昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

栗原小巻 「 こんなきれいな女性 (ひと) 見たことない 」

2020年09月21日 20時50分23秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年


栗原小巻 ( 当時40歳 )
「 男はつらいよ  柴又より愛をこめて 」
昭和60年 ( 1985年 ) 12月 映画
私は、この頃が一番好きである。


『 労演 』
勤労者の演劇協議会の略称で、
「 民主的、民族的な演劇の普及と発展 」 のため 勤労者の組織した観賞団体。
・・・と、謂うことらしい。是 ネットから学習したもの。
高校で演劇部だった吾妻は、その当時 『 労演 』 の会員になったそうな。
私がテレビで吉本新喜劇や枝雀寄席等を観ている時、妻は、【 文学座 】 【 俳優座 】 【 民藝 】・・・等、
演劇を観賞していたのである。
又、「 演劇の世界 」 ・・・私の知らない世界でもある。
妻曰く・・・「 育ちが違う 」 ・・・らしい。
私なんかよりは、とうてい文化的ステータスが高いのである。

  西梅田・桜橋のサンケイホール
昭和59年 ( 1984年 ) 10月20日、サンケイホールにて、
文学座公演 「 続・二号--騒がしいウェディングマーチ 」 を、私は妻と一緒に観賞した。
私は、舞台演劇を観賞するは初めてのこと、
杉村春子、江守徹 等、テレビで馴染みの俳優が見れるとあって、大に期待したのである。
吾々はホールの中央に坐った。
ところが、此処からでは いささか遠かった。
映画や、テレビなら、どんな小声でも しっかり聞こえるだろうし、同時に姿も 顔の表情もアップにするだろう。
主役の杉村春子さんの声が ハッキリ聞き取れないのだ。
「 聞こえへん 」
「 それに、顔 ちいそうて、表情 ( の機微 ) が、見えへん 」
私は、そうボヤイタ。
フラストレーションが溜まるばかりであった。




同年、11月10日、森之宮のピロティホールでの俳優座公園。
栗原小巻が主演で 『 貴族の階段 』 を上演すると謂う。
「 二・二六事件を題材としている 」 からと、私に関心を持たせようとする妻。
事件のことなぞ何ひとつ知らない妻は、いったい何を観ようというのか。
たぶん、「 演劇 」 を、観るのだろう。
何の興味の無い私に、演劇なんか解かるものか。
況してや、「 表現の自由 」 ・・・が、モットーの演劇界・・・ならば、
その内容も、どうせリベラルなもの。・・・そう、たかをくくっていたのである。

「 昭和十年、日本軍国主義の台頭は激しく、経済不況、テロや汚職、相次ぐ政変や権力闘争で
政界は混乱し、軍部内は皇道派と統制派の対立が先鋭化していた 」
・・・あらすじ の一節である。

これだけをとってみても、リベラルな思想は従来通りのもの。
とりわけ、『 貴族の階段 』 そのものについては関心はなかったのである。
 ・
そんな私が、またもや妻と同伴で観劇する。
イソイソと足どり軽く、ホールに入って行く妻。指定席を探す私。
B列の26番と27番。
B列・・・
席を見つけて驚いた。
なんと吾々の座席は、舞台に向って前から二列目、しかも列の中央の位置だったのだ。
しかも 最前列の一列目は演出家や 関係スタッフが坐るもので、ほとんどが空席であった。
吾々の前は空席。
言い換えれば、吾々二人は主賓・・・そんな気がするほどの特等席であった。

私が見たもの
そして、吾々の直前 、真ん前、目の前に、あのスター女優・栗原小巻が立った。
テレビの映像を見ているのではない。生の姿だ。
なんと 綺麗 な・・・・
30歳の私
側の妻の存在も忘れ、
その美しい姿に見とれてしまった。

