなかった者ドウシが席を並べる、というのがルール。

抽選番号の席へ着席すると、私の相手は一度ペアになった女子であった。
彼女も同じであった。
お互いのペアが二回目どうしで、重なったのである。
ルールでは入れ替わらなければ成らない。

彼女が席を立った。
続いて私の隣の女子が席を立つ。
私は彼女と席を並べることが出来る ・・・

「 ワーッ 」
クラスの皆が歓声を上げた。

私は席を移動しようとしていた隣の女子を制してしまった。
制して、座らせたのである。

若し、彼女が、こちらに来たなら、私はもう嬉しくて、嬉しくてたまらない・・
その気持ちを隠すことが出来ないだろうと、想ったのである。
ニヤケタ私の顔を、皆に見せたくは無かった。

私は、世紀の やせ我慢をしてしまった。

・・・青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」 へ、続く

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進路相談 「 全くの、五分・五分ですか?」 

2022年08月18日 05時04分43秒 | 3 青い鳥 1967年~

同級生・tei と、私
不思議と、二人連なるリズムが合う
小学6年生の時も然り
而も、よくよく、おんなせんせいに、縁がある様である
・・・ リンク→おんな せんせい

 木下雅子先生
 中学二年、三年時の
 担任の おんなせんせい
 美人で長身の先生は独身
 理科が教科の才女で
 吾々の自慢の先生であった

昭和45年 (1970年 ) 2月
中学三年生
公立高校の進学校を決めるに大詰めの段階にあった。
私と同級生・tei
担任の木下雅子先生とのマンツーマンで、
再度 進路相談を行うことに為ったのである。
私の場合は、希望した高校に、確実に合格するは難しい。
・・・と、謂う事であった。
それは西館1階の理科準備室で行われる。
準備室前には、クラスメイトの女子生徒・福本サンの姿もあった。
先ず、同級生・tei が入室した。
簡単な引き算である。
私と女子生徒・福本サンが残り、二人して廊下に佇んだのである。
 ←クリック
 西館1階の理科室

クラスメイトの女子生徒・福本サン
美人で
爽やかな人であった。
順番待ちをしている二人、
どちらかとなく、喋りだしたことから
ちょっとした物語と発展した。

リーダー格の
福本○○さん

女子生徒との猥談で
顔を染めたは
担任のおんなせんせい

「 このー、怪物 」
私の顔 が、テレビアニメの怪物君に似ているとチャカスのだ。
「 似てへんわい 」
・・・
とは、云ったものの、まんざらでもなかった。
彼女、貶したつもりであらうが、
私は貶けなされている気がしなかったのである。

あーでもない、かうでもない。
・・と、他愛もない話しで盛上ったのである。

そして、成り行きで つい羽目を外して仕舞った。
挙句、話題が翔んだ。

何憚ることもなく
「 聞きたいことがあるんや 」
「 なに ? 」
「 ラブシーン観ていて、俺ら男は○○立ってくるけど 」
「 女のおまえらは、どうなるんや 」
「 あそこが、こそばゆくなる 」・・・と、彼女 躊躇が無い。
「 あそこ ? ・・って、どこや ? 」
「 あそこって、あそこ・・よ 」

「ふうん ? 」
私が、全く予期せぬ応答であった。
彼女の方が、一枚も二枚も うわてだったのである。

進路相談を終えて、同級生・tei
室から出て来るや否や
「 おまえら、アホか 」
「 なんの話しとるんや、まるきこえやったぞ 」
「 そんな卑猥な話し、廊下でするかぁ 」
「 先生、変な顔しとったぞ 」
「 おまえらの話しが気に為って、もう俺の進路相談もクソもあるかい 」
・・・
と、口では云ったものの、
まんざらでもなさそうで、顔は笑っていた。

本当のところは、先生も苦笑していたんだと。

次は私の番
呼ばれて室に入る
私の進路相談
私は、大阪市立都島工業高校の建築科を希望した。
所謂 「 天下の都工 」 である。
穏やかな口調で以て反対された。
淀川中学では4年前に一人、都工・建築科へ合格をみたが    (・・・菊田さん)
その人は相当優秀な成績だったらしい。 
2年前、冒険して失敗した人がいて、それ以外は誰も受験していない・・・だから
「 西野田にしなさい 」・・と、云う。 ( ・・・大阪府立西野田工業高校の建築科 )
確実に合格するところを選びなさい。 ランクを下げなさい・・・と、そう云うのだ。
決して冒険はするな・・と、謂うことであった。
職員会議でも、それが結論だった。・・・と云うのである。
石橋を叩いて渡れ・・・とな。

これはもう、相談でなく、勧告である。
私としたら
冒険、チャレンジ・・と、謂う認識は無かった。
有るは、どうしても行きたい・・と、謂う願望、夢であった。
私は、合格の確立を訊ねた。
確立は半々だという。
「 全くの、五分・五分ですか?」 
「 5.5の方ですか、4.5の方ですか?」
・・・・
先生、答えなかった。
 リンク→蛙の子は蛙

昭和45年 ( 1970年 )
3月14日
大阪万博が開幕した

夢を実現するは男のロマン
結局
先生の勧告を受入れなかった。
私とtei 
己が希望を押し通したのである。


試験の前日の16日 (月)
公立高校の受験生を集めて、
学年主任の大沢先生が各々に激励して周った。
「 心配するな、大丈夫 ・・」 ・・・と。

私の番が来た。
「 お前はなァ、・・・」

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生涯最高のスコア・・・

2022年07月25日 07時52分25秒 | 3 青い鳥 1967年~

♪  律子さん 律子さん 爽やか 律子さん ♪
吾々の世代なら、誰もが知っている
女子プロボーラー・中山律子
花王フェザーシャンプー ・・・昭和47年のTV・CMである

女子プロ
昭和46年 ( 1971年)
空前のボーリングブームに日本中が沸いた。
女子プロボーラー
が、時代の脚光を浴びたのである。
中でも、美人で、しかも
女子プロ初のパーフェクト ( 300ポイント ) を達成した、
中山律子プロ ・・・超人気があった。
尤も、高校2年生の私は、
サウスポーで長身の石井利枝プロのファンであったけれど

 ← 石井利枝フプロ
    他に
    須田開代子プロ

    並木恵美子プロ
    野村美枝子プロ
    ・・・と、
              1970年代の人気プロボーラー

初の体験
昭和44年 ( 1969年 ) 3月・中学2年生の3学期
長島ファンの私、プロ野球のオープン戦を見ていたところ
勉強を見て貰っている久田さんが訪ねてきて
「 花田君、ボーリング いこうか 」
「 ボーリング・・・」
テレビで見たことがある。 ・・・その程度しか認識が無かったが
誘われるまま
京阪森小路駅傍の森小路ボーリングセンターへ
( テレビCMで流れていた、当時まだ有った吊ピン式のボーリング場 )

