昭和・私の記憶

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最後に守るべきもの 1

2021年02月05日 05時30分46秒 | 10 三島由紀夫 『 男一匹 命をかけて 』

『 尚武のこころ 』
三島由紀夫対談集  「 守るべきものの価値 」
われわれは何を選択するか
石原慎太郎 (作家・参議院議員) 月刊ペン 昭和44年11月号

昭和49年 (1974年 ) 8月8日
二十歳の私が購読したものである

三島  石原さん、
今日は 「 守るべきものの価値 」 に就いて話をするわけだけど、
あなたは何を守ってる ?

石原  戦後の日本の政治形態があいまいだから、守るに値するものが見失われてきているけど、
ぼくはやはり自分で守るべきものは、あるいは社会が守らなければならないのは、自由だと思いますね。
自由は、なにも民主主義によって保証されているものではないんで、
ある場合には、全然違った政治形態によって保証されるものかもしれない。
しかし、われわれはどんな形の下であろうと、自由というものを守ればいい。
僕のいう自由というのは、戦後日本人が膾炙 (カイシャ) してしまった浮薄な自由と違って、
もっと本質的なものです。
三島  でも自由にもいろんな自由があるからね。
どの自由を守るか、たとえば三派全学連はやはり彼らも自由を求めていて、
彼らが最終的にほんとの自由な政治形態、自由な社会をつくるんだと主張しているわけだよ。
自由は人によってずいぶん違うから、そこが問題じゃないですかね。
もし、あなたが自由と言えば、それはやはり米帝国主義か、日本独占資本主義か、
自民党政権下の自由であるというふうにやつらは既定するだろう。
その自由を、つまり やつらと どう違うんだということを説明しないと、自由というのはわからないんじゃないかな。
石原  僕の言う自由はもっと存在論的なもので、つまり全共闘なり、自民党なり、
アメリカンデモクラシーが言っているもののもっと以前のもので、その人間の存在というもの、
あるいはその人間があるということの意味を個性的に表現しうるということです。
つまり僕が本当に僕として生きていく自由。
三島  言論の自由ということですか。 言論、表現の自由。
石原  もちろん言論、表現の自由をも含めてです。
根本は、自分自身の表現そういう自由を許容し得る社会というのは、相対的にながめれば、
やはりコミュニズムよりも、民主主義という政治形態のなかのほうがありうるとぼくは思います。
それすらも非常に制約があるということで、一部の学生たちは既成のエスタブリッシュメントを見て
こわそうとしているわけでしょうけどね。
彼らが非常に生理感覚が鋭敏で、この時代のうそ、
ぬるま湯みたいな民主主義のうそを拒否していることは共鳴できる。
ただ、日本の学生運動を評価できないのは、そのほとんどが容共というか、
歴史的に、社会科学的に、自由への制約が根強い方向を自ら目指している。
共産主義の方法論で自由を求めようとするところが、陳腐で、
保守的というより、退嬰的(タイエイテキ)だと思うんですよ。
だから、ぼくは日本の学生運動というのを認めないんだ。
三島 
ただ自由の観念が
、たとえばアメリカというのはベトナム戦争中におけるアメリカを評価すれば、
あの長い戦争の経過で言論統制をしなかったこと。
反戦運動は起るわ、反体制的な新聞は出るわ、あらゆることをやってきて、
戦争をやってきてまだやっているんだけれども、言論統制をやっていないことはえらいと思うんです。
あれをやったらアメリカはもう意味がないですね。
チェコも結局、言論の自由の問題です。
それでは言論の自由を守るのには代議制民主主義という政治形態が一番いい、と
するとわれわれは言論の自由を守るために闘うのであって、
ソビエト、ないし中共、ないしその他の共産主義社会では自由はまもれないから、
これに対して闘うという論理だね。
もう一つ新しい政治形態ができて、いまのような死んだ自由ではなくて、
もっと積極的な自由を君らに与えるような政治形態ができれば、
何もそんなにむきになって共産主義に対抗して、民主主義を守らなくてもいいじゃないか、
というのは直接民主主義という考え方なんですね。
直接民主主義という考え方はぼくにもよくわかりませんけれども、
個人個人の自由と、国家意思というものとは一致するということを考えているんでしょうね。
ぼくも言論の自由を守るために、たとえたいした政治形態ではなくても、
言論の自由を保証する政治形態を守るということには全面的に賛成ですがね。
しかしそれと、国民の血というか、文化伝統というか、そういうわれわれの根(ルート) 
と 言論の自由がどういう関係があると思う?

