昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

青雲の涯 遙かなる想い

2024年03月27日 18時32分18秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

今年こそは
単身、東京へ行こう
2月26日に、渋谷の二・二六事件慰霊像に、行こう
と、そう決心していた

「東京に行くの、やめとけョ、ゴルフしようャ、ミニコース行こう」
私の決心
簡単に緩む
そして
大土の希望通り
花園の
ミニコースへ行くことになった
そして
同窓仲間の梶と、梶の友人の4人でプレイを楽しんだのである
昭和58年(1983年)2月26日(土)の事である

JR徳庵駅の踏切
「(カジュアルで)エエ、ジャンパー着とるなァ」
私は、(建築)工事現場にも、着ていくことができる、カジュアルなジャンパーが欲しいと思っていた
JR片町線(現・学研都市線)徳庵駅の近くの店で購入したと言う
店は今津中側に在り、彼に、案内して貰うことになったのである
ジャンパー購入の日
 ←踏切とホーム(2016年)
彼と二人 稲田新町側からJR徳庵の踏切を渡った
踏切の中程左側直ぐにホームの端がある、線路敷からホームに上る階段もある
「この踏切渡って、ホームまで行っているのか?、グルッと大周りして・・」
「遠周りやなァ」
「あの階段、上ったら直ぐヤデ
「急いでいる時、ヨッポド上ろかと、思う事があるョ」
JRを利用する人なら、誰しもそう思いたくなるだろうに・・

 遙かなる想い
昭和58年(1983年)3月29日(火)
この日は二人して呑むことに成っていた
午後6時半頃、備後町に在る私の勤める事務所に、ベージュのコート姿の彼が到着した
府職員の彼、府庁から(20分程) 歩いて来た と言う
「仕事が残っているから、ちょっと、まっといて」
「分かった」
と、彼は文庫本に目を遣った
仕事を片づけると、午後7時頃事務所の傍に在る 瓦町の居酒屋(炉端)に入ったのである

世は、ゴルフブーム
老いも若きも、沸騰していた
 リンク→蒜山高原

近畿車輛のゴルフ練習場
尾崎将司をめざし、二人が打った球は端のフェンスを突き
破る程の大ドライブであった

「最近、ゴルフの楽しみが、分ってきてなァ」
「そやろ、楽しいやろ、俺がゴルフ誘った訳がよく分ったやろ」
うん、あの頃(誘われた頃)ゴルフの何処が楽しいのかと思っていたけど
 昔、本を読んでてなァ、ゴルフの場面があったんャ、
 その時は余りピンとこなかったけれど、最近それがよく分るんヤ」
私は、元気の無かった彼を気晴らしにと、誘っていたのである
「・・でも良かったなあ、元気になって」
「ん、もう大丈夫や」
ほんのり酔いもまわっていい気分であった
「そろそろ、おひらきといこか」
「そやな」
「今週の土曜日、(ゴルフの)打ち放し、に行こうか」
「行こう・・で、何処へ行く」
「やっぱり、ミニコースにしようか」
「エエよ、で 何処のミニコース・・花園か?」
「何処でもエエよ、白山でも、住之江でも」
「土曜日の午後は、住之江は混んでるかも知れんな」
「白山でも、エエよ」
「・・マ、土曜日に決めヨ」
「ん、出かける時間は金曜日に電話するワ」
「そうしてャ 待ってるワ」
と、土曜日二人してゴルフをすること、約束したのである

帰りは、地下鉄堺筋線にて、北浜から扇町へ
そこから天神橋筋商店街を2分程北へ歩き、JR環状線天満駅へ、
彼はここからJRで、徳庵まで帰る(途中京橋で乗換え)
私は更に5、6分歩いて天六へ、天六からはタクシーで帰ることになる

天満駅前のガード下で、ふと私は
俺の家に、泊まって行くか?」・・と、声をかけた
「イャ、今日は帰る」
「もう遅いデ、時間かかるし、遠慮せんでええで」
「犬に餌やらなあかんのャ、そのままにして、出かけてきたから・・」
「そうか・・・、ホナ亦、電話待ってるワ」
「そんじゃあ」
そう言い合って、この日は別れたのである

4月1日金曜日
この日の昼間降った雨は、夕刻には上がった
地下鉄堺筋線・天神橋六丁目駅までは自転車で通う私
雨に濡れた舗道を、何となく欝な気分で以て、自転車を走らせた
水溜りを跨ぎもって、フト
「あいつ、(電話)掛けてこんかったなァ・・」
なんとなく、そう呟いた
午後7時頃のことである
「マア、明日(土曜日)の朝、電話してくるやろ」
・・・そんな想いで以て、その日は眠りについたのである 

4月2日土曜日、午前7時30分
電話が鳴った・・きっと彼からだろう
「大土、の兄です」
「エッ?」
「弟が、亡くなりました」
「エーーッ」
「昨夜の7時頃、踏切事故で・・・」
「徳庵の踏切ですか?」
「どうして、それを知っているのですか・・」
知る由もない
私は咄嗟に、そう直感したのである
とは雖も、俄に信じがたく、実感がまるで湧かない
「弟の日記に、花田さんの事が書かれてありました、一番の親友と・・」
「だから真っ先に連絡を入れました」
「判りました、皆(同窓生の仲間)には、私から連絡します」
・・と、淡々と遣りとりしたのである
ポカン・・とした情態で、感慨なにも湧きあがるべくもない
土曜日の朝7時半
出勤の時間帯にもかかわらず、同窓生の仲間全員に連絡がついた
「徳庵の駅に集合」・・と
半ドンを終えて昼過ぎ、徳庵の駅に皆が集合した
事故のあった踏切を、嫌でも通らねばならない
そこには、白い粉が撒かれてあった
家に着くと、母上
「花田さん、うちの子は、どうして死んだのですか・・」
「判りません、火曜日一緒に呑んだ時、今日、ゴルフに行こうと約束していたんです・・」
こんな事しか、言えなかった
今頃は、二人してゴルフを楽しんでいるはずだのに
こうして、焼香して合掌している
どうして

明日は告別式に参加する
通夜の晩、仲間の内、遠方の者は一人暮らしの私の家に泊まることになった
皆の入浴後、私も風呂に入った
生前、彼が遊びに来た時、入った風呂である・・そう想うと
・・・頭を洗えない・・・
・・・目を閉じれない・・・
目を閉じると、背筋が寒い
とうとう・・私は、洗髪できなかった

翌日4月3日、日曜日は告別式
大阪府庁の職員が葬儀を取仕切っていた
その余りにも多勢に、私等同窓生たかが10人、出る幕など無かった
大阪府庁の一職員の踏切り事故死に
ここまで役所が入って来るのかと、その異様差に戸惑いながら、彼を送ったのである
出棺のアイズの音
彼を乗せた車が去って行く時、悲しいものが込上げた
28歳
青雲の涯へ、逝ってしまった・・
感慨表現のしようもない

出棺を見送って各々が帰宅する前に
同窓生の仲間全員、近くの喫茶店に集まろうと謂う事になった
「皆、揃ったか?」
「大土 が、まだや」
「・・・・」

 ←大土と梶

叶ぬ侭の、斯の想い
若い頃、
同窓生の仲間が集まって、野球をしていた
試合の日に、一度だけ
彼は彼女を連れてきたことがあった
斯の3月29日も
「できるだけ近いうちに、お前に会わせるよ」
「お前に、どんな娘か見てもらいたいんや」
・・と
心中、期するものがあったのであらう
その彼女に、連絡を取りたかった
せめて、彼の死を知らせて上げたかった
・・・
「あいつ、結婚もしないまま、死んでしまった」
「人並みの幸福、・・・知らんままに」
その時の、
私の想いである

リンク →
リンク→プロローグ ・ 遥かなる想い



「氷雨」・・ 
この頃の印象曲である
 

コメント

プロローグ ・ 遥かなる想い

2024年03月25日 08時19分19秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和57年 ( 1982年 )
「 今度の夏休みは、江田島へ行こう」
とりわけ目的があって決めた訳ではない。
「 海軍兵学校の江田島に、一度行ってみたい 」
・・・なんとなく、そう想った。 何処でもよかったのだ。
本当の理由は、ほかにあった。

しかし、親友・大土は二つ返事で応えてくれた。

 画像はイメージ
my CAR 日産パルサー
「 弟がディラーに勤めているから、そこで買ってやってくれ 」
・・と、友・下辻の推薦で購入したもの。
大阪58-8850 のナンバープレートだった。

8月12日(木) 快晴。
「 まかせなさい 」
・・そう言って、
吾々は パルサーに乗って出立した。
これから、グリンピア三木へ向かう。
そこで、赤崎建築事務所時代の同僚・美濃さん家族と合流する。
彼等と、テニスをすることになっていたのだ。
テニススクールに通っていた吾々。 ・・・リンク→コートにかける青春
それは、うってつけの機会だったのである。

『 行き掛けの駄賃 』 に、行った テニス 、昼下がり まで遊ぶ。

一路、広島へ。  再び、中国自動車道へ乗る。
さあ、これからが旅の本番だ。
まだまだ日は高い、西からの日射しが眩しかった。
東條で夕食を取った。
三次東で国道54号線にスイッチした頃、日はトップリ 暮れていた。
広島市に入るまで ずっと 街の灯りが続いた。

8月13日(金) 快晴の夏空。
アーケードの商店街にある喫茶店で 「 モーニング 」を注文、是を朝食とした。
そして、本日観光する広島平和公園へ向かった。
ところが、道路がなんとなく混雑していて勢いがつかない。
少々イラついてきた。
気がつくと、追い越し車線に車が一台もいない。
皆が走行車線だけを走っているのである。
ノロノロ運転の因は、そこにあったのだ。
「 おい、見てみ、 誰も追い越し車線に入らんぞ。 
 右に 入ろうと想うとるんやけど、誰も入らんもんやから ・・・・ 」
「 ほんまやな、広島はマナーがええんや な 」
「 大阪やったら、追い越し車線もくそもないもんな 」
「 大阪は全国一 マナーが悪い 謂うからな 」
・・と、 その時 前方で一台の車が追い越し車線に入った。
みらば、『 和泉 』 ナンバーの車。 是、大阪・南地区のナンバーである。
「 やっぱり、大阪やで 」 ・・・二人でもう大笑い。


建築家 ・丹下健三設計の平和祈念資料館
祈念資料館の中芯から一直線上に、原爆死没者慰霊碑、原爆ドームが並ぶ配置になっている。


広島市も、平和公園も何もかもが、初めて尽くし。
私は この時初めて平和公園に足を踏み入れたのである。
一週間前に祈念式典を行ったばかりの広場では、若者がフリスビーを興じていた。
『 平和 』 とは、こういうことなのであろう。

斯の有名な、原爆資料館に入った。
そこで私が見たものは・・・

昭和20年 (1945年) 8月6日
永劫に、此の日を忘れるな

 原爆ドーム                            人影の石                                資料館展示
是はまさに、地獄の鬼の仕打ちである。 なんと惨むごたらし
い。
もう、絶句・・・・悔しさが込上げて来る。

痛切な反省
既の大戦に於いて
アメリカに ぐーの音も出ない程に
コテンパンに打ちのめされた日本。
「 こんなに痛い目をするのは もうたくさんです。 堪忍して下さい。
みんな、私が悪うございました。 どうか、命だけは助けて下さい。
二度と刃向いはいたしません。 どうぞ、お許し下さい 」
・・・リンク→私達は、戦いません

広島城へ上った。
県立美術館にも入った。

県立美術館には、
飲み物が、オレンジジュース しかなかった。

いよいよ、
今回の旅の目的地である 江田島へ向った。
ところが、
海岸道路は渋滞していて、とうてい埒が明かない。
海上自衛隊の護衛艦の姿が見えるところまで来たのに、これ以上は前へ進めないのだ。

私は即決した。
「 俺の故郷へ行こう 」
・・・と、ハンドルを切ったのである。


独断専行で以て、ハンドルを切った私。
「 ええよ 」 ・・と、応えてくれた。
彼の性格からして、イヤだとは言えなかったのだろう。
無理やり彼を、私の帰郷に付き合した形になったのである。
それでも彼は、文句ひとつ言わず付いてきた。
「 ♪ ヤーアイトセ 」・・・盆踊りも観た。
8月14日(土) 快晴の夏空が続く。
墓参りをした。
親戚中に顔を出した。
前触れもなく、いきなり訪ねた吾々に、誰もが親切にして呉れる。
それはもう、 感激する程 もてなしてくれたのである。
そして、快く泊めてくれた。
『 戸聞きしに来た 』
伯父 ( 母の兄 ) は、妹の結婚相手と勘違いしたらしい。


果して、彼は楽しかったのだろうか。
それは判らない。

8月15日(日) 今日も亦、快晴の夏空
復路、
中国自動車道 ・ 院庄からずっと渋滞した。
佐用あたりで、虹を観た。
西宮まで帰って来た・・・流石に疲れた。
日はトップリ暮れた。
隣りで親友・大土は眠っている。
「 眠たらあかん 」
・・・と、カーステレオのボリュームを上げた