初めてのボーリング
久田さんに教えてもらったとおりに
11ポンドのボールを持ち
真ん中より少し右側に立ち
真ん中一つ右のスパッドをめがけ
「 わきを締めて投げるんやで 」
サア 感動の第一投
ボールは  ドン と 鈍い音をあげ レーンに落ちた。
そして、シュート回転してレーンを真っ直ぐ転がって行った。
結果は 記憶に無い
イメージ通りには、転がらなかったのである。

「 こういう風に投げるんや 」
・・・と、
先生である久田さんが
お手本を示す。
彼の投げたボールは、
レーンを滑る様に、しかも勢いよく転がって行く。
「 オッ  !  」
レーン右側から大きくカーブして、ピンの真ん中へ向かって走った。
そして
パーン !! 
・・・という音を響かせ、
全ての
ピンが飛び散ったのである。
「ヘー 」 ・・・と、もう感嘆符
是を 『 ストライク 』 ・・・と謂うのだそうな。

「 これは、面白い 」 ・・・と、そう想った。

ボーリング人気は高まり、
「 ボーリングをする 」 ・・・は、ファッションに成っていった。
クラスでも、スコアカードを持ってきて自慢する奴も現れてきた。

「 ドヤ 」 ・・・と、
クラスメイトの見崎、
160台のスコアを見せて自慢する。
「 オー、お前すごいな 」
私は、偶にまぐれで150台を出す時もあったが、
「 アベレージ 」 は、130 といった程度であった。

200 オーバー成る ?
昭和45年 (1970年 ) 1月、中学3年生の3学期
クラスメイトと赤川二丁目の松竹ボールへ
この日は、
なぜかしらん 調子がよかった。
第1 フレーム ストライク
第2 フレーム ストライク
第3 フレーム ストライク
いきなり ターキー
第4 フレーム 9本 + スペア
なにせアベレージ130の私、残り1本を取るのは難しいことなのである。
偶に当るときもあるが、たいていは外す。
今回は、その偶にが巡ってきたのだ。
狙ったとおりボールが転がり、スンナリ と スペアーが取れたのである。
偶々のマグレ当たり ・・・が連続しているだけのこと、
・・と、そう想っていた。

極め付きは、第5フレームであった。


3、7、10 ピンが残ったスプリット
これを 『 クリスマスツリー 』 と、謂うのだそうな。
「 3番ピンを左に跳ばして、7番ピンを倒そう 」 ・・・と
3番ピンと10番ピンの間を目掛けて投げると、
その思惑どおり、3番ピンが弾けて 7番ピンを跳ばした。
そして、3番ピンに当ったボールが右に方向を変え
10番ピンを倒したのである。

「 ヨッシャー 」
イメージ通りのピンアクション
完璧な スペアーとしたのである。

第5 フレーム 7本 + スペア
遣ること 為すこと 全て旨くいく
もう ・・・絶好調である。

「 オー 花田、どないなってんねん 」
「 ホンマに どないなってるんやろな 」

第6 フレーム ストライク
第7 フレーム ストライク

「 ひょっとしたら、イクデー!」
声なき、心ん中の雄叫びである。

200オーバーは、誰しもが抱く大目標である。
200オーバーの快挙が、私の頭を過ぎる  (ヨギル)

そして、第8フレーム、
初めて意識し以ての一投目
6本
「 やっぱりあかん ・・・か 」
「 いつまでも ツキ が続くはずもなからうに 」
・・・そう想いつつ、投げた
二投目
なんと、なんと スペアー 取れたのである。
「 オーッ 」
・・・皆から、歓声があがる。
「 花田 いけるでー 」

この日の ツキ まだ 続いている。
「 イケる 」 ・・・私も、そう想った。

第8 フレーム 6本 + スペア

そして運命の、
第9フレーム 
ドキドキし以て 一投目を投げた。
ボールは、この日のこれまでのストライクの軌道をえがいて転んでゆく
「 オッ、ストライクゾーンや ・・イッタ 」
・・・と、そう想った。
トップピンの右半分が私のストライクゾーンである。
完璧に当った。 ・・・そう想った。
然し、完璧に当たった。 ・・・筈なのに、1
本残った。
然も、苦手の 10番ピンである。

「 アー いやな一本が残ったなあ 」
「 反って 1本とる方がむつかしいんや 」
・・・と、言いつつも
スペアすれば、200オーバー になる。
「 ドヤ 」 と ばかり、 皆の前で ええかっこ も、したい。
ここが勝負所である。
後ろで皆が固唾を飲んで見守る中、緊張の第二投目を投げた。
・・・・・・・・
「 ア~ッ 」
後ろの皆からから、溜息が・・・

10フレームを残し、スコアは 190

作文しているかの如き、まさか の展開である。
プレッシャーの中で、
自分の想い通りに事を運ぶこと、
相当の実力が必要である。
「 惜しかったなあ 」 ・・・では、すまされまい。
「 あと もうちょっと 」
・・・この壁を乗り越えることが、
どれほど難しいことかを
存分に想い知らされた。
プレッシャーに弱い ・・・は、力の無さゆえ

私の人生を振り返らば
このゲーム、
私の人生のサンプルのような
・・・そんな、気がする

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一緒に行ったろかぁ

2022年07月22日 17時30分24秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 あの先生、いかりや長介に似てる 」
・・・と、面接官を指して母が言う。
清風高校、親子面接での待ち時間中のこと。
私の緊張を解す為
・・・にと、吾母の気遣いである。


面接は円形校舎で行われた
高校入試
昭和45年 ( 1970年 ) 1月
愈々、高校受験
公立高校に入るは絶対、失敗は許されない。
ブレッシャーとストレスの最中さなかに居た。
私立高校の入学試験 ・願書受付が始まると
やはり、不安は募るばかり
そこで
試験馴れにと、万が一の滑り止めにと、
言い訳がましいが保険とばかり、公立と私立を併願受験することにしたのである。
然し、これはあくまで、試験馴れ・・・だと、確と自分に言い聞かせて