「 こんなきれいな女性  ( ひと ) 、見たことない 」
・・・そう、想った。
トップスター女優の放つオーラというものを 目の当たりにしたのである。

だから
内容は、見ちゃあいない。

吾妻が何を見たかも知らない。

寅さんが惚れるのも無理はない

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記憶しない大切な想い出もある

2016年12月04日 00時03分16秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

 イメージ
東京モノレール・・私は一度も乗ったことが無い
新婚旅行
羽田から東京駅までの往路
                       乗換
大阪空港・・・・東京羽田空港 ・羽田 ・・浜松町・浜松町 ・・東京 ・・皇居・・九段会館
                  モノレール・15分         山手線    徒歩
更に
羽田までの復路
                乗換            乗換
九段会館・・・・東京 ・・浜松町 ・浜松町 ・・東京羽田空港 ・・・・仙台空港
         山手線                 モノレール・15分               
こともあらうに
東京駅から羽田までの往復、
此の二つの道程を完全にワープしている。

いかんせ・・真っ白 なのである。
「 ( 地図も時刻表も ) 何に一つ持たずに、スイスイ・・と移動するのに感心した 」
・・と、吾妻は言う。
妻は確かに、東京モノレールに乗ったと謂う。
然し、私は乗らなかった。
何故なら、乗った記憶が無い。・・・のであるからして

皇居二重橋
昭和59年 ( 1984年 ) 4月15日
これ以降の記憶は鮮明に甦るのに・・・


新婚旅行は何処でも構わない
無くてもいい
・・と
なんともしおらしい

この言葉を素直に 真に受けたる私
若き日の熱き吾想い叶えんと
昭和維新の地を馳せた

吾はもう夢心地・・哉
吾想い叶えたり
・・・と
リンク
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二)


私は、海外旅行が
 したかったのに 」
 ・・
と、吾妻

私にとっては、絶対忘れるべく筈のない
大切なるもの
にもかかわらず、記憶しない ・・・
不思議なる哉である。

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あのおつりは、私のだった

2016年03月13日 06時13分12秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

ハワイから帰りの機内
スチュワーデスが一人一人に、訊ねて廻っている。
ドル札 を手にしている。
機内で販売した土産物の、おつりを渡す相手を探しているようである。
「 abc、de、ECC・・・? 」
「 あれ?」
・・英語で喋っている。
あの美人スチュワーデス ・・・日本人では、無かったのか。
一人だけでも、日本人が居ると、安堵していたのに・・・

ノースウエスト航空
機内客は日本人ばかりだというのに、
日本人スチュワーデスが一人も居ないのだ。
こともあらうに
日本語を話せるスチュワーデスが一人も居ないのである。

私は何となく、嫌な予感がした 。
・・・が、想い当たる節もないと、他人事としてその様子を眺めていた。
美人のスチュワーデス、徐々にこっちへ向かってくる。
こっちへ来たら面倒臭いな ・・・
この私に、英語で話しかけられても 「 リンダ、困っちゃう 」・・・のだ。

とうとう、私の席に着た。

「 どうしやふ 」

咄嗟に、隣席の先輩鈴木さんに振った。
けれど
「 N O 」
・・・
と、一言
美人のスチュワーデス、さも 困った顔をして、引返して行った。

私はその後姿を眺めていた。

私はハワイを発ってからずっと、窓外の景色を眺めていた。
瞬き も せずに  (マバタキ)

飛行機は、太平洋の空の上で、停まっている

・・・と、錯覚するほど、時間も廻りの景色も動かない。
そんな中、
海上に浮かぶ船を見つけたときは、本当に嬉しかった。
「 ああ ・・下に、人が居る」
・・・と、安堵した。

ハワイの明るい夏空の景色が、
日本に近づくにつれ冬空へと変わってゆく
そして、空模様がすっかり冬になると、陸地が見えた。

日本に着いたのだ。

白浜空港が見える

生駒山を越えた。

大阪城の上を飛んでいる

大川に入った。

真下に、
妻も 二人の子も居る
我家が見える

 私が 撮影
淀川を越えた。

伊丹に着いた。
14.5時間、窓外の景色を、眺め続けたのである。
飽きもせずに


煙に巻かれた飛行機
洋々帰宅した私
イの一番に、土産の入った袋を取出した。
皆への土産 誰のものか判り易い様にと、
ビニール袋に小分けして詰込んでいたのだ。
ソコには、二歳の倅へのサプライズとして、
帰りの機内で買った、飛行機のプラモデルも入っている。
ところが
あけてびっくり玉手箱
なんと  ビニール袋の中身は、『 メンソールのたばこ 』 であった。

