栗原小巻 ( 当時40歳 )
「 男はつらいよ 柴又より愛をこめて 」
昭和60年 ( 1985年 ) 12月 映画
私は、この頃が一番好きである。
『 労演 』
勤労者の演劇協議会の略称で、
「 民主的、民族的な演劇の普及と発展 」 のため 勤労者の組織した観賞団体。
・・・と、謂うことらしい。是 ネットから学習したもの。
高校で演劇部だった吾妻は、その当時 『 労演 』 の会員になったそうな。
私がテレビで吉本新喜劇や枝雀寄席等を観ている時、妻は、【 文学座 】 【 俳優座 】 【 民藝 】・・・等、
演劇を観賞していたのである。
又、「 演劇の世界 」 ・・・私の知らない世界でもある。
妻曰く・・・「 育ちが違う 」 ・・・らしい。
私なんかよりは、とうてい文化的ステータスが高いのである。
西梅田・桜橋のサンケイホール
昭和59年 ( 1984年 ) 10月20日、サンケイホールにて、
文学座公演 「 続・二号--騒がしいウェディングマーチ 」 を、私は妻と一緒に観賞した。
私は、舞台演劇を観賞するは初めてのこと、
杉村春子、江守徹 等、テレビで馴染みの俳優が見れるとあって、大に期待したのである。
吾々はホールの中央に坐った。
ところが、此処からでは いささか遠かった。
映画や、テレビなら、どんな小声でも しっかり聞こえるだろうし、同時に姿も 顔の表情もアップにするだろう。
主役の杉村春子さんの声が ハッキリ聞き取れないのだ。
「 聞こえへん 」
「 それに、顔 ちいそうて、表情 ( の機微 ) が、見えへん 」
私は、そうボヤイタ。
フラストレーションが溜まるばかりであった。
同年、11月10日、森之宮のピロティホールでの俳優座公園。
栗原小巻が主演で 『 貴族の階段 』 を上演すると謂う。
「 二・二六事件を題材としている 」 からと、私に関心を持たせようとする妻。
事件のことなぞ何ひとつ知らない妻は、いったい何を観ようというのか。
たぶん、「 演劇 」 を、観るのだろう。
何の興味の無い私に、演劇なんか解かるものか。
況してや、「 表現の自由 」 ・・・が、モットーの演劇界・・・ならば、
その内容も、どうせリベラルなもの。・・・そう、たかをくくっていたのである。
「 昭和十年、日本軍国主義の台頭は激しく、経済不況、テロや汚職、相次ぐ政変や権力闘争で
政界は混乱し、軍部内は皇道派と統制派の対立が先鋭化していた 」
・・・あらすじ の一節である。
これだけをとってみても、リベラルな思想は従来通りのもの。
とりわけ、『 貴族の階段 』 そのものについては関心はなかったのである。
・
そんな私が、またもや妻と同伴で観劇する。
イソイソと足どり軽く、ホールに入って行く妻。指定席を探す私。
B列の26番と27番。
B列・・・
席を見つけて驚いた。
なんと吾々の座席は、舞台に向って前から二列目、しかも列の中央の位置だったのだ。
しかも 最前列の一列目は演出家や 関係スタッフが坐るもので、ほとんどが空席であった。
吾々の前は空席。
言い換えれば、吾々二人は主賓・・・そんな気がするほどの特等席であった。
・
私が見たもの
そして、吾々の直前 、真ん前、目の前に、あのスター女優・栗原小巻が立った。
テレビの映像を見ているのではない。生の姿だ。
なんと 綺麗 な・・・・
30歳の私
側の妻の存在も忘れ、
その美しい姿に見とれてしまった。
「 こんなきれいな女性 ( ひと ) 、見たことない 」
・・・そう、想った。
トップスター女優の放つオーラというものを 目の当たりにしたのである。
だから
内容は、見ちゃあいない。
吾妻が何を見たかも知らない。
寅さんが惚れるのも無理はない
イメージ
東京モノレール・・私は一度も乗ったことが無い
新婚旅行
羽田から東京駅までの往路
乗換
大阪空港・・・・東京羽田空港 ・羽田 ・・浜松町・浜松町 ・・東京 ・・皇居・・九段会館
モノレール・15分 山手線 徒歩
更に
羽田までの復路
乗換 乗換
九段会館・・・・東京 ・・浜松町 ・浜松町 ・・東京羽田空港 ・・・・仙台空港
山手線 モノレール・15分
こともあらうに
東京駅から羽田までの往復、
此の二つの道程を完全にワープしている。
いかんせ・・真っ白 なのである。
「 ( 地図も時刻表も ) 何に一つ持たずに、スイスイ・・と移動するのに感心した 」
・・・と、吾妻は言う。
妻は確かに、東京モノレールに乗ったと謂う。