自由自体が国民の根であると思うかね。
先験的な自由というものがあって、それはわれわれの国民精神と完全に融合すると思いますか。
石原  ぼくは三島さんより伝統からは自由ですからね。
伝統を絶対化したら、何も出来ない。 進歩もない。
三島  自由だと思っているだけで、君は意識的に自由だと思っているだけで、
決して自由じゃないです。
日本語を使っているんだから。
石原  そりゃそうですよ。たしかに存在というのは、先天的な根を持たなくちゃいけないという。
ぼくの言うのは、存在にはいろんな場合がある、心情的な存在も、精神的な存在もあるでしょうけれども、
特に心情、情念という形は、われわれが根から吸ったフルーツ、つまり伝統という風土を持たざるをえない。
しかしそういったものからのがれようとすることだって自由の問題になってくるでしょう。
しかしそういう根を持つということは不自由なのではない。
つまり自由、不自由以前の問題なんで。
三島  そうすると、つまり根というものは先天的に与えられたものだ、自由は選択だしいう考えだね。
石原  そうです。
三島  ぼくはそこに昔から疑問を感じているんだ。 つまりあなたが自由を撰んだんだ。
人間は自分が選んだバリューを最終的に守ることができることにぼくは疑問なんだ。
石原  選択というより、自由というのはさがすことだ。
三島  人間がさがして最後に到達するものは根だよ。 そうだろ。
石原  いろんな意味での存在の根に対する回帰でしょうね。
しかし、そのためさまざまな回路にも大きな意味がある。
三島  回帰だろう。
回帰のなかには自由という問題をこえたものがあるはずだ。
ぼくは簡単に言うと、こういうことだと思うんだ。
つまりわれわれは何かによって規定されているでしょう。
これは運命ですね。 日本に生れちゃった。
あるいは石原さんのようにブルジョアの家庭に生れちゃった。
石原  ぼく ? とんでもない。
あなたと違って私はたたき上げですからね (笑い)
三島  自由を守るというのはあくまで二次的問題であって、これは人間の本質適問題ではない。
自由を守る、ある政治体制を守るということは、人間にとって本質的問題でも何でもない。
ぼくは、おまえ民主主義を守るために死ぬか、と言われたら、絶対死ぬのはいやですよ。
国会議事堂を守るために死ぬのもいやだし、自民党を守るために死ぬのもますますいやですね。
われわれはある政治体制を守るために死ぬんじゃない。
じゃ何を守るために死ぬのか。
バリューというものを追い詰めていけば、そのために死ねるものというのが、
守るべき最終的な価値になるわけだ。
それはこの自由の選択のなかにないとぼくは思うんだね。
自由の選択自体のなかにはない。
もっと規定しているもののなかにそれがあるんだ。
石原  何のために死ねるかといえば、それは結局自分のためです。
その自分の内に何をみるかということでしょ。
三島さんがいう自由というのは、ぼくの言った自由とは違うところにそれてしまっていると思うな。
ことばのあやみたいだけれども、規定するものとは、不自由ということですか。
三島  ニーチェの 「アモール・ファティ」 じゃないけれども、自分の宿命を認めることが、
人間にとって、それしか自由の道はないというのがぼくの考えだ。
石原  ギリシャの悲劇は宿命というものからのがれようとしている、それに対して闘おうとするあれは何ですか。
三島  ヒュプリスというんだ、ごうまんというんだ。 神が必ずそれを罰するのが悲劇なんだ。
石原  そうですよ。 しかしそこにやはり高貴な自由があるでしょう。
だから神はその英雄を罰し、その後に神にする。
三島  その自由のギリシャのヒュプリスの伝統がキリスト教になり、あるいは三派、全学連になっているんだ。
結局、最後には、人間というものは人間をはみ出して、何かそれ以上のものになろうという、
その意志のなかに何か不遜なものがあるんだ。
