ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

天才パバロッティは楽譜が読めなかった。

2007年09月08日 | 感じたこと
 イタリアの天才的なテノール歌手、パバロッティさんが昨日71歳ですい臓がんで亡くなった。

日本で一番有名かつ人気のあったテノール歌手である、パバロッティ氏がなくなったのだが、三大テノール歌手としての他の二人、ホセ・カレーラスさんとプラシド・ドミンゴさんに比べ物にならないほど、日本独自のファン倶楽部が出来ていたほど魅力的な歌手であった。

 昨年2月に開催された、あのトリノ冬季オリンピックを思いだしてみたら、荒川静香さんが例のイナバウァーで一世を風靡し、金メダルを取った大会の開会式で、その美声を全世界に轟かしたのが、最期の晴れ舞台だったかもしれない。

 そんな天才的テノール歌手が、何とまともに「楽譜が読めなかった」と聞くと、なんとも不思議でもあるが、逆に如何にもと納得がいくところもあって摩訶不思議でもあった。

 天才とは凡才と紙一重なのかもしれないが、彼は最後まで「楽譜が読めればもっと違っていた」と思っていたらしいが、私は天才とはそういう者なのだろうと、やけに納得もし、余計に尊敬にあたう歌手だと強く感じているのである。

 最近の教育について、すぐに「教育改革」とやらを持ち出して、せっかくの「総合的学習」や「ゆとり教育」を反故にして、小学生からの英語教育や道徳、歴史、伝統を重んじた「日本的教育」とやらを強く推し進めたいお偉い先生方や、国際的学力が低下しているので、もっと学力テストや授業時間を増やそうとしているお役人達がいる。

 少し飛躍すぎるかもしれないが、私はもっと幼児期から少なくとも小学校時代までは、「学力」や「教え込む」教育だけでなく、もっと人間的感性を育む「ゆとのりの教育」や「総合的な教育」を拡大した方がいいと思っている。

 パバロッティだけではなく、天才的な芸術家や表現者と言われる歴史に名を留めた人たちは、意外と幼少期の学校の「成績」とやらは決して良くは無いのである。

 すなわち、持って生まれた資質とでも言うべき、DNAの違いもあろうが、自然の中で駆け回っていたり、環境的な条件が自由奔放で、好きな世界に遊んでいたりと、驚くほどの育ち方であったりするのである。

 ともすれば、大人たちが好きな昔の「偉人伝」の様な天才的教育と環境の賜物であると勘違いして、早期教育や塾、習い事の詰め込み主義で、わが子を天才にでもしようと試みているのではないだろうか。

 「天才」とは創られる者ではなく、育ちの中から生み出される者ではないだろうか。

 パバロッティだけではないだろうが、楽譜が読めないことなど、音楽家としては致命傷の様に思う人もいるだろうが、全く逆で人間としての「感性と経験」が「学習」や「知識」を凌駕する「力」「実力」を生み出したのだろう。

 介護士や保育士の様な高齢者や幼児と共に仕事をする和解人たちも「資格」としての勉強は止む得ない現代だが、「資格」がすぐに役立つのではなく、「気づき」の心と「経験」が大切なのである。

 全国の運転免許証を持つドライバーも然りである。資格で運転は出来るが、目と心で安全かつ思いやりの運転をしてほしいものである。
コメント (2)
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