どんでん返し
「 誰が言ったか知らないが 」
大阪電気通信高校 が公立との併願で受験出来ると聞くや
此処で、模擬テスト を受けたことがあり、アクセスには馴染みがある。
「 是幸い 」・・と、ばかり
勇んで、守口市橋波西之町に在る高校へ行軍したのである。
友ガキ ・舟木が行軍に付合って呉れた。 ・・・持つべきは友 哉
願書を受取っての帰り道は淀川堤
 2008年頃の豊里大橋

万博道路として完成直近 (マジカ) の豊里大橋を眺めつつ、帰宅したのである。
ところが
願書の書類を見て驚く勿れ
合格すれば即座に3万円の入学金を納めよ・・と
3万円は大金であらう。
「 なんやこれ、専願と同じやないか 」


振出しに戻り
併願できる高校を探さねばならない。
「 お前、どこにしたんや 」
「 清風高校にした 」
「 そこ、併願できるんか ? 」
「 できるよ 」
「 ほんまか、俺も清風にするわ 」
然し既に、多田、早坂、山崎 の三人、
連れ以て願書取りに行ったとのこと。
「 しもたぁ・・・」
私は清風高校が何処にあるのかさえ知らないのであるから
当然、そのアクセスの仕方も分らない。
独りでは何とも心細からう
「 困っちゃうな、どうしやう 」・・・冗談ではない、本当に困った。
救世主現わる
・・と

傍で話を聞いていた、同級生 tei
「 一緒に行ったろかぁ 」
・・・
と、手を差し伸べて呉れたのである。
よくよく、しょげている私を 見るに見かねてのこと
嗚呼、神様 仏様、tei
赤川橋から市バスに乗って上本町へ
清風高校は、まさに都会の真っ只中に在った。
そして
無事に、願書を受取ることができたのである。

学校を見学しよう・・と
狭い運動場を覗くと、
そこには放課後のクラブ活動に精進する多くの高校生の姿を認めた。
そして、未来の先輩達 ( ? ) から声がかかる。
「 君等、入学したらアメラグ部に入れよ 」

初めて見る、コスチュームは、さすがに、あか抜けていた
「 アメラグ ? 」
「 アメラグ 謂うたら アメリカンフットボール のことや 」 ・・・と、tei
紅い夕陽が校舎を染める
目的は果たした。
晩くなるから、さよならしよう

帰りのバス
帰宅する人、人、人で、もう満員のバス
坐れるところなぞ有ろう筈もない
窓外の景色を眺むれば、とっぷりと暮れていた
30分は経ったであらうか、そろそろ赤川橋に着く
満員の車内、出口へ移動しようと、吊り革を持つ手を外したところ
座席のサラリーマン、運悪くも同じタイミングで立ちあがったのである。
そして
私の左肘が座席のサラリーマンの頭上を打った
「 痛ッ !! 」
「♪ごめんなさいね わたしを許して~ 」
・・・と、心で詫びた。

救世主 tei 、本当に世話になった。
「 ちゃんと、お礼をしとくんやで 」 ・・・と、母親。
当時流行のボーリング場でのプレイをプレゼントしたのである。
・・・
リンク生涯最高のスコア

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石川啄木・「 文学少女にはなれなかった 」 の、後書

2022年06月29日 05時38分01秒 | 3 青い鳥 1967年~

世の中には途方も無い仁もあるものぢゃ、歌集の序を書けとある
人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢゃ
ああでも無い、かうでも無い、・・・・
「 一握の砂・悲しき玩具 」 石川啄木歌集・・金田一京助編
新潮文庫 ( 昭和四十三年三月十日 二十八刷改版 )  
の、序文である。

「アハハハハハッ」
ともがき・舟木 が、笑い出した
「どうした、何がおかしいんヤ?」
「さっきから、そこばっかり、何遍も呼んでいる」
「途方もない仁もあるものぢゃ・・と」
「あるものじゃ・・何遍も呼んで、覚えるんや」
彼は、昔の言葉遣いが面白かったようだ
「・・ああでも無い、かうでも無い・・」
と、いった具合に私がそのまま読み上げていたからだ。
・・・リンク→文学少女にはなれなかった

一握の砂 ・ 悲しき玩具
石川啄木歌集
金田一京助編
新潮文庫・・・新潮社
昭和44年 ( 1969年 ) 購入

読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う

昭和44年 ( 1969年 ) 中学三年生であった私が、
国語の授業で関心をもった 『 石川啄木 』  その短歌中に、殊に感銘したるは
たはむれに  母を背負ひて  そのあまり かろきになけて  三歩あゆまず
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて  蟹とたはむる
ふるさとの 山に向ひて  言ふことなし  ふるさとの山は ありがたきかな

・・・然し、而今
これらの歌に、己が想いは無い。
己が想いを読み取ることができないのである。

当時感銘したものを記したもの。
下記に、それを集めた。
( 千代子とあるは、7歳下の妹が中学生の頃に同じく記したもの )


一握の砂

我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽ろきに泣きて
三歩あゆまず

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ

怒る時
かならずひとつの鉢を割り
九百九十九割りて死なまし

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

忘れがたき人人

よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ

悲しき玩具
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。

待てど、待てど、
来る筈の人の来ぬ日なりき、
机の位置を此処に変へしは。

庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる

拾遺

浪淘沙
我れ父の怒りをうけて声高く父を罵り泣ける日思ふ
母われをうたず罪なき球をうちて懲せし日もありしかな
あたたかき飯を子に盛り古飯をかけ給ふ母の白髪

とは雖も、
そんな私でも、真面目に読んだのである。
15歳だった私は、
己が心懐にある 想いを、啄木の歌の中から見つけようとしていたのである。
然し、その想いが何かは 判らない。

死ぬまでに 一度会はむと
言ひやらば
君もかすかに うなづくらむか


時として
君を思へば
安かりし 心にはかに騒ぐかなしさ

わかれ来て 年を重ねて
年ごとに 恋しくなれる
君にしあるかな

長き文                                      ながきふみ
三年のうちに三度来ぬ                みとせのうちにみたびきぬ
我の書きしは四度にかあらむ        われのかきしはよたびにかあらむ

50年以上も経った私が 、もう一度読み返してみて、
新に感銘を受けたものである。
己が心は何を求めん。

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引き潮が 満ち潮に変わる時

2021年09月13日 04時37分34秒 | 3 青い鳥 1967年~


↑ 昭和37年 ( 1962年 ) のテリトリー
『 住吉浜病院 』
昭和34年( 1959年 ) 5歳の頃、
正確に如何いう病院かは知らなかった。
然し、「 肺病の病院 」 ・・・と、先輩達から聞かされていた。
浜辺を歩く寝間着姿の大人の姿を見たことがあった。
なにかしらん 異様なその姿を観て、
「 さもあらん 」 ・・・と、そう想った。
その頃はそうだったのかも知れない。
 仏ケ崎の妹
住吉浜病院へ祖父を見舞う
昭和44年 ( 1969年 ) 10月14日
祖母 ( 母方 ) の見舞に帰郷した。
昭和38年 ( 1963年 ) 海峡越えて大阪へ出てから6年振りのことである。
・・・リンク→「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