それがずうっと尾を引いて直接民主主義までいってしまっているんだ。
それは滅ぼさなくちゃいけない。
石原  それはおそろしい発言だと思うな。 神ならそういえるけど。
それに人間を超えようとすることこそが、人間的でしょう。
ぼくはやはりそういう意味では三島さんより自由というものを広義で考えている。
だってそうじゃないですか。
自分の宿命というものに反逆しようとすることだって、それは先天、後天の対立かもしれないけれども、
しかし宿命というものを忌避しようとすることは、人間にとって自由です。
そこに、神のでない人間の意志がある。
三島  しかし宿命を忌避する人間は、またその忌避すること自体が運命だろう。
そういう人間はそういうふうに生れついちゃったんだ、反逆者として。
石原  しかしそれはその人間の一つの存在の表現であって、
ぼくはやはり人間の尊厳というのはそこにしかないと思うな。
三島  君はずいぶん西洋的だなあ (笑い)
ぼくはそういう点では、つまり守るべき価値ということを考えときには、全部消去法で考えてしまうんだ。
つまりこれを守ることが本質的であるか、じゃここまで守るか、ここまで守るかと、
自分で外堀から内堀へだんだん埋めていって考えるんだよ。
そしてぼくは民主主義は最終的には放棄しよう、と。
あ、よろしい、よろしい。 言論の自由は最終的に放棄しよう、
よろしい、よろしいと言ってしまいそうなんだ、おれは
最後に守るものは何だろうというと、三種の神器(ジンギ)しかなくなっちゃうんだ。
石原  三種の神器って何ですか。
三島  宮中三殿だよ。
石原  またそんなことを言う
三島  またそんなことを言うなんていうんじゃないんだよ。
なぜかというと、君、いま日本はナショナリズムがどんどん浸食されていて、
いまのままでいくとナショナリズムの九割ぐらいまで左翼に取られてしまうよ。
石原  そんなもの取られたっていいんです。
三種の神器にいくまでに、三島由紀夫も消去されちうもの。
三島  ああ、消去されちゃう。 おれもいなくていいの、おれなんて大した存在じゃない。
石原  そうですか、それは困ったことだなあ (笑い)  ヤケにならなくていいですよ、困ったな。
三島  ヤケじゃないんだ。
石原  三種の神器というのは、ぼくは三島さん自身のことかと思った。
三島  いや、そうじゃない。
石原  やはりぼくは世界のなかに守るものはぼく自身しかないね。
三島  それは君の自我主義でね、いつか目がさめるでしょうよ。
石原  いや、そんなことはない。
三島  そこまで言ってしまってはおしまいだけど、ぼくは日本文化というものを守るということを考える場合に、
何を守ったらいいのかといつも考えてきたのですよ。
歌舞伎やお能というのは、共産社会になったって絶対だいじょうぶですよ。
レニングラード・バレーと同じで、いつまでもだれかが大事にしてくれますよ。
それからお茶だって、お花だって、こんなものは共産社会になっても生き延びますね。
それなら日本文化が生き延びれば、おまえいいじゃないか、と。
法隆寺だろうが、京都のお寺だろうが、いまあんなものをこわす馬鹿な共産社会はないですよ。
皆いい観光資源になっていますから・・・・・・
古典文化というものは大体生き長らえるでしょうね。
最後に生き長らえないものは何かというと、共産社会では天皇制はまず絶対に生き長らえないでしょう。
それからわれわれが毎日書いているという行為は生き長らえないでしょう。
というのは、これから先に手が伸びようとするとき、その手をチェックするでしょうね。
いま生きている手はね。従って、いまわれわれがこうして書いている手と、
天皇制とは、どこか禁断のものという点で共通点があるはずなんです。
生きている手というものと、天皇制というものの関係は何だろうと考えると、
ぼくは天皇制の本質というのを前からいろんなことを言っているんですけど、