あの時、
困った顔をして引返して行った
あのスチュワーデスが手にしていた ドル札、
あれは、私へのおつりだったのだ。
「 ワチャーッ 」

英語を喋れない私は 面倒を避ける為、
カタログで価格をチャンと確認して、おつりのない様にキチッと支払った。
商品は紙箱で梱包したものを購入した。
そしてそれは、航空会社のビニル袋に入れられて手渡された。
その時私は
「 チャンと、注文したものが届けらた 」
・・・とばかり、
信じきっていたので
、中身を確認しなかった。
これが真相である。
しかし、今、そうと判ったところで もう 『 後の祭り 』
今更どうしやうもない。

しかしまさか、飛行機のプラモデルが、
『 メンソールのたばこ 』 に、化けていようとは想いもよらなかった。

私が少しでも、英語が解かれば、
日本語の話せるスチュワーデスが一人でも居たなら、
よもや、こんなことにはならなかっただらうに、
そして、
私の倅は飛行機のプラモデルを手にして、
さぞかし、喜んだらうに
・・・と、
そう悔やんだ私であった。

昭和61年 ( 1986年 ) 12
最初で最後の
アメリカ旅行をした時の

エンディングに相応しい物語である。

 旅行中
 私の懐中に
 入れていた
  家族写真 

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コレクトコール プリーズ

2015年10月02日 12時55分07秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

Collect call Please
ok
japan osaka 0 ・・
whats ・・?

ウェスティン゜・ボナベンチャー 目的地の一つであった

昭和61年 ( 1986年 )
会社から冬のボーナスとしてアメリカ旅行をプレゼントされた。
初めての海外旅行となる。
「 旅行嫌いなこの俺が、アメリカまで行くかぁ ? 」
「 ( 旅先で )  腹が痛くなったらどうしやう 」
「 痛いから・・謂うて、( アメリカからは ) すぐに帰れんぞ 」
「 日本語も覚束無んのに、英語なんか・・しゃべれるかー」
・・と、不安ばかりが募る。

12
月10日
大阪伊丹から成田経由でロサンゼルスへ出発したは夕刻
機内で夕食を済ますも、就寝までは暫らく時間がある。
同伴の先輩 ・鈴木さんは、ナッツを抓んで以てウィスキーを舐めていた。
私は、携帯する武田漢方胃腸薬は飲んでも酒は飲まない。
「 旅行中は 間食はしないぞ 」 ・・・と、心に決めていた。
ましてや 乗り物、
而も 飛行機の中、
腹の中に入れる は、「
法度 」 ・・・と、確と誓っていたのである。

機内映画で時間を費やそうと、
モニター画面に目を遣らば、
映画は トムクルーズ 主演の 「 トップガン 」
然し、インターホンの音声は 英語、
字幕も無い
これでは落着いて観覧とはゆかなかった。

就寝の時間とな・・・
消灯、窓のカーテンも閉じられた。
繊細な神経の持主である私、座席で眠ることなぞ出来るものか。
ましてや、飛行機、空の上なのである。
「 せめて、窓から景色が眺むれば 」
・・・との想いも空しい
只々、ストレスを抱えた侭、
途方もない遙かなる11時間、
とうとう一睡もしない侭、夜を明かしたのである。
此の間、
ノースウエスト航空のジャンボ機は、偏西風に乗って日付変更線を跨いだ。

アメリカに到着したとの機内放送
皆が窓のカーテンを開ける。
窓超しに 木々の無い山々が見える。
初めて見る 斯のアメリカ である。

「 嗚呼、滔々 アメリカ に来た 」
Los Angeles

トイレに駆け込む
12月10日の午後 成田を出発して、
ロスに到着したのが12月10日午後
ところが然し、
我が体内時計は 確り 朝
初めて知る、
時差ボケ の、体験であった。

腹具合が悪い、気分も悪い、頭もボーッとしている。
それでもホテルに着く迄は辛抱我慢と、気力を振り絞るも適わず、
何と
アメリカで記念すべき 初仕事はトイレに駆け込む事であったのだ。
偶々入ったビルのトイレブース、
驚いたことに
奥深で便座に坐ると、鍵を掛けた入口扉まで手が届かないのだ。
それに、ブースの足下が 30cm程 空いているではないか。
これでは、安心して用も足せない

いきなり、風土、文化の違いを思い知らされたのである。

意気消沈して
洋々、ホテルに辿り着いた私
もう、ぐったり・・哉

コレクトコール プリーズ
「 ホテルに着いたら電話する 」
・・・は、我家を発つ時の妻との約束。
日本で妻は私からの電話を
今か今か ・・と、
さぞや首を長くして待っていることであらう
さっそく電話せねば

Collect call Please
ok
japan  osaka  0   ・・
whats・・?