それから、もうひとつ
この旅行中、私はずっと 腸・腹の具合が悪かった。
断続的に、シクシク 軽い痛みを感じていたのである。 大したことは なかったけれど。
14日に従姉いとこ しのぶ姐から正露丸を貰って飲んだものの全く効かない。
「 やっぱり、水が合わないのか 」 ・・・そう想った。
ところが、大阪へ帰った途端、それが治まったのである。
腹痛の因は、マインドから。 繊細な神経の持ち主の私、やっぱり緊張していたようである。

プロローグ ・ 遙かなる想い
・・・リンク→青雲の涯 遙かなる想い


『 ミュンヘン 』 からの エアメイルである。 

庁内の仲間と共に ヨーロッパ旅行した時のもの。 
彼の人生に於て 一番頑張っていた頃であり、亦、絶頂の頃でもあった。


親友・大土の様子がおかしい。
いったい、どうしたというのか。

「 最近調子悪うてな。薬、飲んでるんや。 仕事も二週間ほど休んどる 」
「 何があったんや 」
「 最近、職場での皆の態度が変ってな。
あいつは偉い人やから、自分等と違うんや
そこまで頑張らんでもええやろに残業までして、それじゃ自分等がサボっている様に見えるやろ
・・・陰で、そう云うとるんや。
外課たかの同僚と共同した論文が賞を取って本に載ったことや、
そいつらと、ヨーロッパ旅行した事を嫉んどるんや。
でも、そんなことぐらい別にどうってことはない、云わしとったらええんや。
・・・でもな、
最近、設備工事の見積金額が業者に洩れていることが庁内で判ってな。
・・・キャリアの上司が遣ったことなんや。 周りの者もそれを知っているくせに。 皆 黙っとる。
そのキャリアが俺に罪を擦り付けたんや・・・。
君の面倒はちゃんとみるから黙っておいてくれ。 悪いようにはしないから。
・・・そう云うて、そのキャリア 俺にはヘラヘラ機嫌をとってくる。
そのくせ、裏で犯人は俺・・と言いふらしているんや 」
薬の副作用からか、ろれつが回っていない。
「 そんな阿保なことがあってたまるか。 何か手立てはないんか 」
「 相手はキャリアや、組織が護ってくれる。ノンキャリの俺なんか、トカゲのしっぽでしかないんや。
闘こうても、結局負ける・・・云われるが侭 黙っておるしかないんや 」
涙声になっている。
「 庁内に仲間は居らんのか 」
「 居る・・・けど、皆、黙っとる ・・・」
「 そんな ぁ・・・」

彼は大蔵省の役人ではない。
がしかし、
伏魔殿の中に引き擦り込まれ苦悩している。
その悩みたるもの、私が推して知るにはあまりにも深すぎる。
計り知れない。 ・・・そう、想った。

私には友達は救えない
あいつの心の痛みなど解らない 
とうてい計り知れないのだ
だからあいつの苦痛を、吾苦痛として慮ることなどできない

 唯々 心配してオロオロするだけである
だから 適切なアドバイスなんか出来やしない 

寺内には、兎に角 会ってってくれ、悩みを聞いてやってくれ。
・・と、そう云った。

しかし、悩みを聞いてやる ・・ことが、
どれだけ力になると謂うのか
・・・・S 57.5.3
の 記述から
・・・・その頃の 私の想いである・・・

危なっかしくて、放ってはおけん。
亦、独りにしちぁならん。・・・そう想った。
私は努めて、彼と一緒に居る時間をとるようにしたのである。

そして、

旅行でもしたら、少しは気が晴れようか。
そう、考えたのである。

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手編みのプレゼント

2022年07月18日 05時54分23秒 | 5 青春のひとこま 1973年~


呼びかける声の 優しさに
愛がかくれている
小さなほほえみに
うずまいて 友だちとの出会い
悲しみの夜を 明日へとめざめる
答えを知らぬ きみにできるのは
ただ明けてゆく
青空に問いかけること

昭和51年 ( 1976年 ) 10月 ~ 昭和52年 ( 1977年 ) 11月
日本テレビ放映の 「 俺たちの朝 」 の主題歌である。
家族全員で視ていた、『 青春ドラマ 』 で、
特に、妹や母は、
毎週日曜日午後8時を、楽しみにしていた。
そんななかで
主役オッス ( 勝野洋 ) の妹役で、偶に登場した
17歳のニューアイドル 岡田奈々 ・・・私は、「 可愛いい 」 と、想った。

昭和51年 ( 1976年 )
この年の初めに発覚した ロッキード事件 は、
7月27日、
前の総理大臣・田中角栄 が、逮捕されると謂う、

とんでもない事態へと進み、
世の中が騒然としていた最中であった。


22歳の私は、と謂うと
昭和維新は見果てぬ夢
・・・と、専らの関心事は
「 偏らざる 之を 中 と謂い 」
「 易らざる 之を 庸 と謂う  」
一意専心
もう、夢中であった。

「 まっすぐの道 」
歳を経て、「 爺 」 に、成った私
平成24年 ( 2012年 ) の1年間、保育所へ孫娘を自転車で送迎した。
「 久しぶりの道 」 を、右に曲がると、線路伝いの小路になる。
土手に朝顔咲く 100m程の まっすぐ な小路 を、
自転車の後ろに 孫娘を乗せて走った。
走り以て私は
「 ♪ まっすぐ に、真っ直ぐに、生きてきたのに 」
「 ♪ まっすぐ に、真っ直ぐに、愛してたのに 」
「 ♪ 青春は分かれ道 」
・・・と、鼻唄で口遊んだ。
岡田奈々 「 手編みのプレゼント 」 の、唄い出しのフレーズである。
昭和51年 ( 1976年 ) 当時に流行った斯の歌
私は、此のフレーズだけ、覚えていたのである。
そのうち
「 ♪ まっすぐに、まっすぐに ・・・♪ 」 と、
孫娘の口遊む声が、
背中越しに 聞こえる様になり
それならと、
二人して、歌を覚える事にしたのである。
♪ きっとあなたは 都会の隅で♪・・やで、じいちゃん 」
「 そうか、そうか・・」 と、
私より先に覚えた孫娘に、教えて貰いながら
36年経って初めて、フルコーラスを唄ったのである。

リンク
東京だよ おっ母さん


まっすぐにまっすぐに  生きてきたのに
まっすぐにまっすぐに  愛してたのに
青春はわかれ道

きっとあなたは都会の隅で  私の顔も忘れるわ
周に一度の手紙もいつか  届かなくなる朝が来る
いやよいやです 「 さよなら 」 なんて
もうこれっきり  逢えなくなりそう
裏切ることが  男の子なら  信じることが 女の子なの

いやよいやですもうすぐ冬よ 
寒い都会で風邪ひかないで
そうよ心が凍えないよう
手編みのセーター  あなたにあげる

日本一 綺麗な少女

あの 「可愛いい・・と、想った」 岡田奈々
新たな想いで 当時を振り返って観ると
それはもう
なんと、綺麗な 少女 哉
そう、想った、私である。

1_2

 

 

 

 

 

 

 

 

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酢豚の想い出

2022年07月08日 13時06分31秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和48年 (1973年) 3月5日(月) 曇天
てこずったネクタイを締め、初出勤
もはや、学生服姿の自分ではない
バス停までの道中、それが何やら照れくさかった
緊張感一杯 18歳9ヶ月
「今日から社会人」

・・・リンク→ 昭和48年 (1973年) 3月5日

昭和48年 ( 1973年 ) 3月5日
記念すべき初日、私がさせられた仕事は、数字の練習であった。
続いて二日目も、一日中数次を書かされた。
三日目は、附近見取図 ( 建物の位置を示す地図 ) を描いた。
四日目は仕上表の枠引き・・・・五日目は建具表の枠引き・・・・
「 此も修行 」 ・・と、素直に従った私。
修行の一歩は 「 雑巾がけ 」 ・・・からと、何の疑問も、不満もなかったのである。
「 これで給料を貰っては申訳がない 」

赤崎先生
にそう言うと、
「 いやいや、これは君への投資です 」
「 一生懸命勉強して、早く一人前に成って下さい 」
気にせずとも良い。・・・と。
つづけて先生から、
「 建築の勉強をしなさい。
建築は総合の学問だから、建築を習得すれば、自ずと他の学問も習得できます。
美しいもの、美しい建物、絵画、等をよく観察することです。
そして、何をさせても一流だと謂われるように成って下さい 」
・・・との、訓示を賜ったのである。
以来
「 はやく 仕事を覚えないと 」
・・・と、只管 図面を描いた


社会人二年生の 昭和49年 ( 1974年 )
時々、事務所の先輩 ・小久保望氏の住いに招待されて、

そして、食事をよばれながら 弾む会話をした。
6歳先輩の彼と私、なにか知らん意気投合したのである。
 ・・・リンク→ 10時になったら、帰ります
「 あの頃 君は、
毎日が楽しくて楽しくて仕方ない、
そんな顔をしていたな 」
事務所の先輩、小久保望氏がそう云った。
さもあらん。
小久保氏の観察通りである。
毎日が楽しくて仕方がなかったのだ。

仕事を終えると一直線に帰宅した。
地下鉄四つ橋線で本町駅から終点・西梅田駅へ。西梅田から地上に上がる。
徒歩で国鉄大阪駅を横断し、大阪駅北口から大阪市バスに乗り、終点の毛馬橋まで。
是が私の通勤路である。
バスが、済生会病院前、地下鉄中津駅、豊崎北 ・・・と、通り過ぎて行く。
私は、バスの吊り革を握り締め 窓外の走る夜景を眺めていた。
そして、今日の一日を振り返っていたのである。
( 高校生の頃なら一週間はかかったであらう図面 )
「 今日はたった一日で平面図を描き上げた 」
・・・と、それはもう御満悦。
一人、達成感に浸っていたのである。

「 あの頃 君は、
毎日が楽しくて楽しくて仕方ない、
そんな顔をしていたな 」
・・・と、

小久保氏が私に云った 『 あの頃 』 ・・とは、
バラ色の日々を送っていた、この頃のこと。
・・・なのである。

社会人になって最初の旅行 ・金沢兼六園
昭和48年 (1973年 ) 7月
・・・リンク→ 心の旅
兼六園の絵葉書を暑中見舞いで送ろう ・・・と 購入した。 
然し 結局 カーディガンには出せなかった。( ・・・勇気がなかった )
・・・リンク→ 旅情 ・ 兼六園
暑中見舞いを 送った一人が 親友 ・ 平野だったこと。
2021年5月4日、資料 再整理中、
下記の親友 ・平野からの 8月10日の手紙をみつけて、
その事を知ったのである。 これも亦、ワープしたる記憶である。

 
旅先からの手紙ありがとう
( 根上りの松がすばらしい )

そんな、
意気軒高 元気溌溂の私とは対照に。
親友 ・平野が入院すると謂う。
早速 水阪と二人、
入院前の彼の自宅へ見舞に行くことにした。

「 酢豚の想い出 」
東成区新深江・・・・
地下鉄中央線の緑橋駅を出ると南に向かって歩いた。
しかし、歩けど歩けど、新深江に届かない。
「 交番で路を尋ねよう 」
ところがその交番、そう簡単にみつからない。
八月の陽が照りつける。
誰が好き好んで苦労するものか。
交番の巡査、壁紙の地図を覗きながら、
地下鉄千日前線・新深江駅の位置を教えて呉れた。
此処から 辿って行けと説明して呉れたのである。
「 路は単純、真直ぐがいい 」 ・・そう思った。

洋々、彼の許へ着いた。
吾々が玄関に入った時、彼は短パン姿でテレビを見ていた。
訪ねること、サプライズだったのである。
俄かに現われし吾々に 彼は驚いた顔をしていたが、吾々の訪問を大そう喜んでくれた。
「 母親は一人で萬屋を営んでいる 」 と、聞いたことがある

彼は母子家庭の長男なのである。 
そして 仕事で留守の母親に代って、彼の妹が甲斐甲斐しく世話をしてくれる。
会話しながら 観るとはなく視界に入る妹、小柄の可愛い容姿に、
「 小学校六年生くらいの少女かな 」・・・そう想った。
兄の平野、その妹に何ひとつ指図などしないのに、少女はテキパキ手際よく、しかも細目こまめに動いている。
台所で料理している少女の後ろ姿に、斯の兄弟が如何に仲が良いかを感じ取ったのである。
「 この妹、兄を したっている 」・・そう思った。
少女から出された料理は酢豚・・なんと酢豚を御馳走して呉れたのである。
少女の 心尽くしの おもてなしは 私を感動させた
。水阪もきっと私と同じ想いであったろう。