然し、私は乗らなかった。
何故なら、乗った記憶が無い。・・・のであるからして
皇居二重橋
昭和59年 ( 1984年 ) 4月15日
これ以降の記憶は鮮明に甦るのに・・・
新婚旅行は何処でも構わない
無くてもいい
・・と
なんともしおらしい
この言葉を素直に 真に受けたる私
若き日の熱き吾想い叶えんと
昭和維新の地を馳せた
吾はもう夢心地・・哉
吾想い叶えたり
・・・と
リンク
男のロマン 大東京 二・二六事件 一人歩き (二)
「 私は、海外旅行が
したかったのに 」
・・と、吾妻
私にとっては、絶対忘れるべく筈のない
大切なるもの
にもかかわらず、記憶しない ・・・
不思議なる哉である。
ハワイから帰りの機内
スチュワーデスが一人一人に、訊ねて廻っている。
ドル札 を手にしている。
機内で販売した土産物の、おつりを渡す相手を探しているようである。
「 abc、de、ECC・・・? 」
「 あれ?」
・・英語で喋っている。
あの美人スチュワーデス ・・・日本人では、無かったのか。
一人だけでも、日本人が居ると、安堵していたのに・・・
ノースウエスト航空
機内客は日本人ばかりだというのに、
日本人スチュワーデスが一人も居ないのだ。
こともあらうに
日本語を話せるスチュワーデスが一人も居ないのである。
私は何となく、嫌な予感がした 。
・・・が、想い当たる節もないと、他人事としてその様子を眺めていた。
美人のスチュワーデス、徐々にこっちへ向かってくる。
こっちへ来たら面倒臭いな ・・・
この私に、英語で話しかけられても 「 リンダ、困っちゃう 」・・・のだ。
とうとう、私の席に着た。
「 どうしやふ 」
咄嗟に、隣席の先輩鈴木さんに振った。
けれど
「 N O 」
・・・と、一言
美人のスチュワーデス、さも 困った顔をして、引返して行った。
私はその後姿を眺めていた。
私はハワイを発ってからずっと、窓外の景色を眺めていた。
瞬き も せずに (マバタキ)
飛行機は、太平洋の空の上で、停まっている
・・・と、錯覚するほど、時間も廻りの景色も動かない。
そんな中、
海上に浮かぶ船を見つけたときは、本当に嬉しかった。
「 ああ ・・下に、人が居る」
・・・と、安堵した。
ハワイの明るい夏空の景色が、
日本に近づくにつれ冬空へと変わってゆく
そして、空模様がすっかり冬になると、陸地が見えた。
日本に着いたのだ。
白浜空港が見える
生駒山を越えた。
大阪城の上を飛んでいる
大川に入った。
真下に、
妻も 二人の子も居る
我家が見える
私が 撮影
淀川を越えた。
伊丹に着いた。
14.5時間、窓外の景色を、眺め続けたのである。
飽きもせずに
煙に巻かれた飛行機
洋々帰宅した私
イの一番に、土産の入った袋を取出した。
皆への土産 誰のものか判り易い様にと、
ビニール袋に小分けして詰込んでいたのだ。
ソコには、二歳の倅へのサプライズとして、
帰りの機内で買った、飛行機のプラモデルも入っている。
ところが
あけてびっくり玉手箱
なんと ビニール袋の中身は、『 メンソールのたばこ 』 であった。
あの時、
困った顔をして引返して行った
あのスチュワーデスが手にしていた ドル札、
あれは、私へのおつりだったのだ。
「 ワチャーッ 」
英語を喋れない私は 面倒を避ける為、
カタログで価格をチャンと確認して、おつりのない様にキチッと支払った。
商品は紙箱で梱包したものを購入した。
そしてそれは、航空会社のビニル袋に入れられて手渡された。
その時私は
「 チャンと、注文したものが届けらた 」
・・・とばかり、
信じきっていたので、中身を確認しなかった。
これが真相である。
しかし、今、そうと判ったところで もう 『 後の祭り 』
今更どうしやうもない。
しかしまさか、飛行機のプラモデルが、
『 メンソールのたばこ 』 に、化けていようとは想いもよらなかった。
私が少しでも、英語が解かれば、
日本語の話せるスチュワーデスが一人でも居たなら、
よもや、こんなことにはならなかっただらうに、
そして、私の倅は飛行機のプラモデルを手にして、
さぞかし、喜んだらうに
・・・と、そう悔やんだ私であった。
昭和61年 ( 1986年 ) 12月
最初で最後の
アメリカ旅行をした時の
エンディングに相応しい物語である。
旅行中
私の懐中に
入れていた
家族写真
Collect call Please
ok
japan osaka 0 六・・
whats ・・?