引き潮 から

祖母の見舞が一段落すると、
明日は、住吉浜に行くと母が言う。
住吉浜病院に祖父 ( 父方 ) が入院しているのだ。
想えば、昭和39年 (1964年 ) 伯父の葬式以来 祖父の顔を見ていなかった。
・・・リンク→明日があるさ
曇り空の15日、昼過ぎ。
母と共に、祖父の許へ向かった。
この日の為に、学校 ( 高校三年生 ) を休んでくれた3歳上の従姉が案内してくれる。
従姉の優しきは不変也。
昔のままに ちっとも変っちゃあいないのである。
 
昭和44年 ( 1969年 )            昭和37年 ( 1962年 )
向港の桟橋に立つと、
海峡を挟んだ三ノ瀬港から渡海船が迎えに来た。
昔のように 櫓を漕ぐ舟ではない。
エンジン付のスクリュー船だ。
乗船すると、向港から一直線に三ノ瀬港へと走った。
 向港と渡海船
三ノ瀬港に着くと、
桟橋を上って路に立った。
これから一路 住吉浜へと向かう。
曾て 少年の私が闊歩した路である。
同じ路を 同じ順に歩いた。
なにせ6年振りのこと、どこもかしこも 懐かしい筈である。
然し、そんな心持ちにはなれなかった。
曇り空が重い。
なにか知らん 憂鬱な心持ちであったのだ。
さもあらん、昨日の今日である。
曾て 少年の私が、
あれほど遠い処 と、想っていた住吉浜。
さほど遠くは無かった。
・・・そう、感じた。

祖父はベッドに臥せたまま 口をきいた。
母が、私が、
何を話したかの記憶はない。
唯、
祖父は、傍に居る従姉のことを尋ねた。
さもあらん、祖父にとって従姉は初対面なのだ。
私はそんなことを、
生涯の記憶として覚えているのである。

これが祖父との今生の別れとなった。

吾心も、曇天の空も、晴れないまま・・・帰り路を歩いた。
だから、折角の風景 みちゃあいない。
すれ違う人も 知らぬ顔ばかりである。
もはや、此処では自分等が よそ者になっていることを感じた。
「 もう、故郷はないのか 」
・・・と、そう想った。

丸谷の祖母の所には寄らなかった。
余計な心配をかけたくなかったからだ。
 イメージは1979年
満ち潮 に
三ノ瀬港の桟橋から渡海船に乗った。
船が桟橋を離れた。
これから港を出て海峡を越える。
「 嗚呼、これで三ノ瀬とも おさらばか 」
そんなセンチメンタルな気持に流されそうになっていたその時。
ミヤちゃーん !!  」
と、大きな声で母を呼ぶ声がした。
「 誰じゃろ ? 」
母が振り向く。 私と、従姉も、その姿を探した。
ガンギの上に立ち、こちらに向って手を振る女の人の姿があった。
「 あれは、サユリさんじゃ 」
と、母が呟いた。

その瞬間 とき
なぜか知らん
少し、気が晴れた
そんな気がした

コメント

「 おばあさん どうやった? 」 ・・・○○○ が 問いかけた

2021年09月12日 19時17分51秒 | 3 青い鳥 1967年~


友ガキ・舟木、
よくぞ 頑張った。
斯くも必死なる形相、・・・拍手を贈る。
而も、裸足。 而も、完走。
『 まけてなるものか  くじけちゃならぬ 』
彼のそんな姿、
私は、それまでとうてい知るものではない。
卒業アルバム中の 斯の画像を見るまで知らなかったのである。
おそらく、彼の17年の生涯に於て、最も命を燃やした瞬間 ( とき ) であろう。
・・・リンク→17才のこの胸に
昭和44年 ( 1969年) 10月12日 ( 日 )
わが 淀川中学校の体育祭が行われた。
吾ら 中学三年生、
競技は7クラス対抗戦。
而して、
クラス一丸となり 吾クラスは優勝した。
私はというと、なんの活躍なく 無色な存在であった。
( ちなみに 徒競走は二位 )
 
3年生入場                               全校生徒 ラジオ体操・・・リンク→ラジオ体操 第二

♪僕らフォークダンスの手をとれば  甘くにおうよ黒髪が ♪
 
吾ら 3年生、男子が組立体操、女子は創作ダンス
このこと、昭和41年 ( 1966年 ) 、
小学校6年生時の運動会と、ちっともかわっちゃあいない。
  ・・・ 白組優勝 「 こんなことが 親孝行になるのか 」
男女の差別無きも、ちゃんと 区別なされていたのである。
 『 男は男らしく  女は女らしく 』 ・・そんな、時代だったのである。
ところで、小学校時の運動会では決まって万国旗があった。
そして、開会時に国旗 『 日の丸 』 が掲揚された。
旗が昇り以て、 国家 『 君が代 』 が、拡声器・スピーカーから流れた。
吾々はそれを 『 きおつけ 』 の姿勢で聞いていた。見ていたのである。
それが運動会での一連の行事であった。
ところが、中学ではそんな一連の記憶はない。 

 
校長から、優勝の賞状を授与される
吾クラス代表の tei と 野田さん

戦い住んで日が暮れて
優勝の余韻を懐に抱えて帰宅すると、・・・・
「 おばあちゃんが、もう・・・ながくないらしい 」
・・・と、母。
長柄浜に住む伯母 ( 母の姉 ) と共に明日の夜行で帰ると言う。

昭和38年 ( 1963年 ) 4月、
吾々家族は海峡を越えた。
「 嗚呼、行ってしもうた 」
・・・と、祖母 ( 母方)
窓から海峡を見つめては、そう 呟いていたという。
・・・リンク→故郷は遠きにありて想うもの

・・・その、祖母である。

運動会の翌日の13日 夜行に乗り、
翌14日 暁払い 母の故郷である 向 に着いた。
想えば、6年振りの故郷である。
 
昭和44年 ( 1969年 ) 10月15日    三歳上の従姉 ( ・・・リンク→海峡を越えて  )

