昭和・私の記憶

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最後に守るべきもの 2

2021年02月04日 21時42分44秒 | 10 三島由紀夫 『 男一匹 命をかけて 』

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最後に守るべきもの 1  の 続き


男の原理を守る
石原  しかし文化というのはどこの国でもそういうものでしょう。
三島  ええ、でも、日本じゃそういうことはないはずなんです。 天皇がいるから。
石原  いや、だってそれは違うんじゃないかな。
振れ動くものが戻ってくる座標軸みたいなものでしょう、天皇の三種の神器というのは。
だけど、ぼくはやはりそれは違うと思うんだな。
つまり天皇だって、三種の神器だって、他与的なもので、
日本の伝統をつくった精神的なものを含めての風土というものは、
台風が非常に発生しやすくて、太平洋のなかで、日本列島だけが非常に男性的な気象を持っていて、
こんなふうに山があり、河があるということじゃないですか。
ぼくはそれしかないと思うな。
そこに人間がいるということだ。
三島  君は風土性しか信じないんだね。
石原  結局そういうところへ戻ってきちゃうんですよ。 それしかない。
三島  戻ってきても、風土性からは文化というのが直接あらわれるわけじゃないよ。
石原  もちろんそうですよ。
天皇とか、三種の神器を座標軸に持ってくるのは簡単だけれども、それだってやはり日本の風土とか、
伝統をつくった素地というものが与えた伝統的の一つでしかなく、一番本質的なものではないんだな。
ただ一つの表象です。
三島  いや、伝統が一つしかないと言うけれど、伝統的にはいろんな多様性があるでしょう。
その多様性がある伝統の九割ぐらいまでは、共産主義だろうが何だろうがほうっておいたっていいんだよ。
僕が伝統主義者であれ何であれば何も闘う必要はない。
これからの世界は、かつてのソビエトみたいな共産主義では長続きしません。
ある程度、伝統文化も包含するでしょう。 たとえば、ぼくがあなたのように単なる伝統保存主義者であり・・・・・
石原  いや、ぼくはそうは言わない。 伝統は別に総て保有しなくてもいい。
いろいろ形で我々が伝統から逃れられないとも思わない。
三島  伝統の多様性というものを守るためには闘う必要はないんだ。
伝統なんかたった一つだけ守ればいいんだ。 絶対守らなきゃああぶないものを守ればいいんだ。
守らなきゃあたいへんなものを。 そうすればほかのものは、たいていだいじょうぶですよ。
石原  そうかなあ。 結局そういうものがあるから、歴史というものはいつも右、左に振れる。
座標軸ははずしたっていいんじゃないんですか。 はずしたほうがかえっていいんじゃないかな。
三島  いやいや、ぼくは君みたいなそんな共和論者じゃない。
石原  そうすると、とらえどころがなくなるというのですか。 しかし風土はあるよ。
三島  文化の統一性と、文化というものの持っているアイデンティテーというものを、全然没却しちゃう、そういうことをしたら。
石原  ああ、そうか。 三島さん、かつての文化論は取り消したんだな。
三島  そうそう (笑い)。 だってアイデンティティーというのは、最終的にアイデンティティーを一つ持っていればいいんだ。
言わば指紋だよ。 君とおれとは別の指紋を持っている。 ナショナリズムでも何でもない。 指紋が違う。
それで文化を守るということは、最終的にアイデンティティーを守ることなんだ。
それ以上のもの、文化全体というか、ほかの守らないでいいものは一ぱいありますよ。
石原  自分をアイデンティファイする対象というのは、
実は自分が意識でとらえ切れなくなっている本質的な自己であって、ぼくはそれしかないと思いますね。
三島  それに名前をつければいい。 その本質的な自己というのは・・・・・・
石原  だからそれは三種の神器じゃないんだ。 もっと、何と言うか、日本列島の気象でもいい。
もっと始原的な存在の形じゃないですか。
三島  つまり全然形のない文化を信じるとすれば、目に見える文化は全部滅ぼしちゃったっていいんですよ、そんなものは。
それからあなたの作品も、ぼくの作品も地上から消え失せて、京都のお寺から何からみんな要らないんですよ。
そしてただ形のないものだけ守っていればいいんですよ。
それは本土決戦の思想なんだよね、そこまで行っちゃえば。 つまり焦土戦術だね。