ウェスティン゜・ボナベンチャー 目的地の一つであった
昭和61年 ( 1986年 )
会社から冬のボーナスとしてアメリカ旅行をプレゼントされた。
初めての海外旅行となる。
「 旅行嫌いなこの俺が、アメリカまで行くかぁ ? 」
「 ( 旅先で ) 腹が痛くなったらどうしやう 」
「 痛いから・・謂うて、( アメリカからは ) すぐに帰れんぞ 」
「 日本語も覚束無んのに、英語なんか・・しゃべれるかー」
・・と、不安ばかりが募る。
12月10日
大阪伊丹から成田経由でロサンゼルスへ出発したは夕刻
機内で夕食を済ますも、就寝までは暫らく時間がある。
同伴の先輩 ・鈴木さんは、ナッツを抓んで以てウィスキーを舐めていた。
私は、携帯する武田漢方胃腸薬は飲んでも酒は飲まない。
「 旅行中は 間食はしないぞ 」 ・・・と、心に決めていた。
ましてや 乗り物、
而も 飛行機の中、
腹の中に入れる は、「 ご法度 」 ・・・と、確と誓っていたのである。
機内映画で時間を費やそうと、
モニター画面に目を遣らば、
映画は トムクルーズ 主演の 「 トップガン 」
然し、インターホンの音声は 英語、
字幕も無い
これでは落着いて観覧とはゆかなかった。
就寝の時間とな・・・
消灯、窓のカーテンも閉じられた。
繊細な神経の持主である私、座席で眠ることなぞ出来るものか。
ましてや、飛行機、空の上なのである。
「 せめて、窓から景色が眺むれば 」
・・・との想いも空しい
只々、ストレスを抱えた侭、
途方もない遙かなる11時間、
とうとう一睡もしない侭、夜を明かしたのである。
此の間、
ノースウエスト航空のジャンボ機は、偏西風に乗って日付変更線を跨いだ。
アメリカに到着したとの機内放送
皆が窓のカーテンを開ける。
窓超しに 木々の無い山々が見える。
初めて見る 斯のアメリカ である。
「 嗚呼、滔々 アメリカ に来た 」
Los Angeles
トイレに駆け込む
12月10日の午後 成田を出発して、
ロスに到着したのが12月10日午後
ところが然し、
我が体内時計は 確り 朝
初めて知る、
時差ボケ の、体験であった。
腹具合が悪い、気分も悪い、頭もボーッとしている。
それでもホテルに着く迄は辛抱我慢と、気力を振り絞るも適わず、
何と
アメリカで記念すべき 初仕事はトイレに駆け込む事であったのだ。
偶々入ったビルのトイレブース、
驚いたことに
奥深で便座に坐ると、鍵を掛けた入口扉まで手が届かないのだ。
それに、ブースの足下が 30cm程 空いているではないか。
これでは、安心して用も足せない
いきなり、風土、文化の違いを思い知らされたのである。
意気消沈して
洋々、ホテルに辿り着いた私
もう、ぐったり・・哉
コレクトコール プリーズ
「 ホテルに着いたら電話する 」
・・・は、我家を発つ時の妻との約束。
日本で妻は私からの電話を、
今か今か ・・と、
さぞや首を長くして待っていることであらう
さっそく電話せねば
Collect call Please
ok
japan osaka 0 六 ・・
whats・・?