ところが、祖母は元気だった。
体は動かずとも、意識はハッキリ していて、会話もしっかりしていた。
然しそれは、
『 灯滅せんとして光を増す 』
・・・の、状態だったのだ。  (
・・と、想っている )
我々は17日 大阪へ戻った。
ところがやはり
戻って息継ぐひまもなく、母はUターンしたのである。

18日、学校からの帰り路
淀川小学校前まで来たところで、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、背中越しに声がする。
○○○ の、声である。
振向くと、
○○○ と カーディガンの姿があった。

中学生最後の運動会の想い出は、
「 おばあさん、どうやった ? 」
・・・と、○○○が私に問うた、
祖母の見舞に帰郷した想い出とが 一に合わさる。
・・・のである

そして、もうひとつ

私の中学三年生時の通知表に、
「 欠席日数・・事故・・4日 」
とあるは、
斯の帰郷した4日間
のことなのである。

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教師の驕り 人としての格

2021年09月05日 16時17分44秒 | 3 青い鳥 1967年~

昭和42年 ( 1967年 )
学一年の保健体育の時間は、
2クラスで1つ の男女別々に授業が行われた。
我々男子は授業が終わり、ホームの教室に帰って来た。
ところが、教室では未だ女子の授業が続いていたのである。
チャイムは トックニ 鳴っている。
教室に入れない吾々男子、
廊下で女子の授業が終わるのを待たねばならない。

  
我々が女子生徒の授業が終わるのを待った教室・廊下
当時は 左窓下には、下足箱があり、出入口のドア窓は透明ガラス だった         ↑ 見返し
2006 年撮影                                                                                          右階段、柱横がトイレ  
原型はちっとも変わっていない                                                                   奥が 美術室  
39年という歴史的時間も、つい昨日の様に思える

教室の前後に出入口の引戸がある。
引戸には透明ガラス窓があり、中が見える。
「 未だかいな?」 ・・と
前の入口の透明ガラス窓から、覗いた者がいた。

時間を越えた授業である。
そぞろ の
女子生徒の心は窓外に注がれ、
彼に視線が集中した。

そこで、つい
彼はふざけてみせた。

女子生徒か゛・・クスッ・・と反応する。

これに、教師が気づいた。
そして
教師は、烈火の如く怒鳴ったのである。

教育の機会を放棄して
当時の教師は、
強くって カッコ良かった。

この男子生徒を教室に入れ、
女子生徒40名の前に立たせたのである。
頭ひとつ ハッて (叩いて)
そして
男子生徒を、立たせたまま、授業を続けたのである。

そざかし、満足したことであろう。
しかし 満足して貰っては困る。
一部始終を観ていた男子は、私一人だけでは無い。
廊下の男子生徒も、謂わば 教え子の筈。
しかも、中学生とは謂え、 である。
女子の目前にさらされた男子の心を慮ることも無く
己が神聖なる授業を妨害した ・・・と、
その罰として、衆目にさらしたのである。

こともあらうに、さらし者 にしたのである。

其は、明かに私憤
私憤による暴力でしかない。
教師は権力者ではなからうに。
「 俺は教師だ 」
・・・との、
特権意識、差別意識から生じた驕り、
斯の
驕りが、
とんだ人格を露呈してしまった。

「 仰げば尊し、わが師の恩 」
吾々が懐く
先生とは 人格者を謂う。
だから、畏敬の念を持つ
・・と
私は そう想う

 

我々の世代が卒業して数年後、
全国的に中学が荒れた。



学園紛争がこの頃から大きな社会問題に
1967年11月12日、佐藤首相訪米反対阻止の半日共系全学連
毎日新聞社 1億人の昭和史 

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切身の塩サバ 一つ

2021年08月21日 15時09分51秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 オイオイ、そんなん有りか 」
「 なんやお前、そんなん持ってきて、怒られるゾー 」
「 シルカー、俺が包んだんちがうわい 」
「 オッ、それ凄いな 」
「 俺にも見せろ 」
「 なんや、ナンヤ 」

弁当箱の包み紙を開くと
ディリースポーツ
こともあらうに

ポルノ洋画のワンシーン写真が一面に掲載されている。
普段、見たくても恥ずかしくて、堂々とは見れないモノである。
もう、昼飯し食ってる場合ではない。
女子の冷やかな視線も お構いなく、男子連中こぞって集った。


昭和42年(1967年) ツィギー来日により 世はミニスカートブームに

昼食は弁当
昭和42年 ( 1967年 )

我が淀川中学、給食なぞ無かった。

昼飯しは弁当
新聞紙に包んでカバンに入れると
偶に、オカズの汁がカバンの底まで染みた。
唯一、お茶のサービスがあって
当番が、湯沸室からお茶の入ったヤカンを運んだ。
男子は、弁当箱の蓋をコップに代用した。
女子の様に、myコップ を、持つ者なぞ誰も居やしない
湯沸室

ご飯の代わりに、パンを持参する者もいて
そのたいていは、アンパン、ジャムパン、クリームパンと牛乳
中には、菓子パンやクロワッサンとか謂うハイカラなモノを持って来る者もいたが
いずれにしても、パンは少数派であった。
その中に一人
食パンにマーガリンをぬって 淡々と食べる男子生徒がいた。
母一人兄妹二人の家庭である。
「 ・・・・」
その姿を目の当たりにして
だれも
冷やかしたり、茶化したり ・・そんなこと できるものか。


  
玄関袖勝手口            通用門
風紀委員に札を見せ通過          登下校時のみ開門


ちょっとした
 油断
弁当を持ってくる・・が、困難な家庭の者も存る。
彼等は、4時間目の授業が終わっての昼休み、特別に校外に出ることを許された。
昼食の食料品を買う ・・・が、条件である。
許可証の札を見せれば、風紀委員が、勝手口を通して呉れた。
偶々弁当を忘れた者や、その日に限りパン食の者等も大目に見てもらっていた。

偶にはパン食も 良いだらう ・・・と、その日はパン食の私
許可証を得て、正門袖の勝手口へ
いつものとおり、門番をする風紀委員の他に、4、5名の生徒がいる。
その中の一人から、声がかかったのである。
「 ハナダ 」
見れば、三年生の原田さん。
彼は、軟式野球部のキャプテン
「 高校から、スカウトがきたんやて 」
特待生として野球進学する ・・という噂の主である。
小学六年生の時、北毛馬公園で面識があり
私は彼から
「 中学に上がれば野球部に入る様に 」
と、勧められていたのである。

