ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

ある男の死。

2012年11月06日 | 地域の話題
 いつもの交差点に掲げられていた葬儀場の告知看板で、私は彼の死を初めて知った

 何とも言い様のない感慨とでも言うべき思いが胸の内に生じたが、他人の死をこんな気持ちで知ることになるというのには、過去の様々な彼に纏わる思い出とでも言うべきエピソードや言葉が脳裏にたくさん残っていたからかも知れない。

 彼は私よりも年上の議員としては先輩だったが、以前の仕事上で知っていたことから、彼が幼い頃からやんちゃ坊主であり、お父上に言わせれば「役場でいい仕事が見つかって良かった」と仰っていた如く、当時の町議会議員に立候補し当選していたので、私が同じく町議会に立候補する際には、「選挙はそう甘いもんやないで、票が足らんかったら分けたるさかい」とまで言われたので、「票なんか分けられるもんか」と自問自答しつつ、彼にだけは負けたくないと思い、初めての選挙で彼よりも得票数が多くて当選出来たので安堵した記憶がある。

 その後の初議会に際しては、彼の部屋に呼ばれて「あんたの会派は俺に下駄を預けんか」と言われたので、私はとんでもないと思って、「あいにく下駄は最近履いてなくて、スニーカーばっかりなので」と訳の判らぬ冗談で断った。

 その後数ヶ月が経ち、彼の住む地域に近い住宅地で、私の知人が私に言われたことはとてもショックであったので、今でもはきりと覚えている。

 それは何と、彼ともう独りの御仁がこの世に存在している限り、「この町は絶対に住み良い町にはならない」と言うのであった。

 この町が少しでも住み良い町になる様にとの思いから、当時の町議会議員に多くのご支援と期待を集めて当選し、積極的に議員として働こうと思っていた矢先に、何とも暗雲が漂う様な強烈かつ不思議な呪文の様な住民の言葉を聴いたのであった。

 しかし、この言葉はまんざらその方の勝手な思いではなく、当時の役場の職員や古くからの町の体質などを知っている住民の方々にとっては、常識的とでも言うべき、まことしやかに語られているジンクスの様な明言だったのであった。

 それ以来、私は既成の政党や組織に属さない立場で、敢えて非所属とか市民派と称して、4期16年議員活動をしたのだったが、彼の行動や言動に議会が操られていたり、恫喝に似た縛りを受けていたりと感じる場面にいろいろと遭遇し、何だかわからないが特殊な権力を有すかの様な彼の振る舞いに、なにやら小さくなっている感じの職員や議員を数多く見たのであった。

 所謂、地方議会のボス的な存在と自他共に認めざるを得ない時期が続いていたのだが、彼が脳梗塞で倒れてからは彼の影響力は低下したと思われたが、車椅子に乗っての議場への出入りのために、議場のバリアフリー化がされたり、少しは彼の存在が役立つ面もあったが、車椅子の移動のために職員が一人多く付き添っての研修でも、先方の市役所の説明や勉強の機会は喫茶店でお茶を飲んでいて、ちっとも研修の場には姿を見せない様な彼の勝手な行動が目立っていた。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/89/6a3a89152daadc1e013117c2e7ced4ff.jpg" border="0">

 私に対しては大声で怒ったりしたこともあったが、何故か「お前も俺も一匹狼みたいや」と声をかけられたり、よくわからないが存在感を認めてくれていた様子であった。

 数年前に私は議会や市役所からも遠のいて、彼の病状も動向も知る由もなかったが、今夕に彼の死を知り、帰り道に立ち寄った図書館で顔なじみの女性職員との立ち話で、彼に纏わる前出のて言葉を思い出して話したのだが、さてこの町は彼の死によって少しでも良くなるのであろうかと自問自答し、彼女もちっとも変わらないだろうと苦笑したのであった。

 良くならないのは他人のせいではなくて、自分たちの努力や思いがまだまだ弱いからなのだろうと、改めてある男の死をめぐって感じさせられたのであった。
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