軍が考えたことはそういうことだったと思うんだ。
つまり国民の魂というものは目に見えないものでいいんだ。
信州に皇室の御行在所 (ゴアンザイショ) とか、いろいろつくっただろうけれど、
これは形だけのことで、軍の当局者にとっては、彼らは焦土戦術をやるつもりだった。
日本は全部滅びても、日本は残るだろう、と
石原さんの考えというのは、最終的に目に見えないものを信ずることによって人間が闘えば、
結局あらゆるものを譲り渡して闘わなければならない、
何かのアイデンティティー、目に見えるものというものを持っていなきゃ、形というものは成立しない。
形が成立しなきゃ、文化というものは成立しない。 文化というのは形だからね。
形というものが文化の本質で、その形にあらわれたものを、そしてそれが最終的なもので、
これを守らなければもうだめだというもの、それだけを考えていればいいと思う。
ほかのことは何も考える必要はないという考えなんだ。
石原  やはり三島さんのなかに三島さん以外の人がいるんですね。
三島  そうです、もちろんですよ。
石原  ぼくにはそれがいけないんだ。
三島  あなたのほうが自我意識が強いんですよ (笑い)
石原  そりゃア、もちろんそうです。 ぼくはぼくしかないんだもの。 ぼくはやはり守るものはぼくしかないと思う。
三島  身を守るということは卑しい思想だよ。
石原  守るのじゃない、示すのだ。 かけがえない自分を時のすべてに対立させて。
三島  絶対、自己放棄に達しない思想というものは卑しい思想だ。
石原  身を守るということが ? ・・・・・。 ぼくは違うと思う。
三島  そういうの、ぼくは非常にきらいなんだ。
石原  自分の存在ほど高貴なものはないじゃないですか。 かけがえのない価値だって自分しかない。
三島  そんなことはない。
石原  風土も伝統もけっこうだけど、それを受け継ぐ者がいる。
それがなけりゃ、そんなものあったって仕方がない。
ぼくがとても好きなマルロオの言葉に 「 死などない、おれだけ死んでいく 」、
ぼくの存在がなくなったときに何ものもが終焉していい。
自分の書いてきたものもその時点でなくたっていい。
結局、自分が示して守るものというのは、
自分の全存在つまり時間的な存在、精神的な存在、空間的な存在、生理的な存在、それしかない。
それを守るということは、それを発揚するということです。
三島  だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、
自分が一番大事にしているものを投げ捨てるということでなきゃ、決死の行動はできないよ。
君の行動原理からは決して行動は出てこないよ。
石原  そんなことはない。 守るというのは 「 在らしめる 」 ということ。
そのためには自ら死ぬ場合だってある。
三島  それじゃ現実に・・・・
石原  献身、奉仕だってある。 自分に対する献身もあるでしょう。
三島  それは自己矛盾じゃアないか。
自分に対する奉仕のために自己放棄するなんてばかなやつは世のなかで聞いたことがない。
石原  いや、そうですよ。 はっきりありますよ。 他者というのはぼくの内にしかないんだもの。
三島  君の自己放棄というのは自分のために自己放棄して・・・・・・
石原  ぼくのなかにある他者というもの・・・・・・
たとえばこの間もテレビへ出て、何のために政治をやりましたか、
ぼくのためにやりましたっていったら、すぐ主婦が、「 エゴイズムですか 」
「 そのとおりエゴイズムです 」 って言ったら、「 私はあの人に一票を投じて惜しかった 」
と朝日新聞に投書をして、朝日新聞がまたそれを得々として載せた。
どうせわからんだろうと思ったけど、あえて言ったんだ。
何もぼくは自分の政治参加を雄々しい (オオシイ) なんて思っていませんよ。
しかしそこにある一つの犠牲みたいなものがあっても、それはぼくのうちに在るもの、
つまり友人があったり、家族があったり、民族があったり、国家があるわけでしょう。
そのためにしたんだ。
しかしそんなものはぼくの存在が終わったら全部なくなっちゃうね。
しかしそれが伝統になるんだ。
三島  それじゃ君、同じことを言っているんじゃないか。
つまり君の内部にそういう他者を信じるか、外部に他者を信じるかの差に過ぎないでしょう。
石原  ぼくは内部にしか信じない。
三島  他者というものは内部にいるか、外部にいるか、どっちかだって君は言うわけでしょう。