「 アッ、まちごうた 」
おおさか ぜろ ろく ・・は、普段からの口癖
横で鈴木さんが笑っている
世界一のお金持ち国 日本
地価の高沸で、
日本の地価の総額を以てすれば、
アメリカ全土を買収できると豪語していた日本
「ノーキョーサン」 ・・・東南アジアの観光地を席巻していた
まさに・・・バブル に酔っていた。
好景気の下、
会社からシンガポール旅行のプレゼント
昭和63年 ( 1988年 ) 各々ツアーの集合写真、
何と女性ツアーばかり、で驚く
昭和62年 ( 1987年 )
私は 地下鉄堺筋線にて、
天神橋筋六丁目から堺筋本町まで通勤していた。
天六 ( 天神橋筋六丁目 ) までは、自転車で脚を伸ばしていた。
自転車は、旧阪急電車天六駅舎 ( 1階は阪急共栄ストア ) 東側、
交番の前の、「 自転車預りの谷村 」 に預けた。
「 自転車預り 」 から地下鉄駅までは、徒歩で2分程度の処である。
そこは 谷村さん老夫婦が預り番をしていた。
↑ 地下鉄入口 ↑自転車置き場
半ドンの土曜日
帰宅しようと、自転車を受取りに入った。
自転車置場の奥の部屋で、
6歳、と 4歳くらいの二人の兄妹が居た。
兄は、おじいちゃん と、ハサミ将棋、
妹は、その傍で玩具を手にしながら、
兄弟二人して 鼻唄を唄っている。
♪
雨の降る夜は 人恋しくて
夢がぬれます ネオンがしみる
とんでゆきたい 抱かれたい
大阪つばめ
縁を切る橋 つなぐ橋
渡りきれない 淀屋橋
・・・
石川さゆり の
『 大阪つばめ 』
「 まあ、こんな幼き子が この演歌を唄うか 」
私は、嬉しくなって
自転車での帰り途、
兄妹が唄った一番のフレーズのつづきを口ずさんだのである。
♪
声をかければ 他人の空似
うしろ姿の しあわせばかり
あなた逢いたい もう一度
大阪つばめ
たとえかなわぬ夢でいい
両手合わせる法善寺
♪
にごり水でも 青空うつす
超えてゆきます あなたがいれば
ふたりとびたい 春の空
大阪つばめ
つたい歩きのとまり木は
浮いて流れて北新地
・・・と
「 abc、de、ECC ・・・? 」
女性の入国管理官が、私に何か云っている
何を言っているのか、てんで、解らない
「 Q、Q、Q、・・・・ 」
・・何がなんだか分らない
私は、焦った
「 どうしやふ・・・」
私と同伴の先輩 ・鈴木さん、既にケ゛ートを通過して、入国を果たしている。
カウンターを挟んだ直ぐ目の前で、
私と、管理官とのヤリトリを静観しているだけなのだ。
助けて呉れても良からうに ・・
大勢の日本人が通り過ぎて、私が、シンガリ であった。
不慣れな、不安げな、緊張した、私の顔の所為なのか。
「 I can not speak English.」
まったくもって、英語が分らない
「 何を言っているのか、分りまへんわ 」
・・・大阪弁で、そう、答えた
そうしたら、管理官
「 もう、ええわ 」
・・・と、言ったのだろう
入国を許可して呉れたのである
円が1ドル、200円から160円と つよくなり
景気もよくなった。
会社から、アメリカ旅行をプレゼントされたのである。
昭和61年 ( 1986年 ) 12月10日
Los Angeles
初めて、日本以外の地を踏んだ時の突端の出来事である。
Los Angeles
ロサンゼルス群立美術館
イメージは2019年
同伴の鈴木さん 1986.12.11
後を歩く婦警さんに
アメリカに来た・・と、実感する
1986.12.11 ( アメリカ時間 )
ロスアンゼルス群立美術館傍の公園で遊ぶ、アメリカンキッズ
私の記念撮影に答えて呉れた
チョット掘るだけで、出て来る、石油を突いているのである