「 アッ、まちごうた 」
おおさか ぜろ ろく ・・は、普段からの口癖
横で鈴木さんが笑っている 

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大阪つばめ

2015年03月14日 07時14分54秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

世界一のお金持ち国 日本
地価の高沸で、
日本の地価の総額を以てすれば、
アメリカ全土を買収できると豪語していた日本
「ノーキョーサン」 ・・・東南アジアの観光地を席巻していた
まさに・・・バブル に酔っていた。


好景気の下、
会社からシンガポール旅行のプレゼント
昭和63年 ( 1988年 ) 各々ツアーの集合写真、
何と女性ツアーばかり、で驚く

昭和62年 ( 1987年 )
私は
地下鉄堺筋線にて、
天神橋筋六丁目から堺筋本町まで通勤していた。
天六 ( 天神橋筋六丁目 ) までは、自転車で脚を伸ばしていた。
自転車は、旧阪急電車天六駅舎 ( 1階は阪急共栄ストア ) 東側、
交番の前の、「 自転車預りの谷村 」 に預けた。
「 自転車預り 」 から地下鉄駅までは、徒歩で2分程度の処である。
そこは 谷村さん老夫婦が預り番をしていた。


                                        ↑ 地下鉄入口                             ↑自転車置き場

半ドンの土曜日
帰宅しようと、自転車を受取りに入った。
自転車置場の奥の部屋で、
歳、と 4歳くらいの二人の兄妹が居た。
兄は、おじいちゃん と、ハサミ将棋、
妹は、その傍で玩具を手にしながら、
兄弟二人して 鼻唄を唄っている。

雨の降る夜は  人恋しくて
夢がぬれます  ネオンがしみる
とんでゆきたい  抱かれたい
大阪つばめ
縁を切る橋  つなぐ橋
渡りきれない 淀屋橋
・・・

石川さゆり  の
『 大阪つばめ 』
「 まあ、こんな幼き子が この演歌を唄うか 」
私は、嬉しくなって
自転車での帰り途、
兄妹が唄った一番のフレーズのつづきを口ずさんだのである。


声をかければ 他人の空似
うしろ姿の しあわせばかり
あなた逢いたい もう一度
大阪つばめ
たとえかなわぬ夢でいい
両手合わせる法善寺

にごり水でも 青空うつす
超えてゆきます あなたがいれば
ふたりとびたい 春の空
大阪つばめ
つたい歩きのとまり木は
浮いて流れて北新地
  ・・・と 

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どうか、通してくだしゃんせ

2014年11月15日 18時05分44秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

「 abc、de、ECC ・・・? 」

女性の入国管理官が、私に何か云っている
何を言っているのか、てんで、解らない
「  Q、Q、Q、・・・・ 」
・・何がなんだか分らない

私は、焦った

「 どうしやふ・・・」

私と同伴の先輩 ・鈴木さん、既にケ゛ートを通過して、入国を果たしている。
カウンターを挟んだ直ぐ目の前で、
私と、管理官とのヤリトリを静観しているだけなのだ。
助けて呉れても良からうに ・・

大勢の日本人が通り過ぎて、私が、シンガリ であった。
不慣れな、不安げな、緊張した、私の顔の所為なのか。

「 I can not speak English.」

まったくもって、英語が分らない

「 何を言っているのか、分りまへんわ 」

・・・大阪弁で、そう、答えた

そうしたら、管理官

「 もう、ええわ 」

・・・と、言ったのだろう

入国を許可して呉れたのである

円が1ドル、200円から160円と つよくなり
景気もよくなった。
会社から、アメリカ旅行をプレゼントされたのである。

昭和61年 ( 1986年 ) 12月10日

Los Angeles
初めて、日本以外の地を踏んだ時の突端の出来事である。

Los Angeles

ロサンゼルス群立美術館

イメージは2019年

同伴の鈴木さん  1986.12.11
後を歩く婦警さんに
アメリカに来た・・と、実感する


1986.12.11 ( アメリカ時間 )
ロスアンゼルス群立美術館傍の公園で遊ぶ、アメリカンキッズ
私の記念撮影に答えて呉れた
チョット掘るだけで、出て来る、石油を突いているのである
カラフルなファションは、「 ミキハウス 」 を着ているのだろうか
髪の毛も染めて
さすがに、アカヌケテイル