平野匡勇君の手紙
前略
先日は遠い所、わざわざ足を運んでくれてありがとう。
日曜日とあって、日頃の計画を裂いて来てくれた事を僕は心の底から感謝しています。
やはり持つべきは友であると しみじみ思った。
僕は見てのとおり そんなに重傷ではない。
むしろ軽傷の部類で体もピンピンしている。
君らもそう感じた事と思う。
従って僕はなんだか血を吐いて大騒ぎをした事がこそばゆく感じられた。
又、病院に入院すれば僕は患者代表として国体に推薦されるのではないかと思っているくらいだ。
だから心配してくれるのはうれしいが、そんなに心配するほどの体ではないと自分自身、思っている。
ところで 四人集まれば、やはり高校時代の事が思い出される。
何らかんら 僕らは3年間言ってきたが。
やっぱり今思えば 思い出として人生の貴重な時期であったろう。
( ところで 君らが来た時、妹はなにかのセールスマンと思ったらしい )
夜十時頃、花田と机をならべて もう一度勉強してみたいと思った。
僕は一刻も病気を回復して、君らと旅行をしたり、ゆっくりと話をしてみたいと思う。
そして、僕らは良い意味のライバルとして、お互いの進む道 ( ともに建築ではあるが ) に、
共に腕を磨いて行こう。
そしていつか、ゆっくりとした時間を持って何かをしてみたいと思う。
僕は君の手紙が届いた時、本当にうれしかった。
そして、あの本を大切にしていきたいと思う。
九月三日
平野匡勇
花田幸徳様



この手紙の中にある、『 四人集まれば 』 の、四人

もう一人は、呉津 であろう。
恐らく、平野が電話して呉津を呼んだものであろう、が然し 私の記憶にはない。
あとで知ったことであるが、この時 妹は高校二年生だったそうである。


若い頃は、殊更友情を大切と考えるもの。
この日、傷心の彼を見舞おうと訪ねしことは、
『 友を大切にしたい 』  と、そう想う心が私を駆り立てた。
そしてそのことが、
少女がつくった 美味い酢豚の味の想い出と結びついて、
ほん 些細 な
こんなことが、
私にとって生涯の想い出となったのである。

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想い出の セレナーデ

2022年07月03日 14時28分33秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和49年 ( 1974年 ) 11月23日 (土)
晩秋の東京
高校の同窓・西尾と、旅行した。

新建築を見るために
山手線で中野へ

「 中野サンプラザ 」 が、お目当であった。
果して、
「 大理石をガラスの代わりに使用した中野サンプラザ 」
・・・は、
建築月刊誌、建築文化や新建築で見たイメージとおりであった。
吾々は感動の面持ちであった。

2階ホールに、
音楽のジュークボックスが有った。
私は、初めて、
ジュークボックスサウンドを聴いたのである。
ヘッドホーンから大音量の曲は、「 想い出のセレナーデ 」
天地真理 が唄う  この曲に、感動した。
大東京に居るという興奮から、
感傷的な心持に成りかけていた私の心に響いたのである。
「 天地真理、いいな 」
・・・と


あの坂の道で 二人言ったさよならが
今もそうよ 聴こえてくるの

また眠れなくて ひとり窓に寄りそえば
今日も星が とてもきれいよ
あなたのもとへ いそいそと
季節の花を かかえては
訪ねたのあれはまるで 遠い夢のようね
あんなに素晴らしい愛が
何故にとどかないの あなたのあの胸に

大東京に憧れた、
若き日への
「 想い出のセレナーデ 」
・・・である。

キック の 鬼 へ続く

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昭和48年 (1973年) 3月5日

2021年08月25日 12時12分59秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

自分も世の中に出る
なにもかもが、新しい

昭和48年2月27日、高校の卒業式が終ると直ちにその足で
級友・中根に連れられ、阪神百貨店の「VAN」へ
黒いブレザージャケットを買う

独り、天神橋筋商店街で、グレーのスラックス
白のワイシャツ 腕時計を買う

親友・長野に付き添ってもらい、阪神百貨店へ
エールックのネクタイ  デサントのソックス
「VAN」で、黒いシューズを買う

さあ、準備は整った

今日から社会人
昭和48年(1973年)3月5日(月) 曇天

てこずったネクタイを締め、初出勤
もはや、学生服姿の自分ではない
バス停までの道中、それが何やら照れくさかった
緊張感一杯 18歳9ヶ月
「今日から社会人」
人生航路、出発の日である       (タビダチノヒ)


入社した頃
事務所は西区立売堀・第三富士ビルに所在した
地下鉄四ツ橋線本町駅から四ツ橋筋を南に歩いて5分

1階エレベーターに乗り込んだ私

「いざ・行かん」
1・2・・3・4・5・6・7・8・9
胸がときめく
エレベーターの扉が開く
「ついに・・着た」
事務所の扉を開く

「お早うございます」
社会人になっての 第一声である

「お早うございます」
「今、会議をしていますので、中で待っていて下さい」
・・と、受付の女性、席を立った
そして、私を仕事室の私の席まで案内して呉れる
本棚で仕切られた通路を歩く
「あなたのロッカーです、此処を使用して下さい」
ロッカーを開けるとハンガーが一つ入っていて、それに着ていたブレザーを掛けた

ロッカーの前で靴を脱いだ
テーブル前でスリーピース姿の男性と、上衣を脱いでチョッキ姿の男性二人と出遭った
ここでも私は
「お早うございます」」
そう言って彼等の前を素通りした
もっと気の利いた挨拶、できないものか

然し、此が、精一杯の挨拶であった

阪本二郎さんと東成光さん・・彼等との出逢いであった
彼等も亦、所長と番頭・横山氏の会議を終えるのを待っていたのである
終れば、次に所員全員での月曜日の定例会議が行われる

テーブル前を左へ折れると、パーティションで仕切られたブースが五つ並ぶ
此処で各々が仕事するのだ

そして、一番奥のブースに私の席があるのだと

「会議が終わるまで、此処で待っていて下さい」

暫らくの間、窓外の景色を眺めていると
「始りますよ」・・と、坂本昌子さんの声

愈々、会議が始まる
事務所の皆と、初の対面である
歩くほどに、緊張が増してゆく
ロッカーの前
一つあった、スリッパを何気なく履いて会議室へ這入った・・・

会議は所長室で行われる
室には大きな会議テーブルがあり
ホワイイトボードがある

ホワイトボードには工事名が書かれてある
1 2 3 4 5 6 7 8 9・・・・・・

その数の多いこと
昨年秋の面接で承知している
然し
出張中の所長に代わって番頭の横山さんのみの面接で採用された私
本日まで、赤崎先生とは一面識も無かったのである

先生と初めての初対面に緊張していた
奥から現れた赤崎先生
人当りの温かい、穏やかでおおらか、優しそうな為人に、初対面の緊張が緩む
「大人物」・・と、そう直感した
皆が揃った処で、私の紹介が行われた
赤崎建築事務所
赤崎先生 番頭横山さん 阪本二郎さん 宮田さん 東さん 
そして、北田さん
・・・入社前に
事務所に電話を入れると
応対してくれた若い女性の声がきれいで、しかも話方が優しくて
「どんなに、いい女の人なのであらう」・・と、淡い期待を抱いた
事務所に着くと、女性が応対してくれた
「この人が、電話の女の人か」
イメージどおりの人であった・・・その女性である
お前、屋根伏かいとるやないか
男の人が そんな事してはいけません!!
自分のスリッパが無いと言いながら這入ってきた浪花さん
「しまった」
私が穿いているのは彼の物であったのか
会議には参加せずに戸口から一瞬顔を出して去って行った黒のブレザー姿の人がいた
その人は、以後1か月間、事務所には顔をださなかった小久保さん
私が使ったロッカーとハンガーは、彼のもの
・・・と、彼が出社してからそう聞かされた
「坂本昌子さんから、此処を使って下さい」・・と、そう聞いていたのに

もう一人、本日 体の具合が悪いと欠席していた井上さん
さらに、4月から新期入社する美濃さん・・・と、総勢12名の構成である

午前9時、定例が始まった
受付の女性・坂本昌子さん
小柄でホッ゚チャッリとした可愛い容姿なれど才女である
自分の椅子を運んで、戸口に独り腰掛けている
膝上10cmのミニスカートから出た膝が大人の女性と意識させた

ホワイトボードに書かれた工事の各々担当者が一週間の進捗を述べる

さすが 設計事務所
格好いい
私が憬れたものである
皆が輝いて見える
「ヘェー」
社会とはこう謂うものなのか
自分もああして皆の様に発表する日が来るのか・・・
 横山さん
仕事場はパーティションで区切られ、二人一組で一つの一ブースに席を置いてしごとをする
私は、番頭・横山さんとのペア
番頭・横山さんが、私の教育係であった
記念すべき第一日
記念すべき初仕事
「数字を書いて下さい」・・・とな
なんとまあ
こともあらうに
記念すべき、最初の仕事は数字の書き取り・・だと
1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 ・・・・・ 
修業の初歩は 「雑巾がけ」 から
何の疑問も、不満もなく、・・・何せ私は素直であるから
これで、給料を貰っては申し訳ない
赤崎先生にそう言うと
「いやいや、これは君への投資です」
「一生懸命勉強して、早く一人前に成って下さい」
気にせずとも良いと

昼食
「オッ 豪華やな」・・と、浪花さん
豪華絢爛なる母の手作りの弁当は、我子への精一杯の想い
坂本昌子さん、北田さん、浪花さん・・皆は、仕出し弁当を食べていた
そんな中私は一人、皆に背を向けて食べた
なんと、不器用な青年なるか
せっかくの母の弁当も、味わう余裕なぞ・・あるものか

「コーヒー飲みに行こう」
食後、阪本二郎さんがコーヒーに誘って呉れた
「食後、喫茶店に行く」・・・勿論初めてのこと
事務所傍の喫茶店 VIBU
お金を持っていない・・・
コーヒーを飲んで席を立つ段になって初めて気づいた
お金を払うこと・・全く意識の外であった
此を、以ての外・・と、謂う

午後になっても更に、数字の書き取りが進んだ
宮田さんが、数字の書き取りをしている私を覗いては、親切に声をかけて呉れる
新人の私に興味津々といったところか
誰も皆 新人の頃があった・・と
己が新人の頃を懐かしんでいる風である
とにかく 皆は親切であった

そして、5時
終了の時刻だ
然し、教育係の横山さん・・出かけていて不在
どう・・切りをつけやう
帰れない
どうしやう
・・
と、その時・
「もう、帰っていいよ」・・と、阪本二郎さん
やれやれ・・
私の顔を見て、
宮田さんが微笑んでいる
「ああ・・・疲れた」

此れが
昭和48年(1973年)3月5日(月)
私の社会人初日
長~い
一日の、ドキュメントである

昭和48年11月17日・合歓の郷
後列左から・・井上さん・・阪本さん・・美濃さん・・東さん・・宮田さん
前列左から・・浪花さん・・小久保さん・・前田さん・・北田さん・・横山さん・・赤崎所長・・私(19才)・・押条さん
坂本昌子さんは結婚退職・・前田さんと入れ替わった 美濃さんは4月阪大新卒入社 押条さんは6月移籍入社

赤崎建築事務所時代 1973年 ( 昭和48年 ) ~ 1979年 ( 昭和54年 )
リンク→ VAN は、憧れであった
リンク→ 羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話 
リンク→ 10時になったら、帰ります
リンク→ 男の人が そんな事してはいけません!! 
リンク→ 酔うた~
リンク→ 「 どうして 俺が叱られる 」 ・・・因果な奴
リンク→ 隣りの あの女性(コ) 
リンク→ ミニサイクル と交通ゼネスト  
リンク→ 意見具申、そこに居た第三者
リンク→ 俺は男だ 
リンク→ 青春時代 『 青天霹靂のリストラ 』
リンク→
二級建築士に成る 
リンク→ クッターの公式

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羊羹(ヨウカン)と、クリープ の話

2021年08月23日 07時35分49秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

私には二人の師匠が存る
赤崎尚信先生
その一人である。
昭和48年 ( 1973年 ) 3月5日(月)、18才9ヶ月
設計士に成る夢を抱き 赤崎建築事務所に入社した私
赤崎先生に将来の夢を託したのである。
リンク→ 昭和48年 (1973年) 3月5日

先生45才、私19才 昭和48年合歓の里

先生の人物像を語るに
逸話多き人物なりと
先輩達より数々の、伝説的逸話を聞かされた。
その中の一つ
羊羹(ヨウカン)の話
午後三時は小休止、
頂き物の羊羹が御茶うけである。
皆して、一本半を食べた。
先生は所用で、後で食べるとの事
「しめた」・・と
此ぞと、皆の心に茶目っ気が湧いたのである。
さっそく、残り分の半分を模型製作で使う粘土で以てそっくりに作り、
そして、残った半分と合せ、元の一本として綺麗に包み紙に戻して置いたのである。
然しそれは、そっくりとは謂っても所詮は粘土、
殊更注意して見ずとも、子供でも一目で分るであらう程度の物
包み紙を開かば、たちどころに見破られ
「 すいません 」 ・・と、謝る振りをして大笑いする。
これが皆の筋書きであった。
ところが、筋書き通りにはいかなかった。
皆の思惑は外れた。
包み紙を開いても気付かなかったのである。
それどころか
つづいて、カッターを入れてゆく
「 ・・・・ 」
皆は、固唾を飲んでその様子を見ていた。
然し、先生、本当の羊羹と信じ切っている様子
皆のイタズラだと、全く気付こうべくもない。
そして
スワッ 大変
「 この羊羹、おかしいです 」
「 変な臭いがします 」
「 メーカーに連絡しなさい 」
・・と、いかにも真顔で叫んだ。
「 先生、気が付いていない 」
これで、慌てたのは仕掛けた方の皆であった。
「 まさか、真に受けるとは想わなかった 」 ・・と。
先生には冗談は通じない。
先生の生真面目は、皆の茶目っ気を凌駕したのである。

昭和49年11月3日 隠岐


オイルショックこそあれども、景気の良かった昭和49年(1974年)
大同門の新築工事に於いて、超突貫で設計を片づけなければならぬ事態が起った。
どうしても、期日に間に合わさねばならない・・と、
事務所の全員でその仕事を完成させることとなった。
「 皆が一丸と成って頑張るしか無い 」 と、赤崎先生。
各自、自分の担当仕事を一旦置いて手伝うことに成ったのである。
当仕事の担当者であった宮田さん。
統括責任者として、
皆からの質疑等の解答、各図面の連携、等々、専ら調整約に徹する態勢とし、皆に作業を割り振り
皆は割り振られた図面を作図したのである。
私は、展開図の作図の任に当った。
私は、急ぎの場合に多数で一斉に作業する方法をここで学んだのである。

 展開図サンプル
2005年、パソコンで作図したもの
手書きの1974年当時 からすると、考えられないくらい
作図する作業はスピードUPした

休日出勤となる土曜日
私は、( 平日の定刻は9時 ) 午前10時過ぎに出勤すると、
「 僕は、一睡もしなかった 」
「 君は何時間、寝たのかね 」
と、赤崎先生。
昨日は芦屋の自宅へは帰宅せず、唯一人 事務所に残って頑張ったのである。
「 僕は、徹夜した 」 ・・と、自慢する先生の手前
「 3時間程寝ました 」
・・私は、家へ持ち帰って仕事をしようとしたるも
帰宅するやバタンキュー、そのまま寝てしまった。
従って何もしていなかったのである。

クリープの話
ランチタイム
既に社会は、週休二日制が定着し始めていた。
土曜日とあって、仕出し弁当も休日、
平日なら、吾母の手作りである弁当持参の私も、さすがに持参しなかった。
そこで私は
事務所で用意していた カップ焼きそば を食べる事にしたのである。
 
お湯を注ぐだけで簡単に作れ 当時としては画期的なものであった

「 一緒に食べましょう 」
と、先生
いつもの如く、腰に手拭ぶら下げたるスタイルで現われた。
そして、二人肩を並べて食することに成ったのである。
ところが、何を思ったか先生
コーヒー用のクリープを取り出して
「 こうすると美味いんですよ 」 ・・と
ソース焼きそば にクリープをまぶして、然も 混ぜて食べ始めたのだ。
そして
「 美味しいですよ、君も ( クリープをまぶして ) 食べなさい 」 ・・と
私は遠慮した。
美味しい・・・なぞとは
とうてい想えなかったから。
満足そうに食している先生の横顔をまざと拝見しながら、
これぞ、赤崎先生の真骨頂
・・かな、と
感心したのである。

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旅情 ・ 兼六園

2021年06月29日 12時25分16秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和48年 (1973年) 7月
親友・長野と二人で旅をした、
心の旅 のプロローグ である。

イメージ画像は2015年  書込みは昭和48年 ( 1973年 )の記憶
真弓坂 から 兼六園に入った吾々、以後の経路は定かでない。 確かなことは記念に撮った写真だけである。
しかし、食堂やテニスコートは確かに存在した。ただ、それらの場所が何処にあったかは記憶しない。


午後11時半頃

大阪駅から特急列車に乗り、金沢へ向かった。
路行き、お互いの積もる話で花が咲いた。
若い頃 専らの関心と謂えば、やはり 女性とのロマンス。
此は、古今東西 普遍のもの。
「 是、読んでくれ 」
親友・長野、日記を出した。
そこには、彼が想いを寄せる女性との出逢いが綴られていた。
整ったきれいな文字で しっかりした文章で、それが いかにも彼らしかった。
「 先を越されてしまった・・・」
それにつけても 旅はいいもんだなあ。 ・・そう想った。
そして、旅の解放感もあって二人は夜を徹したのである。

寝袋の青春

暁払いの四時半頃、 金沢駅に着いた。
「 いざ、兼六園 」 ・・と、勢い駅舎を出た。
そこで最初に目にしたものが、ロータリーの舗道に横たわる、大きな蓑虫・・・だった。
「 なんやろ 」 と、通りすがりに覗いて見ると。
なんとそれは、
 『 寝袋 』 に包くるまって眠っている若者の姿だった。
「 ディスカバー・ジャパン、一人旅する若者が自転車で全国を周る 」
・・という話、テレビから雑誌から承知していた。
しかし、私の脚下で平然と眠る若者の姿を目の当たりにして、
その大胆とも謂える行為に感心したのである。
「 彼等にとっては、これが青春なんだ・・・ろう 」
・・と、そう想った。
しかし、それは あまりにも 無防備であろうが。


地図も持たずに、
只ひたすらに兼六園へと向かった

途中に、私の目を牽いた (当時) 金沢一髙いビル

食べられなかった親子丼
30分は歩いたろうか。 兼六園は目の前、其処にある。
( 真弓坂 ) 入口前に一軒の食堂を見つけた。
「 朝飯にしようや 」
幸運にも、朝早い時間にも拘らず店は開いていた。
ところが席に坐ったところで、
それまで意識もしなかったのに、食欲がないことに気付いたのである。
とりわけ食べる気がおきない。 否、何も食べたくないのだ。

相棒・長野も同じ状態だと云う。
五時という早朝の所為もあろうが、やはり 一睡もしなかったのが祟たたった。
メニューから適当なものを探したけれども、そんなものあるものか。
しかし、店に入ったからには 何か注文しなければなるまい。

「 親子丼なら 食えるかな 」
と、強いて注文した。 ・・・・のだけれど。
一口、つけただけ。 それだけで次に続かない。
躰が拒絶しているのである。 ・・・これはもう、どうしようもない。

揃って、箸を置いた

『 食べものを残してはなりません。粗末に扱ってはなりません 』
此が、吾々が子供の頃 大人達から享けた訓えだ。
「 すいません 」
吾々は、ゆっくり休憩も出来ずに、逃げる様に店を出たのである。

初めての旅ゆえ、不慣れは当然のこと。
しかし、体調を考慮するは基本の基本、それがスケジュールと謂うもの。
金沢駅に着いたところで、休息しておればよかったのだ。
・・・この事、おもい知らされた吾々であった。

兼六園・真弓坂から階段を上って園内に入る。
親子丼は食えなかった。 とはいえ、別に 『 しんどい 』 とは、想わなかった。
元気溌溂 だった。
なにせ、

社会人となって初の旅行。
これぞ日本三名園の兼六園 ・・と、
感慨一入、
興奮の中、歩いていたのである。
     
金沢の兼六園  花見橋の私   雁行橋の長野             どの辺りか不明・・残念

   
石川門 と 石川橋                   茶店通り                               徽軫灯籠


あなたを待つの テニスコート  木立の中のこる 白い朝もや
あなたは来るは あの径から  自転車こぎ 今日もくるわ
今年の夏忘れない  心にひめいつまでも
愛することをはじめて知った  二人の夏よ 消えないでねどうかずっと
                                        ・・・天地真理 ・ 「 恋する夏の日 」

旅情
快晴の夏空、陽射しが眩しかった。
しかし、ちっとも暑くはなかった。
園内をずっと上って行くと、テニスコートがあった。
爽やかな空気の下で、
白の上下を着て溌溂とプレイする、若い女性達の清々しい姿があった。

吾々は、人が入らない濠端の石垣を背にして腰を下ろした。
そこから 金沢の街が眺望できた。
二人 語ることもなく
前方に拡がる景色を トップリ 眺めたのである。
その時、フト
「 カーディガンに暑中見舞を送ろう 」
中学卒業して以来、年賀状すら出したこともないのに。
なぜか知らん・・・そう想った。
隣で肩を並べて同じ景色を眺めている親友・長野が、
何に想いを巡らしていたかは知らない。

天を仰いで小休止。
ウトウトっと・・・そのまま 眠った。
さもあらん。

コメント

心の旅

2021年06月28日 05時23分39秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和48年 ( 1973年 ) 7月
親友長野と二人、
夏休みは旅をしようと謂うことになった。
社会人として己が稼いだ金で行く、記念すべき初の旅行である。    (オノガ)
其に相応しい旅をしたい、
「 水の綺麗な海、若狭へ行こう 」 ・・と
さっそく、旭屋書店で北陸の地図を購入して探索すると
偶々三方五湖レインボーランイが目を牽いた。
「 三方五湖にしよう 」
三方五湖のネーミンングに何かしらんロマンを感じたのである。
そして、地図にテントの表示を見つけた。
「 ( 海辺に )  キャンプ場があるで 」
「 此のキャンプ場にしよう 」
「 夏のことやし、テントあったらいける ( 大丈夫 ) やろ 」
「 食事は現地で、なんとでもなるやろ 」
旅の計画は愉しき哉
ああしよう、こうしよう ・・・と、二人して大に盛上ってもう有頂天
なにせ社会人になって初の己が旅行   (オノガ)
而も、気心の知れた二人での旅、
さぞや愉しい旅になるだらうと、心を弾ませたのである。

金沢の兼六園 ~三方五湖 ・水月湖の海辺のキャンプ場 ~ レインボーライン、
三泊四日 ということに決めた。

 
兼六園へ向かう途中に
目を牽いた

(当時)金沢一髙いビル

リンク→旅情 ・ 兼六園
金沢・兼六園
なにせ

社会人となって初の旅行
これぞ日本三名園・・と、
感慨一入
興奮の中、歩いたのである。
   
金沢の兼六園、水戸の偕楽園、岡山の後楽園を日本三庭園と謂う
水戸の偕楽園は翌年の昭和49年 ( 1974年
)、
岡山の後楽園には続いて昭和50年 ( 1975年 ) に旅行した
リンク→
歴史との出逢い 
親友・長野とは、夏の旅行・三年続いたことになる

吾々は、人が入らない濠端の石垣を背にして吾々は腰を下ろした。
そこから 金沢の街が眺望できた。
天を仰いで小休止。
ウトウトっと、そのまま 眠った。
さもあらん。
・・・・
日は未だ高かった。
時間が 随分経ったような気がした。
「 そろそろ 行こか 」
午後3時半頃かな・・・そう想って、時計を見た。
「 エッ、未だ11時半かい 」 


兼六園で半日過ごした吾々は
次の目的地三方へ


福井県若狭町

金沢から小浜線で三方へ
三方駅からバスで海山へ

なんとか、次の目的の地に着いた吾々
さっそく
「海へ行こう」
トンネルを潜れば、そこは若狭湾・日本海、そして、めざすキャンプ場がある
・・ある筈であった
海岸縁りの砂浜では少人数の家族連れが居た
然し、探せど
キャンプ場なぞ どこにもあるものか
地元の漁師風の真っ黒に日焼した老人に尋ねると
「キャンプ場なんかあらへん」
「若いもんがあっちの浜辺で勝手にテント張って寝とるだけや」
と、北陸の人が関西弁を使う
スワッ大変
困ったことになった
なんにもない海辺にテント一つ切りで、まにあうものか
・・旅行前
地図に表示されたキャンプ場のマークを素直にそのまま鵜呑みにして、
テント一つ持って行けばなんとでもならうと・・・たかをくくったのが失敗であった
もう少し、注意を払うべきであったのだ

こいつ・・・
海山に民宿が有ると言う
民宿を探そうと、トンネルを潜り 海山の町へ引返し
地元の人に尋ねて周った。
私は、懸命に探したのである。
にもかかわらず どうであらう長野
知らぬ顔の半兵衛
傍で平然とタバコを吹かしているのである。
私はタバコはやらない
金沢駅でも
旅行客でゴッタがえす中

キップの手配をしようと頑張っている私の横で
なに喰わん顔で以て、タバコを吹かしていた。
「 こいつ 」 ・・・そう想った。

一軒の民宿を探し当てた。
ところが此の民宿
素泊まりのみで、食事のサービスは無いと謂う。
選択する余地なぞあらうべくもない
畳の上で眠れるだけでも此れ幸いと即決したのである。
 