然も彼は、生徒会会長
吾々の入学式に於いて、生徒会会長として祝辞を述べた。
彼の、その低音 且つ 囁く斯の如しのスピーチは、印象的で

「 さすが中学三年生 」
「 大人だと 」 ・・・と、母を感歎させた程の人物である。
その大先輩が
「 頼むわ 」 ・・・と
私の許可証を利用するのである。
断れることなぞ できるものか
「 いいですよ、で・・何を買うんですか 」

「 チェリオ 買うてきて 」

野球を通して顔見知りの後輩の私
その気安さが、生徒会会長と謂う己が立場を忘れさせた。
ついつい
先輩後輩と謂う 普段の ノリ が、勝ったのであらう。

 
昭和42年 ( 1967年 ) 5月30日  六甲山

弁当のオカズは
切身の塩サバ一つ
昭和42年 ( 1967年 )
中学一年五組

昼飯しの時間のこと
 
同級生・谷口
教卓に腰掛けて私の弁当を上から覗き込んでいる。
最前列 中央教卓前が私の席
「 嫌な奴やな 」
・・・
とは、想えど
「 見るな、退いて呉れ 」 ・・・とは、言えなかった。  (ノイテクレ)
男前の私
弁当箱の蓋を立て、隠して食べる芸当なぞ できるものか。
「 オカズが貧阻だから恥ずかしい 」
・・・とは、想われたくなかったのだ。
男は豪快に ・・・誰もが持つ信条
そんなことくらいで恥ずかしがっていては、男が廃る (オトコガスタル)
そんな信条に縛られているのだ。 (・・・何が豪快なものか)

それでも、精一杯の痩せ我慢
なに喰わん顔をして、淡々と、カバンから弁当箱を取り出した。
今日は
通常の弁当箱 + オカズ入れ小箱、更に味付海苔一束
「 オッ、ハナダ今日は豪勢やな 」
私もそう想った。
普段なら弁当箱一つ
その中に粗末なオカズが入っている。
然し、今日は普段と違う
期待できる  ・・・と、そう想った。
そんな気持ちで以て、オカズ入れの蓋を開けたのである。

「 ・・・ 」
谷口
なんにも言わず
気まずそうな顔をして
スゴスゴと自分の席に戻って行った。

なんとまあ
おかず入れの中は、切身の塩サバ一つ
なんのことはない
普段の弁当箱のオカズが、
わざわざオカズ入れの小箱に入っていただけなのである。

  アルマイトの弁当箱
  私の場合、仕切板のみ
  普段、オカズ入れは使わなかった
  物語の日に限って登場したのである

 

 



弁当のオカズ

がぜん良くなったは、高校に入ってからのこと
私が、切身の塩サバ一つ の話、する度に
「 あの頃は、貧乏していたから 」
「 それに、(上手な)弁当の作り方 知らんかった 」
母は
いつも笑いながら
そう答えた。

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「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」

2021年08月19日 05時13分41秒 | 3 青い鳥 1967年~

「 柿、うまそうやな 」
「 ん・・・ 」

授業中
二人して窓の外に目を遣れば
朱く熟した実をつける柿木が見える
秋・・哉

・・・・と
肩を並べて二人、良い雰囲気であった。


   昭和43年 ( 1968年 ) 10月9 日 京都国際会議場

大阪市立淀川中学校二年四組
男女相互に仲好く、私には、小・中を通じて一番のクラスであった。    
中学生の生活にも慣れたし
未だ未だ、高校入試にも間がある。
そんな雰囲気の中で誰もが、思春期の中学生を謳歌していたのである。
リンク→心を合わせるということ とは

昭和43年 ( 1968年 ) 二学期
くじ引きで決める席替え
偶々
○○○と、机を並べた私
暫らくの間、共に機嫌よう過ごしていた。

ある日突然 二人黙る・・

「あいつ、なに怒ってるんやろ」
ある日を境に
○○○が、くちをきかなくなった
今の詞で謂うと、「 シカト 」          ( シカト・・不愉快なる単語である、使いたくも無い )
「 無視 」・・される覚えは全く無かった。
ましてや、喧嘩をした訳でもない。
然し其の仕打ちは、理不尽であらう。
男のメンツまる潰れである。 ( ・・・男ごころが傷ついた )
理由を訊ねれば良かろうに然し、そこは たかが14才中学生。
それなら俺も、くちをきくまい ・・・と、
其れが相乗して、互いが意地を張り合う羽目に為ったのである。
然し、心底腹が立った訳では無い。
「 あいつ 如何して機嫌が悪いんやろ、つい昨日まではあんなに良かったのに 」
「 暫らくの間、辛抱我慢や 」 ・・と、そんな想いでいたのである。

何してんやろ、 こいつ
相も変わらずくちをきかない。
いい加減にせいよ。
もう、堪忍袋の緒も切れるぞ。 ・・・と、そんなある日
昼の休憩時間も終り、5時間目の授業がもう直ぐ始まる、
私は準備を済ませ、英語の森先生の到着するのを待っていた。
その時、左席から
「 アッ・・・、忘れた 」 
・・・の声
○○○、机の中を覗いて、何やら探している。
・・・
見つからないようである。
「 教科書を忘れたな 」・・私は、そう想った。
見ない振りをしてはいても、私の視界の端にその様子が入ってくる。
然し、ちゃんとは見えなかった。
知らん振りはしていても、やっぱり、気にかかる。
「 お前、忘れたんか 」
そう云へば、簡単だった。
然し、互いに意地を張っていた。
それが為、云えなかったのだ。
「 困るだらうに・・・」
そこで私は、
二人で教科書が見えるように、
ページをひらいて教科書を机の真ん中に、そっとつき出した。
・・・
ところが、○○○ の、反応が無い。
ン・・?
左席に目を遣れば、
「 ワオー、なんてこったい 」 ( ・・・ポパイ なら、きっとそう云うであらう )
○○○ の机には、教科書がチャンと置かれてあったのだ。
「 なんやお前、教科書忘れたんと違うんか 」
一人芝居の、一人大相撲。
トンダ三枚目・喜劇を演じた私。
頗るバツが悪かった。

○○○からすれば、
忘れたと想った教科書は、カバンの中にはいっていた。
只、それだけのこと。

ところが、
右席の私が 教科書をそっとつき出して来る。

「 何してんやろ、こいつ 」
そう想って、見ていたんだと。

「俺の気持も知らんで」
何をかいわんや・・である。
然し
『 女心と秋の空 』
此のことが素で、○○○の機嫌が元に戻って一件落着した。
やっぱり、女心は分らない。

硬派な女のポリシー
休み時間
列違いの女子と、私が喋っている。
然も、嬉しそうに ( ・・・○○○には、そう見えた )
「 男が、チャラチャラするな 」
「 男が、ニヤケたりするな 」
そういう男はキライ 」
それが○○○のポリシー・・・と、
不機嫌の因は其処にあった。 ・・・のである。

