私の友人でもある中国内蒙古自治区からやって来たモンゴル人の包海岩(バオハイヤン)君は、2001年春に来日して以来、丸4年が経過して一昨年には弟の海嶺君、そして今春、妹の海霞さんが来日したので、兄妹3人が京都に暮らしながら、それぞれの留学目的での勉学にいそしむこととなった。
兄の海岩君は1991年の春に、私達が企画した内蒙古地球学校のモンゴル側の交流学生のひとりとして、中国内蒙古自治区赤峰市郊外のダライの町の中学校の校門付近で、初めて会ったのである。
それから91年夏の大草原での一週間のパオ野外生活で合流し、93年には再び私達が企画、実施した日本海地球学校に、モンゴル族の代表学生20数名のひとりとして、初めて来日したのである。
京都を中心とするホームステイ先で2泊3日の交流をしたり、日本海の宮津海岸での海遊びを初めて体験した合宿生活を日本の小中学校の児童、生徒と愉しんだり、約1週間の日本滞在で、彼はすっかり日本の魅力に取り付かれた様で、数年後、日本への留学を志したと言うのである。
4年前の3月30日の夜に突然国際電話がかかってきて、たどたどしい日本語で「ガリバーさん、宝海鷹(バオハイヤン)です、覚えていますか?」と電話口で元気な声がしたのである。
私は91年以来、約10年が経過していたが、幸い彼の名は、内蒙古の交流学生の名簿のトップにあったことと、宝の海の鷹という、すばらしい漢字が並んだ印象的な名前であったため、しっかりと記憶にあったので、「覚えているよ、どうしたの?」と聞いたところ、「僕は日本に留学します、京都の大学、同志社大学に行きます」と言うではないか。
突然の知らせにビックリしたが、とにかく喜ばしいことなので、日本に来て京都で落ち着いたら連絡をおくれ、一緒に食事でもしましょう」と言って、ひとまず突然の国際電話を切ったのである。
翌日の夕刻、全く予想もしていなかった電話が私の自宅にあったらしい。大阪に住むモンゴル人がバオハイヤン君を一晩預かっているので、連絡してほしいとのことだったのである。
またもやビックリして電話をすると、彼自身が既に日本にやってきており、関西空港に到着したのだが、それからどうしていいのか分からないでいたところ、モンゴル語を話す声が聞こえてきたので、近づいて同じ民族、同じ言語を話す人間として救いを求めて、とりあえず、大阪の長居に住まわれて7年になる蒙古人の世話になって、一泊一食の恩義に預かったらしいのであった。
私は驚きながらも、翌日正午に京都の今出川の同志社大学正門で待ち合わせることを約束して、急遽バオハイヤン君の日本での引受人になって、対応したのである。
それから4年、彼は留学生別科での日本語習得過程を優秀な成績で卒業し、大学の特別学生を経て、昨年春から、同志社大学神学部大学院の修士課程の学生として奨学金も受けて、学究生活に没頭しているのである。
そして現在、弟海嶺君は大阪の観光ビジネスの専門学校で学び、妹の海霞さんは兄と同様に、同志社大学留学生別科で今年度から日本語習得に専念し、来年度は同志社女子大学の音楽学科を目指すというのである。
中国、内蒙古自治区の小さな町ダライからやって来た3人の兄妹の日本での留学生活を歓迎し、各々の目的、志望に近づけくための学習と生活を、ささやかではあるがサポートしながら応援したいと思っている。
仲のいいモンゴル人の若い兄妹の頑張りにエールを送り、元気に目的へと努力することを願いつつ、見守りたいと思っているのである。
兄の海岩君は1991年の春に、私達が企画した内蒙古地球学校のモンゴル側の交流学生のひとりとして、中国内蒙古自治区赤峰市郊外のダライの町の中学校の校門付近で、初めて会ったのである。
それから91年夏の大草原での一週間のパオ野外生活で合流し、93年には再び私達が企画、実施した日本海地球学校に、モンゴル族の代表学生20数名のひとりとして、初めて来日したのである。
京都を中心とするホームステイ先で2泊3日の交流をしたり、日本海の宮津海岸での海遊びを初めて体験した合宿生活を日本の小中学校の児童、生徒と愉しんだり、約1週間の日本滞在で、彼はすっかり日本の魅力に取り付かれた様で、数年後、日本への留学を志したと言うのである。
4年前の3月30日の夜に突然国際電話がかかってきて、たどたどしい日本語で「ガリバーさん、宝海鷹(バオハイヤン)です、覚えていますか?」と電話口で元気な声がしたのである。
私は91年以来、約10年が経過していたが、幸い彼の名は、内蒙古の交流学生の名簿のトップにあったことと、宝の海の鷹という、すばらしい漢字が並んだ印象的な名前であったため、しっかりと記憶にあったので、「覚えているよ、どうしたの?」と聞いたところ、「僕は日本に留学します、京都の大学、同志社大学に行きます」と言うではないか。
突然の知らせにビックリしたが、とにかく喜ばしいことなので、日本に来て京都で落ち着いたら連絡をおくれ、一緒に食事でもしましょう」と言って、ひとまず突然の国際電話を切ったのである。
翌日の夕刻、全く予想もしていなかった電話が私の自宅にあったらしい。大阪に住むモンゴル人がバオハイヤン君を一晩預かっているので、連絡してほしいとのことだったのである。
またもやビックリして電話をすると、彼自身が既に日本にやってきており、関西空港に到着したのだが、それからどうしていいのか分からないでいたところ、モンゴル語を話す声が聞こえてきたので、近づいて同じ民族、同じ言語を話す人間として救いを求めて、とりあえず、大阪の長居に住まわれて7年になる蒙古人の世話になって、一泊一食の恩義に預かったらしいのであった。
私は驚きながらも、翌日正午に京都の今出川の同志社大学正門で待ち合わせることを約束して、急遽バオハイヤン君の日本での引受人になって、対応したのである。
それから4年、彼は留学生別科での日本語習得過程を優秀な成績で卒業し、大学の特別学生を経て、昨年春から、同志社大学神学部大学院の修士課程の学生として奨学金も受けて、学究生活に没頭しているのである。
そして現在、弟海嶺君は大阪の観光ビジネスの専門学校で学び、妹の海霞さんは兄と同様に、同志社大学留学生別科で今年度から日本語習得に専念し、来年度は同志社女子大学の音楽学科を目指すというのである。
中国、内蒙古自治区の小さな町ダライからやって来た3人の兄妹の日本での留学生活を歓迎し、各々の目的、志望に近づけくための学習と生活を、ささやかではあるがサポートしながら応援したいと思っている。
仲のいいモンゴル人の若い兄妹の頑張りにエールを送り、元気に目的へと努力することを願いつつ、見守りたいと思っているのである。
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