ところで
まだ日は高い
「 泳ごう 」・・と
宿2階の部屋で 海パン ( 海水パンツ ) に着替え、三度トンネルを潜った。  (ミタビ)
海辺に着いたものの、
海には入らなかった。
泳ごう とは口では言ったが
朝から、まともに食事は取っていない二人
斯くも すきっ腹では
とうてい、泳ぐ気にはなれなかったのである。
 景色を見ただけ
未だ夕暮前なれど
近所のレストランで夕食を取ることにした。
一日、ほとんど何も食べちゃあいなかったのだから
なにを食べたのかも覚えちゃあいない
腹は減っているに決っている
然し、食べられない
注文したもので手を付けたはカニだけ、後は殆ど残したのである。

夕暮の景色を味うこともなく宿へ帰った。

宿では風呂には入れると謂う。
さもあらん
汚れた体で布団の中には這入れまい
風呂から上がると
座敷では、宿の家族一同が一家団欒の食事を取っていた。
「 お風呂頂きました 」
2階の部屋に戻ると、
バタンキュー、そのまま眠りに就いたのである。

つくづく 長い一日であった。
 

次の朝、
午前7時半頃目が覚めた。

今日も、夏の快晴が続いている。
此日はレインボーラインを周る日程である
然し、二人から
旅行気分は スッカリ 失せていた。
なによりも疲れた。
そればかりか、
互が互に ストレス を感じて、ツンツン している情態なのである。
もう、これ以上二人して旅行なぞ出来様ものか
「 もう、帰る 」
・・・と、
たった一日で終焉 となって仕舞った。
若きゆえの失敗である
・・・
会話も途絶え
黙々とした帰り仕度の中
ふと
窓外に目を遣ると
夏の山肌、雑木林の、なんとも怠い景色があった。
そんな欝状態で白けた私の心に
♪ あーだから今夜だけは
   きみを抱いていたい ♪
・・と、
隣りの部屋から、ラジオから、
チューリップの歌声が聞こえてきたのである。
そしてそれは
私の心に沁みたのである。

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青年は夢を追いかけろ

2021年06月25日 15時04分47秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

金を追いかける人生はつまらん
夢を追いかけろ
貧乏しても、納得した人生をおくれ
吾々はそういう人生に憬れた

 
 中之島・中央公会堂    1975年1月17日 OM1で 撮影

奇妙な世界
「 講演があるんや、一緒にいかへんか ? 」
親友水阪に、そう誘われての事
仕事を終えて、
中之島の中央公会堂へ

有名な中央公会堂
大ホールへ入るだけでも、私にとっては値打ちがあったのだ。
会場は満杯、しかも盛況であった。 ( ・・・そんな風に見えた )
而も
周りの皆 が 誰も 元気なのである。

しかし、
私が考えていたような講演ではなかった。
自動車のエンジンの排気ガスを減少させて、
エンジンの出力を高める装置の説明に
周りの皆が皆、真剣に聞き入っていた。
それは
「 こんな程度の内容を、いちいち、メモするか?」
・・と、感心する程、熱心なのであった。
私は、その光景を目の当たりにして、不思議に思ったのである。

「 そんなに良いものがあるのなら、自動車メーカーが既に開発しているだろうに 」
・・・そう想った。

装置の説明が終わると、
会員と称する人がステージに現れた。
司会者の問に応える形で、会員に成った経緯や、体験談を語るプログラムだつた。

自営業風の、いかにも実直そうな 50代中年男性、
「 会員に成った最初はどうでしたか 」 ・・・・ 「 不安でした 」
「 儲けはどうでしたか ? 」 ・・・・ 「 0 でした」
「 1ヶ月経って、どうでしたか ? 」 ・・・・ 「 0 でした 」
「 3ヶ月経って、どうでしたか ? 」 ・・・・ 「 ●万円、儲かりました 」
ここで、拍手が起こる。
「 半年経って、どうなりました ? 」 ・・・・ 「 ●十万円、儲かりました 」
拍手が大きく成る。
「 1年経って、どうなりました ? 」 ・・・・ 「 ( 儲けが ) ●百万円、に成りました 」
大拍手と成った。
そして、今は年間 ●千万円を越えた ・・・と、嬉しそうに語るのである。

次は30代の独身女性 ・・・と、体験談は続いていった。

体験談の後は、成功者の表彰式
彼等は会場の皆からの拍手喝采をあびながら、表彰状を手にしたのである。
表彰される皆が皆、
短期間で 『 大儲け 』 したのだと謂う。

勧誘
大ホールから、個室へ移った。
親友の水阪は別室で待機とのこと、相手方が4人ほど室に居た。
部屋のドア前に 一人が立っている。
テーブルの横に もう一人が立っている。
中央のテーブルを挟んで 腰かけた。
形 は、マン ツー マン
私に圧迫感を感じさせない程度に囲んでいる。
彼等は、それをよく心得ているのである。

そして
帯の付いた札束 一つ
テーブルの上に、
私の目の前に
置いたのである。
100万円 ・・・自立する程の厚みの大金
月給 6.7万円の私、年収でも満たない額である。

私への勧誘が始まった。
会員に成るには 装置を 4個購入する。
装置は、最初の4個 売れば、チャラ に成る。
装置を売る事より、会員を造れ
子会員を4人 造れば 以後は利益だけ ・・・と言うのである。
あなたなら4人くらい造る かいしょ あるでしょ 」
自尊心を巧みについてくる。
子会員4人が、又会員を4人造ると 16人が あなたの孫会員に成る。
会員が増える度に、配当金が入る仕組みだと言うのである。
「 更に、孫会員がそれぞれ4人子会員を造る と 」
「 後は、表彰された人の様に 『 大儲け 』 です 」 ・・・と。
100
万円の札束 に、手を かざしながら
巧みに、勧誘して来るのである。

「 ハハーン、あいつ ( 水阪 ) この手で、ひっかかったなぁ 」

「 金儲け してまでも、金は要りません 」
金が欲しい ・・・誰もの願いであらう。
しかし私は、関心が無い
・・・と、
キッパリ と 断ったのである。

別室の水阪と二人、中央公会堂から出た。
「 お前、講演会や言うて騙しゃがって 」
「 すまん、すまん 」
「 お前も、また、友達に騙されたんやろ 」
「 お前のことやから、友達の手前、引かれんようになったんやろ 」
「 男気をつかれて、「 ヨッシャー やったらぁ 」 ・・いう気に成ったんやろ 」
「 そやねん でも 俺も、これを機に手を引くわ 」
「 払ろうた金、もったいないけど 」
「 それがええわ、簡単に儲かる筈 ないもんな 」
「 ん 」

昭和49年 ( 1974年 ) 7月23日 (火)
二十歳の青年 の私が
マルチ商法 APO 
の、大会に参加した時の物語である。
 中之島・中央公会堂
1975年1月17日 OM1で 撮影
 


「 金を追いかけるな 
夢を追いかけろ 」
それは
青年の私が
心に刻んだ 理想であったのだ
  

コメント

青春の ひとこま

2021年06月22日 11時28分05秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

小説を読むことなぞ、ほとんどなかった私
しかし、19の私がどうしたきっかけかは忘れたが、この小説と出遭った
おそらく、この小説と出遭うべく環境が私のなかに整っていたのであらう
それはやはり、出遭うべくして出遭ったのである
19の私は感動した
そして、この小説を10年後、20年後、30年後、40年後と読み還して
私の想いは今もなお かわらず継続しつづけている
・・・そう想う私である

  若き日の思い出
その内に汽車がついてしまったのです。
それから思い出の多い別荘にゆきました。
二人はさっきの話を忘れたようにその話をしません。
正子はもって来た弁当を食べる為にお茶をわかしにゆきました。
私はとうとう宮津に辛抱出来ずに言いました。
「正子さんがあやまらなければならないと言う話はなんだい」
「つまらない話だよ。しかし正子にとってはつまらない話でもないが、
  あいつは呑気だから、自分はかまわない、野島さんに悪いと言うのだ。
 僕は正直に言うと、君は気にしないと思う。
  正子は自分が気になるので、君も気にすると思っているのだ」
「それは何んの話なのだ」
「わからないかい」
「何か噂をたてるものがあるのかい」
「そうなんだよ」
「それなら正子さんに少しも悪いことはない。僕が君の処にゆきすぎるからだろう」
「そうじゃないのだ。あいつが余計なことを言ったからだ。
  まあ気にしないで聞いてくれ給え。初めっから話すから」
「ああ初めっから話してくれ給え」
「僕が田坂や前島と一緒に別荘に行った前日の土曜日だった。二人はいつものようにやって来た。
  そして田坂が正子に碁をしようと言ったのだ。
 正子は田坂と碁をするのはあまり好きじゃないのだ。
  男の人に勝つのも面白くないし、負けるのもいやだと言うのだから。面白いはずはないのだ。
 しかしあいつのことだから、いやとは言わずにやり出したのだ。ところが田坂は負けたのだ。
  その負け方が少し面白くなかったらしいのだ。そのとばっちりが君の事になったのだ」
「怒ってはいけない。前島相手に何から君の話が出たかわからないが、君が変人だということ、
  君がよく物を忘れること、それまではよかった、皆君に厚意を持って話していたのだから、
  ところが前島がふとこういったのだ、あいつは頭が悪くはない、しかしあんまり天邪鬼すぎる。
 世間へ出て成功するだろうか、それは成功しないよ、と田坂はすぐ言ったのだ。
  そして君は自分でばかり偉いつもりでいるが、世間を知らなすぎる。
 世間を甘く見すぎている。ああいうのは世間に出ても落伍者になって、ひねくれるのだ。
 それから君のいろいろ批評が出た、二人ぐるになって正子に悪口を聞かせるのだと正子はとったのだね。
 そして田坂が、あんな男を好きになる物好きな女があるかね、といったのだよ。
  その時正子が不意にいわなければいいことをいってしまったのだ。
 それはあるわ、わたし野島さん大好きよ。
 あなたは変っているから。
 田坂は苦笑いしてそう言って黙ってしまった。
 そして翌日正子は別荘に私はゆかないと言い出したのだ。
 僕が行けと言ったのだけど、いやだと言って 僕の言うことならなんでも聞くのだが、その時だけは聞かなかった。
 そのあとの芝居の時も始め学校なんかかまわないと言って ゆくように言っていたのが、学校のせいにしてゆかなくなった。
 それから田坂も僕の処に来なくなったのだ。
 ところが一昨日だ。
  正子が学校から帰って自分の雑記帳を見ると雑記帳に誰かいたずらがきして、野島正子様お目出とうとかいてあるのだ。
 それには正子すっかり驚いてね。
  この噂が方々に聞こえたら、そして君のお母さんのお耳にでも入ったら大変だと言って心配しているのだ。
 正子はそういう野心は自分はちつとも持っていない。
 私はただ野島さんが好きなだけなので、あの時つい腹が立って大好きと言ってしまって、大変軽薄なことを言ってしまったのだが、
 僕は野島はそんなことで怒りはしないよ、と言ったので、やっと安心したのだが、君によくあやまってくれと言っていた。
 許してやってくれるか」
「許すも許さないもないよ。僕だって正子さんは大好きだよ。僕の方が好きな位だからね。
 尤もそれだけの話だが、僕はなんと言われたって男だから平気だが、正子さんに傷がついてはお気の毒だ」
「その点は心配していないのだ。
  父も母も馬鹿な人間もいるものだと言って問題にしていないのだ。君も何んとも思わないでくれるだろう」
「思わないとも」
宮津はすぐ立って妹の処へゆきました。そして二人でやって来ました。
正子は神妙にお辞儀して言いました。
「どうもすいません」
「すまないどころですか。本当は僕はうれしく思いましたよ」
正子は真赤な顔になりました。
僕も赤くなったらしいのです。
正子は何も言いませんでして。
僕もそれ以上言えませんでした。
正子は丁寧にお辞儀をして、湯をわかしにゆきました。
そうだったのか。
そして私は宮津と田坂の妹の噂をこの時思い出し、その為宮津が失恋することになったら気の毒だと思いました。
しかし宮津が田坂の妹を愛していたという噂は大した根拠がなく、
 誰が言い出したのか知りませんが、想像説にすぎなかった事をあとで知り安心しました。
そうでしょう。宮津は少しも田坂の妹に逢えないことを悲しんでいる
 らしい様子は見えませんでした。
いつもより宮津も元気のように私は見えました。
しかしその日の私はあまり幸福すぎて、他の人の事なぞ気にする心の余裕がなかったのも事実です。
人間にはこんなに深い喜びが与えられているものだということを如実に知って、
 今更に人生の無限の深さというものを感じたわけです。
勿論それはあとでその日のことを思って感じたことで、その日は有頂天に時間を過ごしたと言う方が本当でしょう。
一生に一日でもそんな日を持つことが出来たことを私は感謝するわけです。

