昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

二十歳の誕生日に

2020年08月15日 13時19分54秒 | 5 青春のひとこま 1973年~


一九才の遺書 (原本)
最初に著作した107頁の小冊子
当時の心境を想うが儘に綴ったもの
インテリの真似をしたのだが、その割には内容は幼稚なものであった
自我というものを、真面目に見つめたこと、
まあ、一生懸命 考えたことくらいは分って呉れ
1974.5.25 の私
昭和49年 ( 1974年 )
私の二十歳の誕生日
手づくりの バースデーカード が 届けられた。

男の人が そんな事してはいけません !!
と、叱られた "大和なでしこ " から贈られたものである。
若き日の想い出・聖女 1974

 生涯の宝物である

同じ日

「 教養課程の学生催しがある 」
と、呉津に誘われ、親友・平野共々 神戸大学の六甲キャンパスに出かけた。
やっぱり 平野とのトリオになる。
しかし、呉津には申しわけないが何ら感動はなかった。
私が鮮やかに記憶したは、
大学への道すがら、目に入った
アグネス・チャンのポスター
最も近いイメージ
「 なんとまあ かわいい 」
    と、感嘆
どうしてポスターが掲げられているのか不思議に想ったが、
その想いは 歩くスピードに流された。

同じ
大学キャンパスで

千葉信一と遇った
 小学六年卒業アルバムから
千葉信一
小学校で 三年生から六年生の4年間、クラスメイトであった。
彼とは、少なからず 因果を含んでいた。
一つは
4年生時の学芸会   
自作の紙芝居 「 王ヒョウ物語 」
アルジェリア・カメルーン山の麓で、母の仇を討ち、
王 と呼ばれる様に成る ヒョー ( 名はフーブ ) の、物語。
・・・も、披露したのだ。
紙芝居の朗読は 「 千葉信一 」 と、共に行った。
・・・リンク→奮闘努力 と リーダーの条件

二つは
5年生時の誕生日会
家に上ると、家庭環境が一目で判った。
「 俺と同じ境遇なんや 」 ・・そう、想った。 ( ディティールは、吾が心懐に納めておく )
『 二十四の瞳 ・松江の母 』 の様な母親が吾々をもてなしてくれる。
「 我が子に、ひもじい思いをさせまいと、親は必死に働いた。
母親は自分は喰わずとも、我が子に喰わそうとした 」
そんな母親だと感じた。
姉がいた。

彼女は仕切るのでもなく、しゃしゃり出るのでもなく、甲斐甲斐しく世話をしている。
私は、そんな姉の姿を見て、
「 家族から 大切にされている んや 」 ・・・と、そう想った。
・・・リンク→あくびをして おんなせんせい に 叱られた

その、千葉信一である。

自分を大切にしてくれた 母親に報いるべく 、一生懸命 頑張ったのであろう。
「 あいつ、親孝行したなァ 」 と、そう想った。

少年の頃の因果が、巡 り 巡 って、
呉津に招かれた大学キャンパスで 遇う と謂う 偶然をつくりだした。
必然とは、そういうことなのかも知れない。


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