ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

歩く、走る、立ち止まる。

2010年11月02日 | 感じたこと
 日頃、自動車での通勤や外出の多い現代人にとって、歩いたり走ったりという経験が少なくなっている大人が増えていると思うが、昨今の健康志向ブームとでも言うべきか、早朝から深夜までいたるところで「歩く」や「走る」を目的として集ったり、黙々とされている方たちが目立っている。

 私の住む京都、京田辺の北部のベッドタウンも、昨今は高齢者の多い町になりつつあるのだが、町のいたるところ、特に明るいメインストリートは、朝晩共にグループで「歩く」人々や、個人で「走る」人が目立って多くなっている。

 確かに人間の体は、「食べて、寝て、必要以上に動かない」生活をしていると、「太ったり」、「体調が悪く」なったりするケースが多く見られるので、最近の情報過多のせいもあるが、テレビ、新聞、雑誌などでも、「歩くこと」や「走ること」に関する記事やノウハウ、注意事項がよく取り上げられているようである。

 先日、ある時に耳にした「ある言葉」に、我ながら「そうなんだ!」と感心せざるを得なかったことがあるのだが、それは「歩く」ことは、目的もなく「そぞろ歩き」や「散歩」、「あてもなく歩く」ことが出来るが、「走る」ことは、やはり「目指すべき場所」があって「走る」のであって、目的や行き先も定めず「走る」ことはまずはないのだと言うのである。

 つまり、「歩く」ことは「暇つぶし」や「ぶらぶら」が可能なのだが、「走る」のは、時間がないので「駅まで走る」とか、体を鍛えたり、記録のために「○○まで走る」という様に、目的や場所、距離などを一定に定めて「走る」場合が多いのである。

 私たちの日常生活の中で、特に年を取ると「走る」ということが非常に少なくなってくるのだが、年配の方でも非常に熱心に「走る」ことを習慣的になさっている方もいて感心すらするのだが、果たしてその目的はと言えば、たいていが「体力向上、維持」や「ジョギング」としての楽しみだったり、中にはマラソンや競技会、駅伝のための練習だったりである。

 一方、「歩くこと」に関しては、如何に速くではなく、自分自身のペースで「ゆっくり」、「速く」も自在で、適当な「運動量」になるまでと言う方も多いのだが、ついつい「歩きすぎ」や「走りすぎ」になっている場合もあるという。

 つまり、私が言いたいのは、しっかりし「目的を定めて」走ることの大切さと、時には「目的に向かって」走ることが必要だということであって、いつでものんきに気楽に「歩いている」方にとっても、目的もなく歩くのではなく、何かテーマを決めて歩くとか、時間や場所の制約の中で、自分自身が楽しめる課題を浮かべたり考えたりして「歩くこと」も大切だと思ったのである。

 幸い私は仕事でも、毎日結構の距離を必要に応じて「歩いて」いるし、週末の移動販売の八百屋では、数軒のお客さんの家のピンポンを押す為に「走ること」もあって、適度に「歩く」と「走る」を取り入れた運動を繰り返しているといえよう。

 時には、「歩くばっかり」や「走り続ける」ことをやめて、「立ち止まる」ことも、人生の長い旅路には必要だとは思うのだけれど・・・・。

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