私達は腹がへって来ました。お茶もわきました。
お弁当、それも私の分まで宮津の家でつくってくれたのですが、
  それを食べながら私は正子を見ると、野島正子という言葉が、頭にややもすると浮んで来ます。
そうすると自ずと微笑が浮かんで来、あらためて正子を見るのです。
その時、正子も私の方を見、二人は気まりわるそうに微笑するのです。
気がついたら、いくら宮津でもいい感じはしなかったかも知れません。
しかし宮津の妹思いは大したものです。
正子の兄思いも それに負けませんが。

食事の時に何をしゃべったか、私は忘れました。
楽しかったことだけ覚えています。
食事がすんでから、宮津は一寸室を出てゆきました。
正子はあらためて

「御免なさい」
「御免なさいどころですか、僕は本当に嬉しいのです」
「怒っていらっしゃらない」
「怒るどころですか」
「お母さんのお耳に入ったら」
「大丈夫ですよ、それより母は僕があなたを好きになりすぎはしないかと心配しているのです」
「それは私みたいな役にたたないものをね」
「それは反対なのです。
  母はあなたのような美しすぎる人は僕のようなものの処にくるわけはないときめて、僕のことを心配してくれるのです」
「どうですか」
「それは本当です、僕もそう思っているのです」
「今でも」
「あなたはあんまり僕にはよすぎますから」
「その反対よ、私、そんな」

その時、宮津が入って来ました。二人は黙りました。
しかし正子は涙ぐんでいるようです。
私もそれに気がつくと泣きたいような気になりました。いうまでもなく嬉しくってです。
どうしてこんなにいい人が、私のようなものを愛してくれたか。
同じ思いを正子がしているらしいのは、私には驚きでした。

なんだか正子が可哀そうな気さえして来ます。
宮津はお茶でも点れかえないかと言いました。

「はい」

正子は神妙な返事をしてすぐお茶を点れにゆきました。
宮津は言いました。

「こんな事を言って君と僕との友情がこわれると困るのだが、父や母にたのまれたのだ。
 
実はね、正子に縁談がちょいちょいあるのだ。しかし正子はてんでうけつけないのだ。
 父
も反対なのだ。正直言うと父も正子も、君を第一候補者に心の内できめているらしいのだ。
 
正子にとっては唯一と言っていいだろう。兄の目からそれがわかる。
 
実に君に対しては神妙であり、絶対に信頼しているのだ。
 
しかし母は君にもう許嫁の人があるかも知れない。又いないにしても、正子のことを思っていらっしゃらないかも知れない。
 
それなのに、こっちばかりあてにしていても、もしものことがあれば馬鹿気ていると言うのだ。
 
それで君の考えを聞いてくれと言うのだ。
 
僕はまだ早いと言うのだけれど母の心配するのも無理がないと思うのだ」

私は正直に言いました。

「君も感づいていてくれると思うが、僕は正子さんを愛しているのだ。
 
しかしその為に正子さんを不幸にしてはすまないと思っているので、僕の方からは、もう少し自信が出来てから、
 それは主に生活の方の話だが、それから正子さんが僕の処に来てもいい気があったら話そうと思っていたのだ。
 
僕のような人間を正子さんが愛していてくれるとは思えないし、又僕のような金もない家の次男坊に来てくれとも言えないからね。
 
僕はただ君達の厚意と、君のお父さんがへんに僕に期待をかけてくださるので、いくらか望みをつないでいただけの話で、
 それも僕の方から話すだけの自信はなかったのだ」

「君の遠慮は、このさいぬきにしてもらう方が話がしいいと思うね、
  僕達は正子の仕合せだけを考え、君の方は君の方のことを考えればそれでいいのではないかと思うね。
 
君の兄さん、君のお母さんの御意見が一番僕には気になるのだ」

「その点は安心だと思うね。
 
僕の母なぞは、僕があんまり正子さんに夢中になりすぎはしないかとそればかり心配しているようだが、
 それはいざと言う時に断られて僕が参りはしないかとそれを心配しているらしいのだ。
 
だから正子さんが本当に僕の所に来てくれたら、母は喜ぶと思うのだ。
 
しかし、その点心配なら母や兄に話して、はっきりした承諾を得ることにしてもいい、決して反対しないと思う。
 
心配なのは生活のことだが、生活出来る時まで待ってもらえば、何とかなると思う」

「待つのはなんでもない、しかし生活のことは心配する必要はないと思う。正子の生活の保障位は僕の方でも出来る。
 
この別荘が気に入っているらしいから、ここに住んでもらってもいい、この家は正子にやつてもいいと思っている、
 遊びに来たい時はいつでもくるから、その実は別荘番をしてもらっているようなものになるかも知れないが、
 あいつは贅沢はしたがらない、君の言うことなら何でもきくと言っているのだ。

兄としては君があいつを愛していてくれることがわかり、君のお母さんやお兄さんがそれを喜んで下さればそれでいいのだ」
「それなら僕の方の話が、うますぎて、何と言っていいかわからないよ」
「それを聞いて僕も安心した、正子が心配しているだろうから、知らせてくるよ」

宮津は出て行きました。
私はもう夢中でした。落ちつけなくって室の中を歩き廻りました。
正子がどんな顔をして入ってくるかと思いました。正子は喜んで飛んでくるだろうと思いました。
しかし中々やって来ません。
段々私は落ちつかなくなりました。どうしたのだろうと思いました。
やっと足音がしました。
私は落ちついているふりをして椅子に腰かけました。
そして自分のつまとして正子の第一印象をはっきりつかみたく思いました。
戸があきました。緊張しました。
ところが入って来たのは宮津だけです。がっかりしました。しかし宮津はにこにこしていいました。

「正ちゃんはあとで行くと言ったよ。大変喜んでいた」

喜んでいたと聞いて安心しましたが、飛んでくると思ったのに、飛んで来ないのには、いくらか不服でした。
私はもう夫になったような気がして、正子を叱る権利が出来たようないい気になっていたようです。
正子にたいする私の感じはすっかり変わりました。
今までは自分の手がとどかない高い青空にでも住んでいる天女のような気が何となくしていたのです。
私は憧憬の目で正子を見上げていたのです。手さえふれられない神聖なもののように思われていたのです。
今はちがいます。勿論正式に結婚するまでは、正子は私の本当の妻ではありません。
しかし事実、私のものになったわけです。
私は大した獲物を思わず得たわけです。
望むことさえ出来ないと思っていたものがいつのまにか自分のものになっていたのです。

それにしてもなぜ正子は出て来ないのでしょう。
私はその理由が聞きたいのですが、どうも聞くのは負けたような気がして、痩我慢をして聞きませんでした。
宮津も意地悪く黙っています。
二人は沈黙がちになりました。しかしその沈黙はいやな沈黙ではありません。
私は喜びが心の内からもり上がるのをかくすのに骨が折れます。
それにしても、正子はどうして来ないのでしょう。
気まりがわるいのでしょうか、宮津はなぜ呼びにゆかないのでしょう。
私が一人で気をもんでいるのが面白いのでしょうか、宮津も時々微笑するようです。
私は段々我慢が出来なくなりました。
その時、こつこつ戸をたたく音がしました。
戸があけられました。
正子です、正子にちがいありません、でも私は驚きました。
恥ずかしそうにうつむいている正子が、顔をあげたのを見ると薄化粧しているのです。
そして にっこりと笑いました。

その美しさ。


(私の正子イメージ)

私は驚きました。遅くなった理由がはっきりしました。
私は恥ずかしい話ですが、涙がこみ上げて来ました。
正子の心がなんとなくいじらしく感じられたのです。
私に少しでもよく、思われたい、美しく思われたい、
 私の妻として最初に逢うのですから、それだけの心をつかっていることを示したい。
どの位 喜んでいるかを事実で示したがっているように、感じられました。
私も思わず立ち上がったのです。
何のために立ち上がったか自分でもわかりませんでした。

正子は今までになく神妙に入ってきました。
私は自分が立ったことに気がつき、きまりがわるく又腰かけました。
正子も以前の快活さに戻って来、椅子に腰かけました。
二人は黙っていました。
私は何か言いたいのですが、言う言葉はないのです。
しかし二人は同じ時に見合わせ、今度は本当に気持ちよく笑いました。
気分が一時にほどけたように思いました。

「中々来ないので、どうしたのかと思いました」
「お化粧したことが御ざいませんので、中々うまく出来ませんの」
「大変綺麗ですよ」
「野島さんが御らんになるとね」
宮津は逃げ出したくなったのか、室から用のあるふりをして出て行きました。
「夢のようです」 私はそう言いました。
「私こそ」
「本当にありがとう」
「私の言おうと思う事をおっしゃるのね」
「それでも、僕が君わ好きになるのは、あたりまえですが、君が好きになったのはあたりまえとは言えませんからね。
  僕の方がお礼を言うのが本当ですよ」
「そうですかしらん。私の方が先に野島さんを好きになったのを御存知ないでしょ」
「そんな嘘は、知りません。僕は始めっからあなたが好きだったのですよ」
「始めって、いつのこと」
「海岸で初めてお逢いした、翌日です。海岸ではよくあなたの顔が見えませんでしたから」
「そら御らんなさい。それでは野島さんの方が負けですわ」
「どうしてです」
「それでも野島さんは輔仁大会(学習院の催し)で「美に就いて」と言う演説をなさった事がおありでしょう」
「あります」
「それを私、お聞きして、すっかり感心して、その時野島さんて偉い方でいい方だと思ったのですわ」
「あんな下手な演説を聴いてですか。今考えても恥ずかしい気がするのです。あなたは余程もの好きですね」
「ようございますわ。私のようなものをお好きになる方がもの好きですわ」
「それでもあなたは実際よすぎますから」
「よすぎるのは野島さんですわ」
「それは驚きました」
「あの時の演説、今でも覚えていますわ、学習院の徽章の桜の花は美しい。美しい女はいくらでもある」
「よして下さいよ。気でもちがったのではないですか」
「あの時のお話にも感心しましたが、あの時のお顔の真剣さと、計り知れないお寂しさに心を打たれたのですわ」
「もうあの演説の話はやめて下さい」
「だけど花には目がないとおっしゃったわね。私本当だと思いましたわ」
「そんな話をするとあなたの碁の話をしますよ」
「ようございますわ。私、あの時のあなたの演説のこと、もっともっと饒舌りたいのですわ」
「困った人ですね」
「あの時ね」
「もうその話をすると怒りますよ」
「怒って下さってもちっとも怖くはありませんわ」
「僕が本当になって怒ると怖いですよ」
「そしたら私泣きますわ。私なくと怖いのですよ」
「いやな人ですね」
「本当にいやな人なのよ。出来るだけなおしますから、いやな時はおっしゃってくださいね。叱らないで」
「あなたはいやな人では絶対ありませんよ。僕は怒ったりしませんよ」
「私だって泣いたことなんか、本当にありませんわ」
「でもあなたの泣き顔見ましたよ」
「嬉しくってでしょう」
「あなたは中々へらず口ですね」
「いけません」
「大いによろしい。でも僕の母にはその癖を出しては駄目ですよ」
「あなた以外には出しませんわ」
「それなら本当によろしい」
「いろいろ教えていただきますわ。野島さまのお母さま、本当に偉い方なのですってね。
  私お気に入られるかどうか心配ですわ」
「大丈夫ですよ。無邪気に甘えさえすれば」
「甘える事なら私 お手のものですけど、あまり甘えてもね」
「堅すぎるのですから、甘える方がいいのですよ」
「そうお、それならよろしいわね」
「碁を打つことはあまり好かないかも知れませんよ。その点だけが心配です」
「碁なんか打ちたか御ざいませんわ。第一そんな暇はございませんわ」
「他で打つならかまわないですが」
「私、碁はそう好きじゃありませんのよ」
「好きでないのにあんなにうまくなったのは不思議ですね」
「それは若い時は好きだった時もありますけど」
「年よりになったら嫌いになったのですか」
「いやな方。兄を呼んできましょうね。兄は気をきかせすぎていますわ。
  これからいつでも二人だけになれますからね」
「本当に呼んでいらっしゃい。僕もその方がいいのです」
「あの時の話をされないですみますものね。私は又碁の話をされずにすみますからね」
正子は出かけてゆきました。
しかし出てゆく前に私は一寸呼びとめました。
「正子さん」
「何に」
「野島正子さん」
「はーい」
そう言って逃げてゆきました。
まもなく宮津は笑いながら正子と入って来ました。
正子は言いました。
「ねえ お兄さん。私野島さんの演説を聞いて感心したのは本当ですわね」
「それは野島本当だよ。あの当時君のことばかり聞きたがるので閉口したよ」
「嘘ばっかり」
「それで君の声色をやったものだ」
「そんなことおっしゃるなんて、藪蛇だわ。お兄さんはどっちの加勢なさるの」
三人は笑いました。私は幸福でした。

人生にとってかげのない喜びの日がもしあるとすれば、それは稀有なものと思われます。
私は少なくもこの日はその稀有な日だったと思います。
一生の間、私はこの日のことを何度も思いだし、その度に清い喜びを感じるでしょう。
実際私は幸福でした。
この日を前から楽しみにしていたのは事実ですが、大概のことは期待通りにゆかないものです。
ところがこの日はわりに虫のいい期待はしていたのですが、
 事実期待していた何百倍もの喜びが待ち受けていてくれたのです。
私が喜んだのは尤もです。
正子も喜んでくれました。
よき宮津も心から喜んでくれました。
二人だけだったら、この喜びは清い美しいものだけとして終わったかどうか、私には自信がありません。
宮津がいてくれたので、
 私は自制が出来その自制が喜びを一層深い内面的のものにし反省と感謝の念を起させてくれました。

昭和49年(1974年)20才の青年になる直前、19才に出遭った小説である
19才の私は多感であった
そして、自分を磨きたかった
男として 「三島由紀夫」 に倣おうとし、女の 「正子」 を探し求めていた
二・二六事件の青年将校に深く感銘を受け
フォークのチェリッシュの悦チャンが唄う 「古いお寺にただひとり」 に、聞き惚れた
この、両極端のアンバランス
これこそ、私の 「青春のひとこま」 と謂えよう

コメント

「結婚式に出席しない」 は、俺の主義

2021年06月14日 08時34分53秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

永田さんは 今どうしてられるんですか?

