全国的に六月になって、まず今年の「梅雨入り」は何時かと気になるところだが、五月の末に久しぶりの雨が一日中降ったので、私達の町の至るところで、今日、明日は、「田植え」の絶好機となった。
京田辺市も、殆どが兼業農家であるために、日頃は役所務めやサラリーマンの人たちが、週末の土、日を活かしての「農作業」というパターンが殆どなのである。
今日も、「やおやガリバー」で、お馴染みの軽のワンボックス車で走っていると、田んぼで「田植え」の準備中の野良仕事中の人が会釈をする。
すぐに気がつく人もいるが、しばらく「お顔」を思い出しながら、よーく考えていたら、そうあの役場の「課長さん」だったり、地元の郵便局の「局長さん」だったりするのである。
待ちに待った「待望の雨」のお陰で、一斉に「待ってました!!」とばかりの「田植え」日和の今日となった様である。
おひとり、おひとりの土日の農作業のお陰で、秋には「新米」が収穫されて、全国的に「お米」が食べられるのだが、角度を変えてみれば、農業だけで食べていけない「日本の農業実態」があるのである。
田んぼが四枚、五枚だけでは、いくら頑張って秋の収穫を待っても、反当りの収穫量に対する、実際の農業収入は、農作業に必要な機械や必要経費を差し引きすると微々たるものだと言うのである。
しかし、「お米」は、日本の主食であり、いくら消費量が減ったと言っても、外食産業も含めれば、日本人が一年に食する「お米」の総必要量を、何とか国内で生産してもらわねばならないのである。
「お米の値段」は、ピンからキリまであるが、一般的には十キロ3000円程度であり、現在の大きな袋、30キロでも一万円に満たないのである。
こんな「お米」の値段が、高いのか安いのかと言えば、消費者である我々にとっては、安いに越したことはないのだが、生産者の苦労やコストを考えれば、「お米つくり」は、割りに合わない「仕事」と大半はなっているらしいのである。
よっぽど政府が推奨する「大規模作付け」による、大型経営の米作り農家では、専業の採算性も何とか確保されているというものの、多くの都市近郊農業としての、兼業農家の「農業」は、瀕死の状態なのである。
それでも、この季節の「田植え」を見ると、季節感とともに、少し安堵するのは私だけではないと思うのである。
日本人の食の「米依存度」が低下しつつあるが、やっぱり「お米」を食べなければ「日本人」らしさは薄れていく様な気もするし、これからの「農業」を政治が考えつつも、ひとり、ひとりの農作業の原点がなければ、私たちは「お米」を食べられなくなるからである。
「美味しいご飯」を日々食べれることに感謝し、「田植え」を「日本の農」に不安を抱きつつ、眺めているのである。
京田辺市も、殆どが兼業農家であるために、日頃は役所務めやサラリーマンの人たちが、週末の土、日を活かしての「農作業」というパターンが殆どなのである。
今日も、「やおやガリバー」で、お馴染みの軽のワンボックス車で走っていると、田んぼで「田植え」の準備中の野良仕事中の人が会釈をする。
すぐに気がつく人もいるが、しばらく「お顔」を思い出しながら、よーく考えていたら、そうあの役場の「課長さん」だったり、地元の郵便局の「局長さん」だったりするのである。
待ちに待った「待望の雨」のお陰で、一斉に「待ってました!!」とばかりの「田植え」日和の今日となった様である。
おひとり、おひとりの土日の農作業のお陰で、秋には「新米」が収穫されて、全国的に「お米」が食べられるのだが、角度を変えてみれば、農業だけで食べていけない「日本の農業実態」があるのである。
田んぼが四枚、五枚だけでは、いくら頑張って秋の収穫を待っても、反当りの収穫量に対する、実際の農業収入は、農作業に必要な機械や必要経費を差し引きすると微々たるものだと言うのである。
しかし、「お米」は、日本の主食であり、いくら消費量が減ったと言っても、外食産業も含めれば、日本人が一年に食する「お米」の総必要量を、何とか国内で生産してもらわねばならないのである。
「お米の値段」は、ピンからキリまであるが、一般的には十キロ3000円程度であり、現在の大きな袋、30キロでも一万円に満たないのである。
こんな「お米」の値段が、高いのか安いのかと言えば、消費者である我々にとっては、安いに越したことはないのだが、生産者の苦労やコストを考えれば、「お米つくり」は、割りに合わない「仕事」と大半はなっているらしいのである。
よっぽど政府が推奨する「大規模作付け」による、大型経営の米作り農家では、専業の採算性も何とか確保されているというものの、多くの都市近郊農業としての、兼業農家の「農業」は、瀕死の状態なのである。
それでも、この季節の「田植え」を見ると、季節感とともに、少し安堵するのは私だけではないと思うのである。
日本人の食の「米依存度」が低下しつつあるが、やっぱり「お米」を食べなければ「日本人」らしさは薄れていく様な気もするし、これからの「農業」を政治が考えつつも、ひとり、ひとりの農作業の原点がなければ、私たちは「お米」を食べられなくなるからである。
「美味しいご飯」を日々食べれることに感謝し、「田植え」を「日本の農」に不安を抱きつつ、眺めているのである。
「田植え」があって、私達の「お米」が八十八の手間をかけて成長するから、「米」なんですね。
ほんとに、最近の「米づくり」は、八十八も手間かけなくて、機械でやっちゃってるって感じですので、「米」の字も、そのうち変わるかもしれませんね。