・・ 是
結局のところ
やきもちを焼いた
只、それだけのことであらう

「 ○○○ そうやろ 」

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ブルー シャトー

2021年08月18日 05時45分59秒 | 3 青い鳥 1967年~

タカタカタカタカタン♪
ドラムのスティック を、持ち出して机を叩き始めた

昭和42年 (1967年 )
未だ夏服・中学1年2学期の教室での事である。
「 なんや なんや 」
男子生徒が寄ってくる。
私もその一人であった。
「 昨日な、ブルーコメッツのリサイタル、行って来たんや 」
「 へー 」
「 よかったでえ 」


クラスメイトの諏訪 を囲んで、男子生徒の輪ができた。
スティックさばき も上手いが、口も達者であった。
昨日の、ブルーコメッツショーの模様を上手に物語るのである。
その名調子に、吾々は魅了されていく。
そして、
メイン曲・ブルーシャトーのナレーションの模様を語り終えるや。
♪ タカタカタカタカタン♪
「 ゥおー 」
皆の歓声があがった。

私は、帰宅するとを取り出し卓袱台を叩いた    (チャブダイ)
 「喧しい 」
母に煩いと謂われてもかまわず。
タカタカタカタカタン♪・・
ミーハー な私、
この時より、ブルーコメッツのファンになったのである。

 
昭和42年 (1967年 ) 10月31日 、
嵯峨野へ一日遠足
そして、この日は
元首相・吉田茂の国葬が行なわれた。

ちょうどの時刻
吾々は帰りのバスの中で1分間の黙とうを行ったのである。
黙とうの余韻冷めぬ中、
クラスメイト諏訪、待ってましたとばかり


♪ ♪
雲が流れる 北国の街へ  

あなたが生まれた 心の国へ
胸にかざった 真珠のように  
やさしく輝く あなたの瞳
見つめあうふたり 
いだきあうふたりは
離れられずに
強く 強く 強く 強く
かわす ウ・・・         (クチヅケ)
雲が流れる 湖のほとり  

あなたは花に 埋もれて眠る
北国のはて ♪

得意のブルーコメッツ
サビの部分 ( ウ・・・) を 
敢えて唄わず これが大うけ

もう、彼の独壇場
北国の二人 を熱唱したのである。

グループサウンズ全盛のこの頃
「 グループサウンズは喧しいだけや 」 
・・・と、親父にチャンネルを回されることもあったが、
それにもめげず
歌のベストテン番組は、欠かさず視ていた。

小川知子 吾々のアイドル歌手であった ↓

その頃の印象曲と謂えば是
黛ジュン が歌う
「 霧のかなたに 」

♪・・・忘れな草空しく
胸ふかく抱いて
窓の明かり灯して
あの人を待つの ♪

思春期の私の心に、
淡い想いを抱かせたのである。

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ちょっと、つまづいただけの物語

2021年07月04日 12時48分21秒 | 3 青い鳥 1967年~


                                                                                 2年4組
昭和43年 ( 1968年
) 8月10日
中学二年の吾々は、
一泊二日の林間学舎を
大阪能勢の野外活動センターで行った。
一日の予定が終わると

宿泊は班毎にバンガローで取る。
宿泊の班構成は、
一クラス ( 全7クラス ) 男女2班づつ、4班に分かれた。



こぉらっ!!

バンガローでの解放感も相俟って、眠るのももったいない。
皆一様に昂揚していた。
だから、消灯後も中々就寝せずに、はしゃいでいた。
吾班の隣りに、他組 ( 6組、岩出の存る班 ) の男子の班があった。
彼等は、羽目を外して、一際騒いでいる。
バンガロー越しに、彼等の騒ぎが聞こえてくる。
「 6組の奴、やかましいな 」
「 ええかげんにせえよ 」
とは言いつつも、別に腹も立たなかった。
むしろ、吾々も彼等に続け
・・と、そんな気持ちで居たのである。
ところが、突然、静かに成った。
先生の声が聞こえる。
「 あいつら、怒られとるで 」
「 怒られとる 怒られとる、あいつらアホや 」
 
広場での集合写真に 6 組の 舟木が映っている
その後ろに顔だけ写っているのが 岩出
バンガローで、舟木が岩出と同じ班だったかは知らない


翌日、当人等に聞くと

「 電気消した後、真っ暗の中で枕投げしとったんや 」
「 いつの間にか変な奴が居ってな、お前、誰や ? 、言うたら 」
コォラッ!! や 」
「 それが、先生やってな 」
「 入って来たん、判らんかったんや 」
「 全員 正座させられてなあ、もう、怒られた怒られた 」
と、
怒られた事が、さも 武勇伝の如く、語ったのである。


ちょっとつまづいただけの物語

班毎に分れての夕食が終り
全員集合
キャンプファイヤーである。
一度広場まで降りたものの、忘れ物に気付いた。
引きかえさねば。
降りてくる皆とは反対に、一人上って行く。

途中
巾1メートル程のクリークに架かる床を丸太で組んだ木橋に差しかかった。
駈足で上る私は、偶々 そこで つまづいた。
ところが


丁度そこに降りてきた女子生徒○○弘子さん ( 中一の時の同級生 )
木橋に差しかかった時、
偶々、同じタイミングで、つまづいたのである。

「 アッ ! 」
ぶつかる・・・

然し、
物語は起きなかった。
咄嗟に伸ばした彼女の手が、
彼女を かばおうとした私の手が、
もうちょっとで 触れる所で 止まった。
お互い 顔を見合わせた。
彼女は 微笑んでいた。

私は、
そのまま駆け上って行ったのである。

偶々おきた、ほん些細なこと
でも、
どちらかが  ほんの僅か手前で

つまづいていたなら
物語りに為ったであらうに
「 おしかったなぁ 」

・・・は
後で想うことである。

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修学旅行 2 ・ 希望号 「カーディガン の 想い出 」

2021年06月25日 04時34分03秒 | 3 青い鳥 1967年~

旅行中の 6月12日、二泊目の富士ハイランドホステルでのこと。
就寝まで自由時間、
皆 それぞれ ゲームしたり お喋りしたり と、愉しんでいた。
私は他の男子数人と一緒に、ラジオのプロ野球 ・巨人戦を聞いていた。
そこには、女子の姿もあった。
斯の 『 別品 』 女子である。   (  ・・・リンク→リーダーは、別品 )
『 アタックNO1 鮎原こずえ 』  (  ・・・リンク→東洋の魔女  )
・・・ くらいなら 知っているであろう
と、
そのくらいしか想っていなかった  彼女が、