今、仕事で名古屋に行ってるみたいやで

梅ちゃん、こんどの日曜日結婚式なんや、あの則ちゃんという女性(コ)とな きみも知ってるやろ あの女性(コ)

知ってますよ、性格の良い女性(コ)でしょ、梅本さんとお似合いですよ

永田さんと梅本さん、親しかったそうですね

うん、僕等が梅ちゃんと知り合ったのは、永田からの線なんや

そうですか、で、永田さん、出席されるんですか?

イヤ、あいつ出席せんらしい、梅ちゃんが是非とも、ということで頼んだらしいけど、

あいつ、 俺の主義 として、行かへん 」 言うて、断ったらしい

梅ちゃん、断る理由に「俺の主義」だから、と云われたと、怒っとったよ

人間、言うたらいかん事があって、そんな言い方して断ったら駄目なんや

そうですかね、そんな事はないと、僕は思いますがね

断るんだったら、仕事で忙しいとか、他に言い方があったと思うよ

それを主義だからといって断るのは、間違っていると思う

そうですかね、僕は正しいと思いますがね

行きたくないのに、無理に誘わなくても良いのではないですか

永田さんが、断る理由に 「 主義 」 だと云ったのなら、それで十分ではないですか

僕はそれで、事足りていると思いますがね

梅本さんは永田さんが来てくれないもんで怒っているんで、

「 主義だから 」 という言葉は怒る為の材料にしているだけだと思いますがね

いゃ、自分の晴れの舞台に親友である永田に出席してもらいたい、

そんな気持ちで居るのに「主義だから」とそれだけの理由で断られたからだと思うよ

友達だったら、出るべきだと思うがね

出たくないのに出ても楽しい気分にはなれないですよ

二人の結婚を祝福しているんでょ、その気持ちがあれば別に強要しなくても良いと思いますがね

親友の結婚を素直に喜び祝福する、至極あたりまえの事だ。
その気持ちの表現の方法は、人それぞれの個性があっても良いと、私は思う。
「 主義だから 」 そういう表現、あっても良いと私は思う。
友情ならば 「あいつらしい」、と、理解してやる。
・・・その方が私は好きである。

己のエゴが通らない時、誰しも腹が立つものである。
自分は正しいと思っているから、思い通りにならない相手を非難するのである。
「 友達ならば 」、俺のエゴを適える義務が有る。
・・と、言っている様な気がする。

結婚式の披露宴とは、己のこれからの人生の覚悟、
新参者として世間様に対してその一員に加わるとて 「 宜しくお願いします 」 と、謂う、お披露目であるはず。
其れゆえに、世間様の代表者たる出席者に対して、忝く思い、その労に感謝して御馳走するのである。
「 皆に祝って貰う 」 だけのものでは無いのである。
披露宴に出席する者は、まったく別の人間どうしが 縁あって結ばれ
これから苦楽を伴にする、
若い仲間が出来たことを祝う。
・・その縁を祝い、一人前に成ったことを慶ぶのである
「 幸せに成ってもらいたい 」
・・・と、いう気持ち
・・・誰もが願うものであるが、
結婚する二人だけに向けられている訳では無いのである。

俗に、己の感情で、
「 冠婚葬祭の義理を欠いてはならない 」
・・・と、謂われる。
それが世間に於いての 「 付き合い 」 だと。
果たして、
「 主義 」 として、断った永田さんと、
「 付合い 」 として、出席している者と
どう違うのであろうか。
「 結婚は祝ってもらうもの 」
・・・その通りだとは想う。  ・・・想うが。

延々と屁理屈 謂ってはみたが
要するに、唯 少しばかり
「 思い遣りに欠けた 」
それだけの事かも知れない。
 

 
東氏との
昭和57年 ( 1982年 )
4月23日の会話

コメント

叶うものであれは゛ 叶えて欲しい・・

2021年06月06日 05時05分44秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和50年 ( 1975年 ) 2月15日 (土)
親友 ・水阪
「  ( 結婚 ) 決めようと思っている 」 と、云う。
鹿児島まで、付き添って呉れと云う。
吾々は、春分の日の3連休
九州鹿児島まで旅行する事に成ったのである。

昭和50年 ( 1975年 ) 3月10日  
山陽新幹線 岡山ー博多が開通し
大阪から博多まで
4時間半で 行けるように成った。

3月21日(金) 春分の日
吾々の乗った山陽新幹線は、乗車率200%と超満員であった。
吾々は立ったまま、新大阪駅を出発した。
果して 4.5 時間、
新幹線は博多に着いた。

駅を出ると早速、
今回の旅で私の目的である、福岡相互銀行に直行した。
それはもう、スケールの大きな、感動の建築物であった。
建築家・磯崎新を存分に認識させられた想いであった。

私の旅はここまで、
これからは 親友 ・水阪の付添い役だ。

熊本で一泊
初日は熊本で、一泊する。
旅に不慣れの私、ユース会員の水阪、
段取り全てに、彼は機嫌良う 世話をして呉れた。
吾々は、水前寺公園近くの 「 松鶴YHS  」 で一泊することになった。
昔は遊郭だったそうな。
ところが、東京から来た野郎二人との相部屋だと。
見れば
おとなしそうな二人、
たかが一晩寝るだけのこと、
「 これも 旅の想い出哉 」
・・・と、
一夜を共にすることにしたのである。
ところが、この二人 とんだ 曲者 だった。
片や
「 いびき と 寝言 」
片や
「 歯軋り 」
殊に、これには参った。
人は眠った時にその本性が出る。
「 枕 」 が、違うだけで眠れない繊細な性格の持ち主である私、
とても
眠れることなぞ出来るものか。
翌朝 ( 22日 )
何食わぬ顔の二人
私が彼等の所為で眠れなかった事なぞ知るもんか。・・・そんな顔をしていた。
とんだ 「 旅の想い出哉  」 ・・・であった。

3月22日(土)
朝食。
食堂へ行くと、一組の男女が食事をしていた。
どちらも学生らしく、この場で偶々合ったのであらう。
聞くとはなしに、二人の気取った会話が聞こえて来た。 ( ・・・だから、別に聞き耳立てていた訳ではない )
それは、シラジラトしたものだった。

食事を済ませた吾々。
愈々、運命の地へ向かう。

午後12時半、吾々は鹿児島 ・伊集院駅に着いた。
此処から 一路、目的に向かって 二人だけの行軍である。
快晴の春日和。
吾 目に映る田園風景は、爽やかであった。
親友 ・水阪 の目には、如何に映っていたのであらうや。
もし、彼が景色を愉しむ心境にあったなら、彼は大人物である。

路を尋ねもって、歩くこと一時間。
峠 を越えた。
大阪から 遥々ここまで来た。
そして、洋々 目的地 
親友 ・水阪が結婚したいと謂う女性の在る職場、
『 □□学園 』 ・・・に、辿り着いたのだ。

そこには子供達も居た。
頑是無い子も居れば、健気な子も居る。
だれも皆、元気な子供らである。
私は、ビー玉で遊ぶ彼等の仲間に入れてもらった。
大阪では 「 アナポコ 」 という 一番ポピュラーな遊びである。
私の指先がビー玉に馴染んだ頃、彼等も 私に馴染んで呉れた。
そして素直に、「 野郎二人の客 」 の、吾々を歓迎して呉れたのである。

すっかり、子供らと馴染んだ吾々は、
こんどは、ドッジボールで遊ぼうと小学校へ行くことに成った。
子供らが大喜びをして呉れた。
早く グランドへ ・・気が逸る・・・駆け足に成って行く。
・・・リンク→ あの時の少女の言葉 忘れないで存る

親友 ・水阪、
小学校のグランドで子供らとボール遊びをしている。
私は、子供らとのボール遊びには加わらなかった。
砂場の渕に坐って、遠目でその様子を眺めていたのである。
「 あいつ、子供好きなんや 」
その時、私の傍らには彼女が坐って居た。
私は彼女に言葉した。
「 決めるべきです 」

ボール遊びを終えて
「 湯の元 」 の、旅館に案内された。
この日は此処で一泊するのである。
夕食が済んで、部屋に入った吾々。
親友 ・水阪、
未だ肝心な用を達していない。
「 お前、話  して来いよ。 ( 俺 ) 此処に居るから 」
と、彼を促しすと、
「 うん、それじゃあ 行って来るワ 」
・・・そう云って、彼は部屋を出た。

果して
旨くいくに決まっている。

3月23日(日)
鹿児島駅に着いたのは午前11時であった。
鹿児島の磯公園から、噴煙をあげる桜島が眺望できた。
初めて見る火山の噴煙は感動であった。
そして、斯の景色を、三人で眺めたのである。
二人と私。
「 将来を共に生きる 」 ・・・ことを決めた二人。
私はその瞬間 ( とき) に 立会えた。
そう想へば
感慨一入であった。


人生バラ色の瞬間ときの水阪

写真は磯公園での私
旅行の目的は達成された。
親友の水阪
幸せ気分の絶頂・・そんな面持ちであった。
心晴々、帰途に就いたのである。

私が、付添いとしての役目を果したか否かは分らない。

ゆきずりの女性 ( ひと )
今旅を終えて、大阪へ帰らん
午後2時頃 鹿児島駅で鹿児島本線 ・博多行特急電車に乗った。
満員の電車、座る所も無い。
通路を進んでいると、
旅行カバンとショルダーバッグ、紙袋と、三つを持て余している女性と遭った。
前屈みになって、抱きかかえた紙袋から、中の荷物が落ちそうになっている。
見るに見かねた私は、
「 持ちましょうか 」 ・・・と、声をかけた。
「 ハイ 」
・・・と、その女性、
意外にも、素直に応えて呉れたのである。
満員の車内は窮屈だった。
出入り口のデッキなら人は居るまい ・・・と、
吾々は、デッキに移動することにした。
案の定 果して
デッキには誰も居なくて、床に座る事が出来たのである。

 イメージ

黒い ブラウス と スカートの女性
私より、2歳年上で
風吹ジュンに、似ていた。
鹿児島の大学を卒業して、故郷の福岡に帰るところだと言う。
お礼に、と 差し出されて食べたオレンジは、それはもう甘くて美味しかった。
傍では親友 ・水阪、
彼女から貰った お土産 ・「 竹細工の小鳥 」を手にして陶酔している。
もう、幸せいっぱい、胸いっぱい 。
彼のニヤケている姿を目の当りにして、
斯の女性と私、
想わず顔を見合せ微笑んでしまった。
二人と あいつ
愉しい時間は、あっという間に過ぎる。
鹿児島から5時間。
「 もうすぐ博多に着く 」 ・・・という、アナウンス。
続いて、山陽
新幹線の乗り継を報しらせた。
心配したが、なんとか新幹線には間に合う、そして今日中に大阪へ帰れる。
「 良かったわねェ 」
間に合ったことを、彼女は喜んで呉れたのである。
ところが然し、
乗り継ぐ時間が 5分程度しか無いことが判った。
折角、5時間を共にしたのである。
せめて、名残り を惜しむ時間が欲しいというもの。
しかし、此が縁・運命と謂うもの
人生の流れ ・・・には、逆らえないものである。
カナシバリ に、遭ったが如く、
名も聞かず、
名も告げず、
唯、ゆきずりの人として、
別れたのである。
これを 一期一会 と 謂うのであらう ・・・や
「 さようなら 」

博多駅に着くと吾々は、乗り換えの階段を2段づつ駆け上がり、
新幹線に跳び乗った。
大阪に着いたのは午後11時半であった。


後に、残念の想いが積り、
人気番組、「 やすし・きよし プロポーズ大作戦 」 で
「 あなたの望みを叶えます 」 
・・・と、愛のキューピット・
桂きんし が、
尋ねし女性 を 探して呉れるコーナーがあった。
叶うものであれば、叶えて欲しい・・
応募してみようか、と、話し合ってはみたけれど、
本気にまでは至らなかった。
此も縁・運命と謂うもの、
人生の流れ ・・・には、逆らえないものである。