君は内部に他者を置いて、その他者にディボーションするんでしょう。
そういうものは君のなかにある他者なんで、だれが一体そんなものを信じるんだ。
石原  それは信じらんでしょうね、僕以外。 大体ぼくは人間が他人を信じるなんて信じられないな。
三島  君は絶対、単独行動以外できないでしょう。
石原  そう思います。だから派閥をつくれって言われても人間を信じては派閥なんかつくれない。
三島  絶対の単独行動でどうして政治をやるんですか。
石原  だからそこはとても自己矛盾でね。
しかし、やはりそこで我を折り、複数の行動をすることも自己犠牲の奉仕でしょう。
しかし数というのは、外づらの問題だ。
三島  もうすでに君は何かの形でディボーションやっているんだ。
意識しないディボーションをやっているんだ。
石原  そりゃ意識していますよ。
三島  あまり意識家でもないけどな。
石原  それは江藤淳が言うことだ (笑い)  ぼくはこのごろ三島さんなんかより意識家になった。
三島  だんだん逆になって来たな。しかしぼくはやはりサクリファイスということを考えるね。
一番自分が大事に思っているものは大事じゃないんだ、と。
石原  じゃ同じことを言っているわけです。ぼくだってやはり自分をサクリファイスしていると思うんだ。
ぼくが思わなくても他人がそう思うでしょう。
三島  少なくとも君が政治をやるというのもサクリファイスだよ。
石原  そりゃそうだな。 自分で言うことじゃないけれど。
三島  文学というものは絶対的に卑怯なもので、
文学だけやっていればセルフ・サクリファイスというものはないんですよ。
人をサクリファイスすることはできても。
石原  ぼくもそう思う。 ぼくも三島さんが言ったと同じことを、あるところに書いた。
男とは何か。 ぼくはやはり自己犠牲だと思う。そこにしか美しさはないんじゃないか。
だから小説家というのは全然雄々しくないって。
三島  そのとおりだな。 小説家で雄々しかったらウソですよ。
小説家というのは一番女々しいんだ。
生き延びて、生き延びて、どんな恥をさらしても生き延びる のが小説家ですね。
文学というのは絶対雄々しくない。
文学だけで雄々しいポーズをしてみてもしようがないんだ。
ウソをつかなきゃならない。
石原  いま三島由紀夫における大きな分岐点は、非常に先天的と思ったもの、
肉体というものが後天的に開発できるということを悟ってしまったことだな。

三島  そうなんだ。 それはたいへんな発見だ。
石原  三島さんはやっと男としての自覚を持ったと思うんだ。
それは、三島由紀夫が三島由紀夫になるよりあとに持ったんだな。
それで非常に大きな変化が三島さんにきて・・・・・・
三島  困っちゃったんだ (笑い)
石原  さっきも居合抜きを見せてくれたけど、(笑い)
筋肉がくっついて三島さん、ほんとに困ったと思う ?
三島  困っちゃったんだよ。
石原  いまさら女々しくな れないでしょう。
三島  いまさらなれない。
そうかといって文学は毎日毎日おれに取りついて女々しさを要求しているわけだ。
それでしようがない、おれの結論としては、文学が要求する女々しさは取っておいて、
そのほか自分が逃げたくても逃げられないところの緊張を生活の糧にしていくよりほかなくなっちゃったね。
もし運動家になり、政治運動だけの人間になれば、解決は一応つくんだけれども。
石原  「 楯の会 」では、まだクーデターはできない。 そこに悩みがある。
三島  しかしまだ自民党代議士、石原慎太郎も大したことはないし、
まだまだおれも先があると思っている (笑い)
石原  いまの反論はちょっと弱々しかった (笑い)  しかしほんとにぼくは思うな。
三島さんのテンパラメントというのは、最初から肉体を持っていたら・・・・・・(笑い)
三島  別のほうに行ってたんだよ。
石原  行っていたね。
三島  だけど、いまさらどっちもね。 こまっちゃったんだ。
石原  そして自分で効率よく自分を文豪に仕立てた責任もあるしね。
ああいう政治能力をほかに発揮したらどうですか。
三島  また・・・・・・。おれがいつ政治をつかいましたか (笑い)
石原  しかし、その筋肉の行き場所がないというのは困りますね。
三島  困りますね、ほんとに。 小説を書くのにこんなもの全然要らないんですからね。
困っちゃうね (笑い)
石原  だけど三島さん、個人の暴力の尊厳というものをいまの学生というのは知らないですね。