何と、吾々と伴に プロ野球の実況放送に耳を傾けている。
「 お前、プロ野球 知ってんのんか?」
「 お父さんが、いつも プロ野球 観ているから 」
・・・なんとなく観ているうちに 野球ファンに為ったと云う。
彼女の その 詞 ことば 意外であった。

そして、
長島のファン だと云う。
「 長島少年 」 の私
それはもう、 感動するほど嬉しかった のである。
・・・
修学旅行 1 ・ 消えた記憶 「 観音様です、おっ母さん」
の 続き


復路

昭和44年 ( 1969年 ) 6月 14日 (土)、
3日間の全ての日程を終えた。
復路、大阪へ
吾々を乗せて、修学旅行列車 「 希望号 」
夜の静寂の中を、
つきぬけて
走り抜ける

 類似イメージ
修学旅行列車 「 希望号 」

カーディガン
の 想い出
希望号の車内
三日間を共に過ごした事は、吾々の緊張を解ほぐした。
あっち こっち から、
元気な声 楽しい 笑い声 が聞こえてくる。
吾々は解放感の中に居た。
各々 自由行動を取って 修学旅行を漫喫している。
私は 一人の女子 と 差向い。
気分は 二人の世界 で あった。
彼女のカーディガン を着て すっかりご満悦、淡い雰囲気に浸っていた のである。
ところ そこへ、
車内巡回 の おんなせんせい が 通りがかり    ( ・・・岩崎先生 )
私を見るや
もう、・・・そんなことして 」
と、折角のところ  水をさされてしまった。

夏のこととて、
防寒なぞ考えも及ばなかった。
「 武士は食わねど高楊枝 」 ・・・旅行中ずっと半袖で徹してきた。
富士山五合目でも、夜間でも、肌寒いところ、ずっと辛抱してきた。
然し 帰りの列車
緊張が解れ、亦、開放感も相まって
、つい シャレっ気をおこしたのだ。
「 カーディガン やり過ぎかなぁ 」 とは、想っていた、
されど、これも 修学旅行の想い出 哉。
・・・と、つい ちょっと 羽目を外した のである。
『 別品 』 の、彼女も 同じ想いであったらう。

もうせっかくのところを・・・邪魔をして


「 カーディガン 」
の 想い出
私の 宝 である。
これからの吾が生涯
幾度も 幾度も
くり返しては 想い出すことであらう。

昭和44年 ( 1969年 ) は、遥か遠き日・・なれど
想いは つい昨日の様である。
おんなせんせい
もう、・・・そんなことをして 」
の後に
「 でも、良い想い出になるわね 」
の、もう 一言有らば
もっと 素晴らしい想い出に なったらうに。

もうひとつ
当時、耳にした
「 愛のさざ波 」
・・島倉千代子 (昭和43年)
♪♪
どんなに遠くに 離れていたって
あなたのふるさとは 私ひとりなの
ああ湖に 小舟がただひとつ
いつでもいつでも 思い出してね
くり返すくり返す さざ波のように
さざ波のように
♪♪

聞かば
なぜかしらん
カーディガンの想い出 」
・・・を、想い出す。

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青い鳥 3 ・ 卒業文集 「 でも 楽しかったわ 〇〇さん 」

2021年06月05日 20時40分55秒 | 3 青い鳥 1967年~

青 い 鳥 
の、エピローグである
・・・青い鳥 2 ・ 〇〇〇 「 おまえの所為やぞ 」 
・・・大阪市立淀川中学校 第9期生 (1970年卒)

昭和45年 ( 1970年 ) 3月13日 (金)
卒業式を終えた吾々。
やっぱり、
正門から出ると直ちに淀川堤に上った。
そしてひととき、
クラスメイトとの名残りを惜しんだのである。

卒業文集

我 舟に乘りて 將に行かんと欲す
忽ち聞く 前途の聲
前途の 深さ千尺
及ばず 我 が 前途に望む心に

卒業文集に載せたる吾文である。
古典の時間に習った李白の 「 汪倫に贈る 」 を、捩ったもの。
在り来りで以て、如何にもセンスに乏しい。 ( ・・・そう想う )
では・・あっても、
私としては、これで 精一杯、格好をつけたのである。

汪倫に贈る  李白               オウリンニオクル  リハク
李白舟に乘りて 將に行かんと欲す     リハクフネニノリテ マサニユカントホッス

忽ち聞く 岸上踏歌の聲            タチマチキク ガンジョウトウカノコエ
桃花潭水深さ千尺                トウカタンスイ フカサセンジャク
及ばず汪倫が我を送るの情に         オヨバズオウリンガ ワレヲオクルノジョウニ

私は今小舟に乗って、いよいよ桃花潭を出発しようとしている。
突如岸の上で足を踏みならしながら歌う声が聞こえてきた。
この桃花潭の水は、深さ千尺もあるという。
それでもその深さは、汪倫が私を送ってくれる情けの深さには及ばない。

汪倫の友情の深さを述べている。
汪倫や村人たちの素朴な感情と、別れを惜しんでくれる深い心とに感謝した詩である。


私の夢は大きかったよ
でも、それは二年の終わりに消えたのよ
こたえるなあ 勉強しなかったの
でも 楽しかったわ ○○さん

卒業文集
私が記憶する
青い鳥 の 『 詞 』 
である。
( こたえるなあ・・・は、潤覚 )

彼女は何を語るらん。

彼女の 「 おおきな夢 」 とは、
如何なるものであったのか。

それは、如何して
「 二年の終わりに消えた 」
・・・のか。 ・・・分るべくもない。

「 ○○さん 」 ・・・とは、
いったい誰なのであらう。

彼女の謂う  「 二年の終り 」 ・・・とは、
何も二年生のクラスメイトに限るものではあるまい。
 
私は、
自分こそが 「 ○○、である 」
・・・そう、想いたかった。


青い鳥 ・ガール
「 でも 楽しかったわ ○○さん 」
・・・と、
おもわせぶりで、
小粋なメッセージを
残した儘、
昭和48年 ( 1973年 )
19才で、独り 
青雲の涯に逝った。

♪♪
青い鳥は飛んで行った  あの広い空へ
狭いカゴがいやだったのか
小さな幸福よ  ぼくの手にかえっおくれ
青い鳥  青い鳥  何故行った
青い鳥はもう二度と帰って来なかった
ぼくには はかない初恋だった

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