 名も聞かず、名も告げず・・・

親友・水阪の、結論から謂うと
ゆきずりの女性のまま、別れた。
からこそ、良かったのだ。
・・そうな


この旅行中
貴ノ花が大阪場所で初優勝した。
貴ノ花のファンの私
普段は、一番も欠かさず、テレビ観戦するのに、
この時だけは、見過ごしたのである。

想えば
密度の濃い、旅行だった。

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「ママ、可哀そう」

2021年06月03日 20時40分27秒 | 5 青春のひとこま 1973年~

昭和51年 ( 1976年 )
呼ばれて、一人住まいの朋友・長野宅へ行くと、
男二人、女性一人の3人が既に室に居た。
彼の中学の同窓だと言う。
私が凛とした口調で自己紹介をすると、彼等の目の色が変わった。
彼等から、朋友・長野の友人として認知された様だ。
ところが、肝心の彼が居ない。
例の集会で少し遅れる・・と、待っているのだと言う。
黙って坐っていても、間が持たない。
如何いう経緯かは、まったく覚えちゃいないが、
その時私は、石川さゆり の 「 あいあい傘 」 を唄ったのだ。
而も、歌詞カードも何もない、『 アカペラ 』 で唄ったのである。
それは、吾ながら いやになるくらいに下手なものであった。
ところが此に、強面の建築職人・井上が反応したのであるから、
世の中、捨てたもんじゃない。


朋友・長野宅で
山口百恵の壁紙に、「 あいつ、百恵フアンだったのか ・・・」

森昌子、山口百恵、桜田淳子、
三人娘が花盛りの頃
次点アイドルゆえに、
冷や飯を食っていた 石川さゆり
子供の頃から、同情が愛情に変るタイプの私、
妹のような彼女を不憫に想い、
心で以て、応援していたのである。

♪ 壁に描いたいたずら書き  あいあい傘の
下に並ぶ金釘釘文字  二人の名前
忘れはしません あなたはあの時に
私のことを好きじゃないと  にらみつけたのよ
それでも許してあげるわ  二人は傘の中
今はこんなに好きといってくれるから
にわか雨は はげし過ぎる  お寄りなさいな ♪


ママ、可哀そう

野郎四人で、共に飲もう、語ろうと、朋友・長野宅へ再び集った。
先日と同じ顔ぶれで、強面・井上も居る。
彼は、私が設計士ということを意識しているようで、
「 若い生意気な現場監督がきてな、
偉そうに あれこれ、訳の分らんこと言うんや。
そんなもんできるかい、
俺はなんでもヘイヘイ言うてイイナリ にはならん 」
・・・と、己が職人気質を自慢し   (オノガショクニンカタギ)
心意気のあるところを、殊更強調するのである。

( 話しの ) 流れの勢い、スナックへ行って飲もう、ということに成った。
強面・井上が皆を連れて行くと言いだしたのだ。
余り気乗りはしなかったが、流れの中 断ることも適わない。
彼の運転で西宮(市)へ向かった。
武庫川の河口ベリ のスナック、彼の馴染みの店だと言う。
和服姿の美人のママさんが迎えて呉れた。
ママさんのその態度は、強面・井上の馴染みの深さを物語る。

吾々が腰を据えて暫くして、一人の男性が現れた。
ママさんの態度からして、常連の上得意さんであらう。
ところが 驚いたことに、日本髪を結った芸者二人を引連れている。
此処は吾々も愉しむ普通のバースナック、どう見てもミスマッチであらう。
たちまち、店の雰囲気がガラッと替わってしまった。
芸者引連れての豪遊で、上機嫌の旦那さん、それはもう有頂天である。
彼に促されて芸者が、唄い出した。
 イメージ
お水の世界、
その仁義の程、私は知らない、知る由もない
然し、そんな私でさえも その光景は奇異に感じたのである。
ママさん、旦那さんの手前もあって愛想せざるを得ない
吾々はその様子を、唯呆然と眺めていた。

と、その時
「 ママ、可哀そう 」
・・・
と、強面・井上が呟いた。
その言葉にホロッときたママさん
両の目が潤んだ。
タイムリーなその言葉は
彼女の心肝に沁みたのである

心の機微
中々、分るものでは無い
ママさんの心懐を慮り
「 可哀そう 」 と、呟いた 強面・井上。
たかが22歳のくせに、大人なのである。
その時、そう想った私である。

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青春のたまり場 「 MA会 ・ 都島アーキテクチャー 」

2021年05月15日 05時14分22秒 | 5 青春のひとこま 1973年~


青春のたまり場

昭和49年 (1974年 ) 12月7日 (土)
 『 莫逆の友 』
京阪 ・牧野に在する、
水阪のアパートに集結す。
高校卒業 ( 昭和48年 ( 1973年 ) 2月27日 ) して以来、
初めて 一堂に会
したのである。


 
平野、呉津、西村、寺内、大土、
水阪、山下、梶、と 私
誰も皆、高校の同窓。 全て1年B組。
而も、
気心の知れた仲間達である。
「 よくぞ、集まった 」
一同盛上り、
「 皆で旅行しよう 」
勢い、それならと
「 МA会 ・都島アーキテクチャー 」
・・・を、発足させ、
そして、
「 定期的に集う 」 ・・・ことを、決めた。
更に、草野球チームも併せて創設すること決めた。
「 君達がいて僕がいた 」
茲に、物語がスタートした。
・・・のである。


後に参加の高田
彼も亦、1年B組

都島アーキテクチャー ( MA )
「 都島工業高校建築科の仲間 」
 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」

かけがえのない時代を ( ・・と き を )
共に過ごした
仲間達

目次
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君達がいて僕がいた 1 「 仲 間 達 」
君達がいて僕がいた 2 「 京橋はええとこ だっせ 」
君達がいて僕がいた 3 「 МA会 野球部 」
君達がいて僕がいた 4 「 北の新地は想い出ばかり 」
君達がいて僕がいた 5 「 スマン スマン 」


MA会 ・都島アーキテクチャー
年度別記録  ( 日記から )
昭和49年 ( 1974年 )
12月07日 (土)    水阪のアパート  MA会発足
昭和50年 ( 1975年 )
01月25日 (土)    第一回 MA会  京橋
02月08日 (土)    MA会
03月15日 (土)    大阪城で野球練習
03月29日 (土)    MA会
04月02日 (水)    ユニホーム注文  寺内、大土、スポーツ イモト ( 本庄川崎町 )
04月11日 (金)    大阪城公園・・球場使用のくじ引き  600円  私、水阪、山下
04月18日 (金)    ユニホーム完成
05月11日 (日)    大阪城球場で初の試合
06月08日 (日)    大阪城で野球練習
06月29日 (日)    大阪城で野球練習  MA会  松阪屋屋上ビヤガーデン  平野、山下、寺内、大土、水阪、下辻
07月06日 (日)    野球の試合 5-0で完投負け
08月14日 (木)    MA会 ・若狭高浜 旅行
08月31日 (日)    大阪城で野球練習  MA会
10月04日 (土)    MA会
11月29日 (土)    MA会忘年会  京橋  吾 初の深夜映画 (池玲子)
昭和51年 ( 1976年 )
03月06日 (土)    京阪モール
03月14日 (日)    大阪城で野球練習  MA会
03月28日 (日)    大阪城で野球練習
04月11日 (日)     MA会

04月25日 (日)    大阪城で野球練習
05月15日 (土)    MA会
08月08日 (日)    MA会

08月13日 (金)    MA会 ・竹野 旅行
  ~15日 (日)
11月06日 (土)    MA会
12月04日 (土)    MA会 ・忘年会 旅行  芦原温泉、 
       05日 (日)   東尋坊 

昭和52年 ( 1977年 )
01月03日 (日)    MA会 新年会  北→南  ( 大土、茶目っ気・・・自動車の蜜柑 取って食べる )
01月30日 (日)    野球試合
02月05日 (土)    MA会  曽根崎通り  峰さん
03月05日 (土)    MA会  スワン
06月04日 (土)    MA会

07月10日 (日)    MA会
08月06日 (土)    MA会
08月13日 (土)    MA会 ・若狭高浜 旅行
        14日 (日)

11月05日 (土)    MA会
11月20日 (土)    水阪、寝屋川の新居引越し手伝い
12月21日 (日)   水阪 ・ 結婚式    私、寺内、西村、高田、+ MA会メンバー ( ・・・記憶しない )
昭和53年 ( 1978年 )  6月8日以降の記録がない
01月15日 (日)    MA会
03月25日 (土)    MA会
昭和54年 (1979年 ) 
月以降の記録がない
03月03日 (土)    MA会
05月26日 (土)    MA会
昭和56年 ( 1981年)  記録がない
01月02日 (金)    MA会 新年会
3月〇〇日   西村の結婚祝賀会 ・・私、大土、 + MA会メンバー
( 人数 ・・記憶しない )
昭和57年 (1982年 )  記録がない
〇〇月  山下の結婚式 ・・私、+ MA会メンバー
( 人数 ・・記憶しない )
昭和58年 ( 1983年 )  MA会の活動無し
04月01日 (金)  大土・・青雲の涯へ  ・・・リンク→青雲の涯 遙かなる想い
       02日 (土) ・・通夜 ・・MA会メンバー 全員
       03日 (日) ・・告別式  ・・MA会メンバー 全員 + 茜
08月21日 (日)  墓参 ・・私、寺内、水阪、梶、山下、平野、+ 吉田?
11月03日 (木)  墓参 ・・私、梶、 + MA会メンバー ( 人数 ・・記憶しない )
昭和59年 (1984年)  記録がない
4月○○日  私の結婚式。 ・・平野、水阪

○○月○○日  寺内の結婚式・・私、+ MA会メンバー ( 人数 ・・記憶しない )
昭和60年 ( 1985年 )  記録がない
○○月○○日  梶の結婚式  ・・私、寺内、西村
( 註 : 記録がない・・・は、日記をつけなくなったことに依る )

定例会/二次会


青春のたまり場  京橋


いくよくるよ       

青春のたまり場  梅田

 梅田花月                           アメリカン                      桂きん枝

MA会の旅行

昭和50年 (1975年 )~52年 ( 1977年 ) の三年間・・・計4回。
①  第一回、夏若狭 ・高浜
車二台に分乗
昭和50年 ( 1975年 )  8月14日 (木)、15日 (金)、16日 (土)
16日綾部から単独帰阪する・・・仕事為

私  平野  大土   寺内  西村  山下 
②  第二回、夏  竹野 -- 城崎温泉
車二台に分乗
昭和51年 ( 1976年 )  8月13日 (金)、14日 (土)、15日 (日)

竹野で
私  大土  寺内  西村  梶  山下兄弟  高田
③  第一回、冬  芦原温泉 -- 東尋坊
電車で
昭和51年 ( 1976年 ) 12月5日 (日)
東尋坊で
私  大土  寺内  西村  梶  高田
第三回、夏  若狭 ・高浜 -- 琵琶湖 -- 雄琴
昭和52年 ( 1977年 ) 8月13日 (土)、14日 (日) 
車二台に分乗
  琵琶湖ショーボート
私  水阪  大土  寺内  西村  梶  山下兄弟


当時苦労して拵えたもの

都島アーキテクチャーズ 
( МA会野球部 )
私、平野、呉津、水阪、山下、大土、西村、寺内、梶の九人。
呉津以外の八人が、МA会創設メンバーである。
呉津はМA会野球部には参加しなかった。
野球をするには最低9人のメンバーが必要。
だから、私が親友・長野を勧誘した。
従って、МA会 + 長野 ・・ 此が、МA会野球部のメンバーである。


青春のたまり場 大阪城
 

昭和50年 ( 1975年)  05月11日 (日) 

 

 
昭和50年 ( 1975年 )  06月08日 (日) 
 2006.05.04
青春のたまり場 
曾て、
吾々が青春したる 地 ( ・・東外堀・・・空堀 )
吾々が 「 青春 」 を、終えるや、
こうして 本来の姿である 「 濠 」 に還った。

『 君達がいて僕がいた 』
楽しき時間も、いつかは終焉の時が来る。
各々が、人生の転機を迎えた、

大學の卒業然り、転勤然り、転職然り。
然し何と言っても、一番大きな要因は、『 妻帯 』 。
斯くして
『 吾人生 』
各々の、プロセスにおいて、
一同が集う時間 (とき) は、その役割を終えた。

想えば・・・
昭和52年 ( 1977年 ) の、水阪の結婚披露宴が最盛だった。
そして
昭和58年 ( 1983年 ) の、大土の死を以て終焉した。
・・・そんな気がする。

『 莫逆の交わり 』
永劫に続けたい ・・・と、そう想った。
然し、今や
彼らは、吾 傍には存ない。


もう一度
あの時代 (とき) と 逢いませんか

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