三島  そうだね。 ほんとに集団にならなきゃ何もできない。 個人は弱者だと思っている。
石原  彼らによって守らなくちゃならないものに個人がないんだ。
ぼくはときどき言うんだけれども、行すがるときにいきなりつばをはきかけられて、
とがめて顔をふいてもらってもどうにもならんでしょう。
やはりなぐるか、切るかしなければいけない。
そういう行動に出ると、暴力はやめて下さいということになる。
しかしその場合に暴力でなかったら守れないものがある。
三島  そりゃそうですよ。 そのときはやる。
石原  現代社会には名誉というものがないと思うな。
三島  それを守らなくちゃ名誉はないわけだが、しかしそれは自分を守るということと別じゃないかな。
つまり男を守るんだろう。
石原  結局、自分を守ることじゃないですか。
三島  それは、ある原理を守ることだろう。
石原  男の原理。 現代では通用しなくなった男の原理。
三島  男というのは動物ではない、原理ですよ。
普通男というと動物だと思っているんだ。 女から言うと、男ってペニスですからね。
あの人、大きいとか、小さいとか、それは女から見た男で、女から見た男を、
いまの世間は大体男だと思っているんだろうがね。
ところが、男というのはまったく原理で、女は原理じゃない、女は存在だからね。
男はしょっちゅう原理を守らなくちゃならないでしょう。
その原理というものは、石原さんが言うように自分だとぼくは思わないですよ。
自分ならそんな辛い思いをして原理を守る必要はない。
自分を大事にするんだったら、つばをはきかけられても、
なるだけけんかなんかしないでそっとしておいて、かかわりあいにならないで、
そばで人が殺されそうになっても、警察に調書を取られるのはたいへんだから、
そっと見ないで帰りましょうというほうが、よほど生きるのは楽ですよ。
だけどそこで原理を守らなければならないのが男でしょう。
石原  しかし原理はだれのなかにあるんですか。
やはり自分のなかにしかないでしょう。 実は自分に方が先にあるんです。
三島  自分のなかにしかないけれども、男という原理は内発的なものでもあると同時に、
最終的には他人が見ていてみっともないからですよ。
石原  そうかな。 ぼくは人がいないところでもなぐるな。 三島さんだってそうだと思う。
人がいないときに何かやられたら、やはり刀を抜くでしょう。
三島  そりゃそうだ。
石原  この前の対談で雑誌社の人間がいなかったら、いいだもも を切ればよかった (笑い)
三島  刀のけがれになるよ、あんなの切ったら・・・・・・。これちゃんと速記しておいて下さいね (笑い)
石原  これ遠吠え、遠吠え。
三島  あの人は口から先に生れたんだ。
石原  全く口から先に生れた (笑い)
三島  どうにもならんですよ。 生れてオギャーという前に共産党宣言か何か叫んだんじゃないかね。
ところで、われわれは左翼に対してごちそうを出し過ぎていますよ。
みんな食べられてしまう。
われわれが一所懸命つくった料理を出すと、みんな食べられちゃうんです。
カラスが窓からはいってきてみんな食っちゃう。
左翼に食べられちゃったものは、
第一がナショナリズム、第二が反資本主義、第三が反体制的行動だと思うんだ。
この三つを取られてしまうと困っちゃうんだ。
四つ目のごちそうはまだとられていない。 天皇制ですね、ここにおいてどうするんです。
石原  それはたいへんな深謀遠慮ですな (笑い)
三島  なぜ ?  ここにおいてどうするんですか。
石原  そりゃラオスにもシヤヌークやプーマ殿下なんているからね。
三島  いるけれども、日本はラオスまではいかんと思うんだ。ぼくはそういう考えですよ。
ですからこのギリギリの一戦、これは丸薬なんです。 苦い薬なんです。
だからみんななかなか飲みたがらない。
石原さんなんかさっきから飲みたがらないでじたばたしているでしょう。
石原  いや、そんなことはない。
三島  これを飲むか飲まないかという問題で闘うんじゃないです。
ごちそうはみんな食われちゃった。 甘い味がつけてありますからね。
石原  それはちょっと違うな。 それほどごちそうじゃないな。
三島  ほかのものだよ。 ほかの三つのものはごちそうだ。
それで最後に丸薬だけ取ってあるんだ。 これは天皇だ。
この丸薬はカラスは食わないですよ。 食えと言ったって食わないんだ。
なぜかと言うとカラスは利口だからね。 この丸薬を食ったら、カラスがハトになるかもしれない。
たいへんなことになる。 カラスがカラスでありたいためには、それを食わんでしょう。
