昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

晒を巻いて

2015年03月25日 15時19分17秒 | 5 右翼青年 1974年~


昭和49年 ( 1974年 ) 5月25日
我が赤崎建築事務所では、
江戸時代豪商の町 ・奈良の今井町見学会を行った。
ある お寺では その住職から、
今井町の歴史、建築物、町並の特色等々について説明を受けた。

此写真は、
その直後撮ったもの。( もちろんのこと、斯様な処で撮ったのは私一人 )
ボタンダウンのカッターシャツの下には晒を巻いている。

究極の行動とは
殉じる こと
憂国とは
同胞の為に殉じる こと 
 ・・・サークル」

19歳の私、
「 死ぬときは割腹して はてたい 」
そんなことを考えていたのである。


筑摩書房  橋川文三 編集 解説
現代日本思想体系 31
超国家主義
行動  遺書と辞世歌  影山庄平 ほか

大東塾の塾生十四人が集団自決を決行したのは、
昭和二十年八月二十五日午前三時頃、
マッカーサー元帥が厚木に着陸する五日前のことであった。
自決は当時の代々木練兵場の通称十九本欅と呼ばれる木立の辺で行われ、
割腹の自刃であった。
十四人のうち介錯者二名も終了直後に自刃した。
・・・
「 道の峻厳なる、随神かんながらの厳粛なる神はかかる陋劣を許し給わず、
最も悲惨の極に至りたる正に神国として当然 」
として、国内革新なき外征がこの挫折をとげたのは当然のこと。
斯の自決は、
神意奉行において至らなかった自らの罪穢けがれをみそぎによって潔め、
神々への復奏かえりごととしてとり行われた。
しかもそれは、それ自体が神道の信仰儀礼として、ごく自然におこなわれた。
こうした信仰上の自決という異常な行動形態は、
おそらくはとおく 神風連の行動を最後として、
その後いわゆる国家主義運動の中にはほとんど見出しえないものであろう。
二 ・二六青年将校の場合には、「 戦闘綱要おける独断専行の論理によって、
天皇の意志を先取するという合理化が認められるが、
大東塾の場合には、その神典 ・古典 ・歌学の研修による影響が大きく、
より正統な信仰的形態に近いという印象である。
・・・解説から
  
・・・リンク→ 昭和20年8月15日・殉国 『 無窮に皇城を守らむ 』 

昭和20年8月25日午前3時頃、
「 清く捧ぐる吾等十四柱の皇魂誓って無窮に皇城を守らむ」
そう遺書して自決した斯の人達。
29年後の
昭和49年 ( 1974年 ) 4月2日、
19歳の私は、斯の人達と出逢い斯の人達を知った。
そして、斯の人達を
 『 
これぞ国士 そして殉国者なり 
と、そう想った。

三島由紀夫の自刃然り  ・・・リンク→憂 国
「 死の叫び声 」 朝日平吾の自刃然り  ・・・リンク→超国家主義
私が素直に斯の人達の思想、行動を受け容れた因は、
私の中に潜在していた日本人として魂が、
斯の人達と同一の魂だったのである。
・・・・と、そう想う。


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