文化の全体性というものを保証する最終的根拠であるというふうに言っている。
というのは、天皇制という真ん中に かなめ がなければ、
日本文化というのはどっちへいってしまうかわからないですよ。
昔からそういう性質を持っているんです。
それでこの かなめ があるから、右側へ行ったものは復元力で左側へ来て、
左側へ行ったものは復元力でまた右側へ行く。
中心点にある かなめ が天皇 だというふうに考える。
日本文化というものはいままでどういう扱いを受けてきたかというと、
明治以降日本文化というものは近代主義、西欧主義に完全に毒されて、
その反動が来て日本文化からほとんどエロティックな要素は払拭(フッショク)されちゃった。
戦争中のような儒教的な、ぎりぎりの超国家主義的な日本文化になっちゃった。
今度、逆になってきたら、だらしのないエロティックな日本だけがわっと出てきてしまった。
快楽主義、刹那主義、だらしのなさね。
そのかわり、そのなかに日本文化のいいものももちろん出て来た。
戦争時、禁圧されていたいいものが一ぱい出てきた。
そうすると日本の近代史というのは、文化の全体を保証しないようにいつも動いてきているんですよ。
それじゃアメリカの民主主義ははたして日本の文化の全体を保証したかというと、
たとえば占領軍が来て一番初めに禁止したのは、「忠臣蔵」ですね。
歌舞伎の復讐劇ですね。
それからチャンバラとか、殺伐な侍の芝居を禁止しましたね。
そのとき舟橋聖一らのエロ小説は全部解禁された。
エロティックなことは何を書いてもいいという時代がしばらく続いたでしょう。
そして思想的にもあらゆるものが解放された。
解放されて日本文化が復活したかというと、そうじゃないところがおもしろいんだ。
文化というのはそういう形に置かれたときに、またへんぱなものになっちゃう。
文化の全体性というのはいまないんですよ。
こんなに言論が自由であるように思われるけれども、何も全体性というものがないですよ。
そして文化というものはただだらしのないものになっちゃった。
創造意欲が少しもなくなって、あわれなものになっちゃったんですよ。
するとアメリカ的民主主義というのは、文化としては日本文化の全体性を回復したとは思わない。
やはり一面性だけしか回復しなかったんだと思いますね。
戦時中のああいうものを一面性しか回復しなかった。
おまえの求める文化の全体性というのは、それではいつの時代にそれが実現されたんだというと、
徳川時代もだめだった。
徳川時代は幕府が一所懸命禁圧してだめだった。
それから平安時代は貴族文化だけですからね。
そういうふうにどの時代の政治形態も、政治形態というのは文化の全体性を腐食するような方向にいくんです。
だからぼくは政治はきらいなんです。
政治はきらいですが、ぼくにとって最終的な理念というのは、文化の全体性を保証するような原理
そのためなら命を捨ててもよろしいということをぼくはいつもいっているんです。
保証する原理というのは、この世の地上の政治形態の上にはないですよ。
ですから三派が直接民主主義なんてことを言うと、
どうして日本に天皇があるのに直接民主主義なんてことを言うんだ、ああいうものがあるんだから、
君らの求めるそういう地上にないような政治形態を天皇にもとめればいいじゃないかって言うんですよ。
ぼくは天皇を決して政治体制とは思っていませんけれども、
ぼくは文士ですから、文士というのはいつも全体性の欠如に対して闘う、という理念を持っている。
われわれの書くものが石原さんの言うような自由であるためには、無意識の自由、意識された自由、
政治形態としての自由、何の自由なんてものは問題ではない。
文化が、日本の魂があらゆる形で四方八方へ発揮されなければ・・・・・

次頁
最後に守るべきもの 2  に、続く


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