だからぼくは丸薬をじっと持っているんです。
もう、どう言われてもこの丸薬を持っている。
これは味方うちも、敵も、なかなか飲みたがらない丸薬です。
どうでも、どうでも・・・・・・。
石原  三島さんのように天皇を座標軸として持っている日本人というのは、
とても少なくなってきちゃったんじゃないかしら。
三島  君、そう思っているだろう。
だけどこれから近代化がどんどん進んでポスト・イシダストリアゼーションの時代がくると、
最終的にはそこへ戻ってくるよ。
石原  戻るのはいいけれど、天皇をだれにしようかということになるんじゃないかな。
三島  いやいや、そんなことはない。 明治維新にはそんなことを考えたんだ。
たとえば伊藤博文も外国へ行く船のなかで、共和制にしようかって本気に考えたんだ。
ところが日本に帰ってきてまた考えなおしたんだね。
竹内好なんかは君と違って、もっとずっと先を見ているよ。
コンピューター時代の天皇制というのはあるだろう、それがおそろしいっていう。
ポスト ・インダストリアゼーションのときに、日本というものも本性を露呈するんじゃなかろうか。
いまは全く西洋と同じで均一化していますね。
だけどこいつを十分取り入れ、取り入れ、ぎりぎりまで取り入れていった先に、
日本に何が残っているというと天皇が出てくる。 それを竹内好は非常におそれているんですよ。
非常に洞察力があると思いますね。
石原  それはそうじゃアないな。 竹内好のなかに前世代的心情と風土があるだけです。
三島  その風土が天皇なんだよ。
石原  そうじゃない。 それはただ時代とともに、それが変っているんだな。
三島  ぼくは変ってきているとは思わない。 ぼくは日本人ってそんなに変わるとは思わない。
石原  ぼくのいうのは、つまり天皇は自分の風土が与えた他与的なものでしかないということで、
風土は変らんですよ。 われわれの本質的な伝統というものは変らないけど、
天皇というものは伝統の本質じゃないもの 形でしょう。
三島  だけど君、どうしてないなんていうの。 歴史、研究したか。 神話を研究したか。(憤然と怒る)
石原  しかし歴史というものの骨格が変ってきているじゃないですか。
日本の歴史の特異点は、日本にとって、いつも海を隔てた大陸から来るメッセージというものがある。
しかしそれは必ずしも系統だってない。
たとえば仏教。それを濾過することで日本文化はできてきたんでしょう。
政治の形は、そんな文化造形の前からあったが、しかしその規制は受けた。
天皇制が文化のすべてを規制したことは絶対にない。
いずれにしても日本の伝統の本質的条件がつくったものの一つでしかないと思うな、天皇は。
三島  それはもう見解の相違で、どうしようもないな。
つまりぼくは文化というものの中心が天皇というもので、天皇というのは文化をサポートして、
あるいは文化の一つの体現だったというふうに考えるんだから。
石原  文化というのは中心があるんですか。
三島  必ずあるんだ。 君、リシュリーの時代、見てごらん。
石原  いや、中心はあるけど、その中心というのはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりするんだなあ。
三島  それじゃリシュリーの時代の古典文化、ルイ王朝の古典文化というものは秩序ですよね。
そして言語表現というのは秩序ですよ。
その秩序が、言語表現の最終的な基本が、日本では宮廷だったんです。
石原  だけど、その秩序は変ったんじゃないですか。
三島  いくら変ってもその言語表現の最終的な保証はそこにしかないんですよ。
どんなに変っても・・・・・・
石原  そこにしかないってどこですか。
三島  皇室にしかないんですよ。
ぼくは日本の文化というものの一番の古典主義の絶頂は 「 古今和歌集 」 だという考えだ。
これは普通の学者の通説と違うんだけどね。
ことばが完全に秩序立てられて、文化のエッセンスがあそこにあるという考えなんです。
あそこに日本語のエッセンスが全部できているんです。
そこから日本語というのは何百年、何千年たっても一歩も出ようとしないでしょう。
一つも出てないですね。
あとのどんな俗語を使おうが、現代語を使おうが、あれがことばの古典的な規範なんですよ。

天皇制への反逆
石原  三島さん、変な質問をしますけど、日本では共和制はあり得ないですか。
三島  あり得ないって、そうさせてはいけないでしょう。
あなたが共和制を主張したら、おれはあなたを殺す。
