昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

石川啄木・「 文学少女にはなれなかった 」 の、後書

2022年06月29日 05時38分01秒 | 3 青い鳥 1967年~

世の中には途方も無い仁もあるものぢゃ、歌集の序を書けとある
人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢゃ
ああでも無い、かうでも無い、・・・・
「 一握の砂・悲しき玩具 」 石川啄木歌集・・金田一京助編
新潮文庫 ( 昭和四十三年三月十日 二十八刷改版 )  
の、序文である。

「アハハハハハッ」
ともがき・舟木 が、笑い出した
「どうした、何がおかしいんヤ?」
「さっきから、そこばっかり、何遍も呼んでいる」
「途方もない仁もあるものぢゃ・・と」
「あるものじゃ・・何遍も呼んで、覚えるんや」
彼は、昔の言葉遣いが面白かったようだ
「・・ああでも無い、かうでも無い・・」
と、いった具合に私がそのまま読み上げていたからだ。
・・・リンク→文学少女にはなれなかった

一握の砂 ・ 悲しき玩具
石川啄木歌集
金田一京助編
新潮文庫・・・新潮社
昭和44年 ( 1969年 ) 購入

読書とは
読書感想は、あくまで一個のオリジナルな想いであって
普遍の想いなぞ、あり得ない
敢えて言う
著者が何を言いたいかを読むのではなく
読みし者が、著書を通して如何に己が想いを読み取るかである
読書とは、斯の如きもの
それでいい・・と
私は、そう想う

昭和44年 ( 1969年 ) 中学三年生であった私が、
国語の授業で関心をもった 『 石川啄木 』  その短歌中に、殊に感銘したるは
たはむれに  母を背負ひて  そのあまり かろきになけて  三歩あゆまず
東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて  蟹とたはむる
ふるさとの 山に向ひて  言ふことなし  ふるさとの山は ありがたきかな

・・・然し、而今
これらの歌に、己が想いは無い。
己が想いを読み取ることができないのである。

当時感銘したものを記したもの。
下記に、それを集めた。
( 千代子とあるは、7歳下の妹が中学生の頃に同じく記したもの )


一握の砂

我を愛する歌
東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

砂山の砂に腹這ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出づる日

たはむれに母を背負ひて
そのあまり軽ろきに泣きて
三歩あゆまず

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて死なむと思ふ

怒る時
かならずひとつの鉢を割り
九百九十九割りて死なまし

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢつと手を見る

やはらかに柳あをめる
北上の岸辺目に見ゆ
泣けとごとくに

忘れがたき人人

よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出でなむ

悲しき玩具
人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見てゐる心。

待てど、待てど、
来る筈の人の来ぬ日なりき、
机の位置を此処に変へしは。

庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる

拾遺

浪淘沙
我れ父の怒りをうけて声高く父を罵り泣ける日思ふ
母われをうたず罪なき球をうちて懲せし日もありしかな
あたたかき飯を子に盛り古飯をかけ給ふ母の白髪

とは雖も、
そんな私でも、真面目に読んだのである。
15歳だった私は、
己が心懐にある 想いを、啄木の歌の中から見つけようとしていたのである。
然し、その想いが何かは 判らない。

死ぬまでに 一度会はむと
言ひやらば
君もかすかに うなづくらむか


時として
君を思へば
安かりし 心にはかに騒ぐかなしさ

わかれ来て 年を重ねて
年ごとに 恋しくなれる
君にしあるかな

長き文                                      ながきふみ
三年のうちに三度来ぬ                みとせのうちにみたびきぬ
我の書きしは四度にかあらむ        われのかきしはよたびにかあらむ

50年以上も経った私が 、もう一度読み返してみて、
新に感銘を受けたものである。
己が心は何を求めん。


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