鳩山民主党新政権が発足して、皇居においての認証式を終えた新閣僚たちが、深夜に各々の自分の担当責任分野について、所信を述べたコメントが伝わってきた。
鳩山首相の下での組閣は、先月末の衆議院総選挙で民主党が大勝し、参議院での単独過半数を持たない民主党は、社民党と国民新党に連立内閣を合意して以来、鳩山代表を中心に検討されていた布陣で、マニフェスト実行内閣の担い手たちが決定したわけである。
巷では、鳩山由紀夫新首相の記者会見での言葉を生かして、「未知との遭遇内閣」なぞと言われたりしてはいるが、なかなかの実力者を集めた実務的意欲ある内閣となるであろうと期待している。
その中でも一番の若手として入閣した京都出身の前原誠司氏(47)が国土交通大臣となって、真っ先にコメントを求められたのが、群馬県の利根川水系吾妻川に建設予定の「八つ場ダム」の建設中止についてであった。
前原新国土交通大臣は、きっぱりと「民主党のマニフェスト」通り、八つ場ダム建設は中止しますと断言した。
これには、地元自治体としての知事をはじめ、関連都府県の知事や市町村長から「とんでもない」との反論が出ているらしい。
地元に住む住民たちからも、今更中止などは考えられないとの複雑かつ微妙な心境を訴える声が続々聞こえてくる。
いずれにせよ、「政権交代」をうたって大躍進した「民主党」の国民との約束である「マニフェスト」にはっきりと明記されていた「八つ場ダム建設中止」だから、新内閣はどうしても、この問題をクリアしなければならない。
そもそも「八つ場ダム」の計画は1949年(昭和24年)に諮問機関としての「治水調査会」の答申による建設省の「利根川改訂改修計画」において、利根川に10ヶ所のダムを建設するという計画のひとつとして始まった。
しかし、このダムを当初の計画通りに完成させると、名湯「川湯温泉」の温泉街をはじめとする340世帯が埋没する他、名勝の吾妻峡の中間部にダムが出来て、観光資源が喪失するなど、大きな被害が出るとして、地元の吾妻町を中心に反対運動が展開され、首都圏に住む人々の犠牲になれりたくないとの強い姿勢であった。
その後、全国的なダム計画への疑問や反対運動を背景に、関西の「大滝ダム(紀ノ川)と関東の「八つ場ダム」と全く進捗しないダム事業の代名詞として語られていたが、西の大滝ダムが着工、運用され、現在は「川辺川ダム」が西のダム中止事業の目玉となっている。
「八つ場ダム」は、1974年に反対派町長の当選など大きく着工が遠のいたのだが、1980年に、川湯温泉など地域の生活再建案を群馬県が打ち出し、建設省も建設予定場所を上流600mに移動し、観光スポットの吾妻峡も3/4残し、生活再建対策が約束され、ダム推進派の町長が1990年に就任し、1994年からダム関連道路建設などが始まったのである。
しかし、自然破壊と無駄なダムという見解は変わらず、遂に「建設中止」という画期的決断の時を迎えたのである。
鳩山首相の下での組閣は、先月末の衆議院総選挙で民主党が大勝し、参議院での単独過半数を持たない民主党は、社民党と国民新党に連立内閣を合意して以来、鳩山代表を中心に検討されていた布陣で、マニフェスト実行内閣の担い手たちが決定したわけである。
巷では、鳩山由紀夫新首相の記者会見での言葉を生かして、「未知との遭遇内閣」なぞと言われたりしてはいるが、なかなかの実力者を集めた実務的意欲ある内閣となるであろうと期待している。
その中でも一番の若手として入閣した京都出身の前原誠司氏(47)が国土交通大臣となって、真っ先にコメントを求められたのが、群馬県の利根川水系吾妻川に建設予定の「八つ場ダム」の建設中止についてであった。
前原新国土交通大臣は、きっぱりと「民主党のマニフェスト」通り、八つ場ダム建設は中止しますと断言した。
これには、地元自治体としての知事をはじめ、関連都府県の知事や市町村長から「とんでもない」との反論が出ているらしい。
地元に住む住民たちからも、今更中止などは考えられないとの複雑かつ微妙な心境を訴える声が続々聞こえてくる。
いずれにせよ、「政権交代」をうたって大躍進した「民主党」の国民との約束である「マニフェスト」にはっきりと明記されていた「八つ場ダム建設中止」だから、新内閣はどうしても、この問題をクリアしなければならない。
そもそも「八つ場ダム」の計画は1949年(昭和24年)に諮問機関としての「治水調査会」の答申による建設省の「利根川改訂改修計画」において、利根川に10ヶ所のダムを建設するという計画のひとつとして始まった。
しかし、このダムを当初の計画通りに完成させると、名湯「川湯温泉」の温泉街をはじめとする340世帯が埋没する他、名勝の吾妻峡の中間部にダムが出来て、観光資源が喪失するなど、大きな被害が出るとして、地元の吾妻町を中心に反対運動が展開され、首都圏に住む人々の犠牲になれりたくないとの強い姿勢であった。
その後、全国的なダム計画への疑問や反対運動を背景に、関西の「大滝ダム(紀ノ川)と関東の「八つ場ダム」と全く進捗しないダム事業の代名詞として語られていたが、西の大滝ダムが着工、運用され、現在は「川辺川ダム」が西のダム中止事業の目玉となっている。
「八つ場ダム」は、1974年に反対派町長の当選など大きく着工が遠のいたのだが、1980年に、川湯温泉など地域の生活再建案を群馬県が打ち出し、建設省も建設予定場所を上流600mに移動し、観光スポットの吾妻峡も3/4残し、生活再建対策が約束され、ダム推進派の町長が1990年に就任し、1994年からダム関連道路建設などが始まったのである。
しかし、自然破壊と無駄なダムという見解は変わらず、遂に「建設中止」という画期的決断の時を迎えたのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます