ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「KY」なんて気にせずに。

2007年11月15日 | とんでもない!
 今、若者言葉は乱れているし何でも略されて何のことだか全く分らない符号の様な言葉もある。

 「あの人、KYね」とか言っているのは、「空気が読めない」って言うことらしい。

 皆で話していたり家庭内や職場で、確かに「空気が読めない」と思ってしまう人がいる場合はあるが、この「空気」という代物が、誰にとってどっちの方を指しているのかが問題の場合も多い。

 と言うのは、結構、全体的な方向性として積極的でも消極的でも、「空気を読めない」と決め付けている人や連中の側の意思や意向が優先している場合が多くて、常識とか当たり前とか言いながら、自分達に都合のいい方向への空気を向けようとしているのではなかろうか。

 つまり、大勢の仲間がいたとすると、いろんな意見や感想、思いがあって当然なのだが、リーダーや主催している人の意向を汲んで、我慢したり合わせたりすることが、「空気を読む」ことになる場合が多いのではないだろうか。

 現代の若者たちの言葉や会話を、それとなしに聞く機会に、よーく聞いていると、「みんなはどうする?」等と、他人、つまり大勢がどう行動するか、それとも過半数以上の人の行動に準じて、無難に自分達も行動しようとする主体性の乏しい若者像が浮かんでくる場合がある。

 「あの人はKY」と言われたり、レッテルを貼られない様にするために、「自分」というカラーや主張をしまい込んで他人に合わせ、結局「付和雷同的」に行動してたりしてしまうのではないだろうか。

 友達や仲間から「仲間はずれ」や「しかとう」をされないために、いつも自分を他人の価値観の中の無難な処に身を置くという「術」を身につけて生きている若者達に出会うことが多い。

 一見、大人社会に生きている様な「身なり」と「物腰」ではあるが、中味は、いつもおどおどしていて自分の居場所を捜していて、他人から叱咤されたり仲間はずれにされない生き方だけを模索している様である。

 困ったものである。「空気が読めない」と言われてもいいではないか。

 自分らしく、自分の意見を持ち、他人と議論し行動を共にしない時があってもいいのではないだろうか。

 「金魚の糞」と言えば表現がきついが、いつも誰かについて歩いたり、いつも仲間からはぐれたくないという気持ちだけで、安住の居場所を求めているなんて、却って寂しいではありませんか。

 本当に自立した社会人として、若者達が個性的に生きるためには、「KY」なんて批判や指摘を気にせずに、堂々と自分らしく溌剌と若々しく生活してもらいたいものである。
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