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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「山谷のキリスト者」

2010年02月21日 | ガリバー旅行記
 先日、私の古い友人の一人であるT氏から一冊の小さな自費出版本が届いた。

 その書名は「山谷のキリスト者」-1960年代の隅田川伝道所-

著者であるT氏の喜寿の祝いを兼ねた自費出版ということで「謹呈」としたちいさな紙が入っていた。

 皆さんは、東京の「山谷」をご存知であろうか。

 大阪では「釜ヶ崎」と同様の底辺労働者の町であり、安い宿泊施設である「ドヤ」と称する小さなベッドや部屋がたくさんあるビルがひしめく独特の雰囲気のある町である。

 そこに1960年代後半に出来た、日本キリスト教団「隅田川伝道所」と称するちいさなキリスト教の教会の出張所のような場所があり、当時著者のT氏はそこの「書記」をしていたのであった。

 私は写真に掲載した「山谷ブルース」というフォークソングの神様と一時期呼ばれた岡林信康のデビュー曲の背景にある、この「東京・山谷」に、彼より少し遅く1967年の2月から3月まで約一ヶ月半滞在したことから、彼と出会って以来の仲だから、かれこれ40数年が経過しているのである。

 当時、同志社大学の神学部の学生だった岡林信康が、近江八幡の父が牧師を勤めていた教会での「被差別出身の女の子」に対する差別事件の矛盾と問題提起から、混沌とした精神状態で訊ねたのが、東京の日雇い労働者の街、「山谷の近くにあった中森幾之進牧師の教会」であった。

 その夏の「山谷体験」を秋口に、京都御所の芝生の上で聞いた私は、初めて日本の資本主義社会の底辺で、過酷な労働を日雇いという形態で働きながら、日々ドヤで暮らし、酒やギャンブル、女に明け暮れている労働者がいることを明確に知ったのであった。

 まじめな学生生活を目指していた私自身も、強く岡林からの情報とメッセージに触発されて、翌年の後期試験が終わった、その夜の夜行列車で東京・山谷へと出向いて行ったのであった。

 それから毎日、毎日、山谷は「泪橋」という都電の電停前で、早朝からの「立ちん坊」を繰り返して、日々の労働を得て、その日暮らしの体験を続けたのであった。

 何処からか流れついた様な「ホームレス的労働者」の群れが山谷には集まっていて、多種多様な人間の坩堝であったのだが、非常に人間的な優しさも持ち合わせた「素敵な一面」も兼ね備えた社会的弱者の町でもあったと思い出すことが出来る。

 その地に流れ着いたひとりの青年が「隅田川伝道所」書記としてガリ版刷りで発行した「山谷のキリスト者」というミニコミ紙に私たちの同窓生でもあった平賀君が投稿した詞が「山谷ブルース」として、岡林信康のデビュー曲となったのであった。

 その当時の青春真っ只中での、苦い思い出、楽しい体験を思い出させてくれる数々のエピソードは、この本の著者であるT氏なくしてはあり得なかったと思うものが多い。

 彼は、今後も命のある限り、山谷、岡林、高石ともや、キューバ、革命、震災などをテーマに書き続けるだろうと推測している。

 Tさんのご健康を祈る者である。
コメント (2)
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