石原  いや、そんなことを言わずに (笑い)  もうちょっと歩み寄って、その丸薬、ぼくは飲めない。
三島

きょうは幸い、刀を持っている。
(居合い抜きの稽古の帰りで、三島氏は真剣を持参していた)
石原  はぐらかさないで、つまり、日本にたとえば共和制がありえたとしたら、
日本の風土とか、伝統というのはなくなりますか。
三島  なくならないと言ったでしょう。
伝統は共産主義になってもなくならないと言ったじゃないですか。
石原  それをつくったもっと基本的な条件はなくなりませんか。
三島  なくなります。
石原  ぼくはそうは思わない。
三島  絶対なくなる。
石原  それはもっと土俗的なもので、
土俗的ということもちょっと夾雑物が多過ぎるけれど、本質的なものはなくならないと思いますね。
ぼくは何も共和制を一度だって考えたことはないですよ。
三島  そりゃまあ命が惜しいだろうからそう言うだろうけど。
石原  ぼくだって飛び道具を持っているからな。
三島  そこに持っていないだろう。
石原  あなたみたいにナイフなんか持ち歩かない。
三島  だけど文化は、代替可能なものを基礎にした文化というのは、
西洋だよ、あるいわ中国だよ。
日本はもう文化が代替可能でないということが日本文化の本質だ、
というふうにぼくは既定するんだ。
だから共和制になったら、代替というものがポンと出てくる。
代でかわることだよ。
共和制になったら日本の文化はない。
石原  つまりシステムというのはほんとに仮象でしかないね。
三島  仮象でいいじゃないか。
だって君、政治が第一、みんな仮象であるということもよくわかっているんだろ。
石原  よくわかっていますよ。 だけどやはりそのなかにはぼくがいるんだもの。
これは、ぼくは実像ですよ。
三島  もう半分仮象になりかかっているじゃないか。
石原  そんなことないよ (笑い)  そういう言いがかりはけしからんな (笑い)
三島  いまのは訂正しましょう。
しかしぼくも依怙地ですからね、言い出したらきかないです。
いつまでもがんばるつもりです。
石原  何をがんばるんですか。 三種の神器ですか。
三島  ええ、三種の神器です。
ぼくは天皇というものをパーソナルにつくっちゃたことが一番いけないと思うんです。
戦後の人間天皇制が一番いかんと思うのは、
みんなが天皇をパーソナルな存在にしちゃったからです。
石原  そうです。
昔みたいにちっとも神秘的じないもの。
三島  天皇というのはパーソナルじゃないんですよ。
それを何か間違えて、いまの天皇はりっぱな方だから、おかげでもって終戦ができたんだ、
と、そういうふうにして人間天皇を形成してきた。
そしてヴァイニングなんてあやしげなアメリカの欲求不満女を連れてきて、
あとやったことは毎週の週刊誌を見ては、宮内庁あたりが、
まあ、今週も美智子様出ておられる、
と喜んでいるような天皇制にしちったでしょう。
これは天皇をパーソナルにするということの、天皇制に対する反逆ですよ。
逆臣だと思う。
石原  ぼくもまったくそう思う。
三島  それで天皇制の本質というものが誤られてしまった。
だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制反対論者をつくっちゃった。
石原  ぼくは反対じゃない、幻滅したの。
三島  幻滅論者というのは、つまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ。
石原  でもぼくは天皇を最後に守るべきものと思ってないんでね。
三島  思ってなきゃしようがない。 いまに目がさめるだろう(笑い)
石原  いやいや。 やはり真剣対飛び道具になるんじゃないかしら (笑い)
しかしぼくは少なくとも和室のなかだったら、僕は鉄扇で、三島さんの居合いを防ぐ自信を持ったな。
三島  やりましょう、和室でね。
でも、とおれと二人死んだら、さぞ世間はせいせいするだろう (笑い)
喜ぶ人が一ぱいいる。 早く死んじゃったほうがいい。
石原  考えただけでも死ねないね。

『 尚武のこころ 』
三島由紀夫対談集  「 守るべきものの価値 」
われわれは何を選択するか
石原慎太郎 (作家・参議院議員) 月刊ペン 昭和44年11月号

昭和49年 (1974年 ) 8月8日
二十歳の私が購読したものである


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