カラフルなファションは、「 ミキハウス 」 を着ているのだろうか
髪の毛も染めて
さすがに、アカヌケテイル
「 キップ キップ ! ! 」
「 ・・・? 」
近年のシンガポール ( ネットから )
アメリカ旅行に続いて、
シンガポール・ホンコン旅行が、会社からプレゼントされた。
バブルピークの頃、景気の良い時のことである。
伊丹からシンガポールへ
私は、離陸する瞬間がキライである。
もし、落ちたら 今生の別れになる
・・・と、大そうだとは思うけれど、飛行機の時は、いつもそう思う。
窓外の景色は、時間の経過と伴に、南洋に変わって行く
さんご礁に囲まれた、孤島
青い海と白い波の景色は印象的であった。
ジャンボ機で6時間
そろそろ、赤道直下のシンガポールに着く頃である。
私は、かねがね、赤道をみたいと思っていた。
果たして・・・
赤道 ・・・ 一本の赤いライン
私は、飛行機の窓から それを確認したのである。
昭和63年 ( 1988年 ) 9月24日、
シンガポールへ着く
今度は、事務所職員全員 ( 5人 ) の旅行である。
私は、シンガリ ( 最後尾 ) で入管のゲートを通る。
・・・
ロスの入管と同じく、
私だけに、ストップがかかったのである。
英語?? で 何か言っている。
「 kippu・・・kippu・・・」
「 キップ、キップ・・・? 」
「きっぷ、きっぷ、はなださん、きっぷ 」
既にゲートを通過した、同伴の事務所の女性 ・鈴木さん
「 切符 ・・・搭乗券を見せなさいと云っているのよ 」
「 エーッ ・・・」
なんと、日本語だった。
切符 ・・・搭乗券を見せると、ゲートを通して呉れた。
「 日本語で喋りかけて呉れているとは、思わんかったヨ 」
「 なんで、俺だけ、引っかかるんヤ 」
「 アメリカの時も、・・・」
ボヤク私に、皆が笑っている。
「 不安げな、顔つきをしているから、目をつけられるんャ 」
・・・と、アメリカ旅行で同伴した先輩 ・鈴木さん (・・同名・・他人同士 )
「 そうよ、きっとそうよ 」 ・・・と、女性達
・・その通りである・・のだけれど
ツアースケジュールの一つ、蝋人形館に入った。
私等と同じ様に、
白いワンピース、ブルーネクタイ、の 制服を着た少女数人が教師に引率されて入って来た。
裕福層の少女達にみえた。
何故、少女達は、教師に連れられて此処へ来たのであらうか、・・・
彼女達に興味を持ちつつ、伴なって、館内を歩いて
其処で見たものは、
驚いた事に
山下奉文大将 が
英軍司令官パーシバル中将に対して無条件降伏を迫った、
あの有名な
「 イエス か ノー か 」 の場面の蝋人形であった。
ネットから
「 昭和17年1月15日 ・シンガポール陥落 」
少年の頃に、私の記憶にも、刻み込まれていた。
私は、英国に勝って、
アジアの同胞シンガポールは開放されたものと認識していた。
多くの日本人は、きっと、そう思っているであらう。
しかし、
白いワンピースの制服の少女達の蝋人形を見つめる目は、
私の思いとは懸離れている様であった。
彼女達の、蝋人形を見る目は、
「 日本人を嫌っている 」
・・・そう、感じた。
シンガポール国は、何故に、
あの場面を、展示保存しているのか
教師は少女達に何を教えているのか
シンガポール人の思いを目の当たりにして私は、愕然としたのである。
「 まさか、こんな処で、山下奉文に出遭うとは 」
いい気に成りすぎているのではないか
少し金持ちになった日本人
旅先で喜ばれているのは、お金を落としてくれるから
ただ、それだけのことなのに
勘違いをしている。
シンガポールで、そう思ったのである。