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イエス か ノー か

2014年10月28日 05時52分35秒 | 6 バブルの頃 1986年~1988年

「 キップ キップ ! ! 」
「 ・・・? 」

  近年のシンガポール ( ネットから )

アメリカ旅行に続いて、
シンガポール・ホンコン旅行が、会社からプレゼントされた。
バブルピークの頃、景気の良い時のことである。

伊丹からシンガポールへ

私は、離陸する瞬間がキライである。
もし、落ちたら 今生の別れになる
・・と、大そうだとは思うけれど、飛行機の時は、いつもそう思う。

窓外の景色は、時間の経過と伴に、南洋に変わって行く

さんご礁に囲まれた、孤島

青い海と白い波の景色は印象的であった。

ジャンボ機で6時間
そろそろ、赤道直下のシンガポールに着く頃である。
私は、かねがね、赤道をみたいと思っていた。
果たして・・・
赤道 ・・・ 一本の赤いライン
私は、飛行機の窓から それを確認したのである。

昭和63年 ( 1988年 ) 9月24日、
シンガポールへ着く
今度は、事務所職員全員 ( 5人 ) の旅行である。
私は、シンガリ ( 最後尾 ) で入管のゲートを通る。
・・・
ロスの入管と同じく、
私だけに、ストップがかかったのである。
英語?? で 何か言っている。
「 kippu・・・kippu・・・」
「 キップ、キップ・・・? 」
「きっぷ、きっぷ、はなださん、きっぷ 」
既にゲートを通過した、同伴の事務所の女性 ・鈴木さん
「 切符 ・・・搭乗券を見せなさいと云っているのよ 」
「 エーッ ・・・」

なんと、日本語だった。
切符 ・・・搭乗券を見せると、ゲートを通して呉れた。

「 日本語で喋りかけて呉れているとは、思わんかったヨ 」
「 なんで、俺だけ、引っかかるんヤ 」
「 アメリカの時も、・・・」
ボヤク私に、皆が笑っている。
「 不安げな、顔つきをしているから、目をつけられるんャ 」
・・・と、アメリカ旅行で同伴した先輩 ・鈴木さん (・・同名・・他人同士 )
「 そうよ、きっとそうよ 」 ・・・と、女性達
・・その通りである・・のだけれど


ツアースケジュールの一つ、蝋人形館に入った。
私等と同じ様に、
白いワンピース、ブルーネクタイ、の 制服を着た少女数人が教師に引率されて入って来た。
裕福層の少女達にみえた。
何故、少女達は、教師に連れられて此処へ来たのであらうか、・・・
彼女達に興味を持ちつつ、伴なって、館内を歩いて
其処で見たものは、
驚いた事に
山下奉文大将 が
英軍司令官パーシバル中将に対して
無条件降伏を迫った、
あの有名な
「 イエス か ノー か 」 の場面の蝋人形であった。

 ネットから

「 昭和17年1月15日 ・シンガポール陥落 」
少年の頃に、私の記憶にも、刻み込まれていた。
私は、英国に勝って、
アジアの同胞シンガポールは開放されたものと認識していた。
多くの日本人は、きっと、そう思っているであらう。
しかし、
白いワンピースの制服の少女達の蝋人形を見つめる目は、
私の思いとは懸離れている様であった。
彼女達の、蝋人形を見る目は、
「 日本人を嫌っている 」
・・・そう、感じた。

シンガポール国は、何故に、
あの場面を、展示保存しているのか
教師は少女達に何を教えているのか
シンガポール人の思いを目の当たりにして私は、愕然としたのである。


「 まさか、こんな処で、山下奉文に出遭うとは 」

いい気に成りすぎているのではないか
少し金持ちになった日本人
旅先で喜ばれているのは、お金を落としてくれるから
ただ、それだけのことなのに
勘違いをしている。

シンガポールで、そう思ったのである。

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