ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

笑顔の力

2004年12月19日 | テレビマスコミ


 今朝、NHK「課外授業ようこそ先輩」の再放送で、写真家、長倉洋海氏の「世界に広がれ!笑顔の力」を見た。世界の多くの紛争地を歩き、一般のテレビや新聞報道とは違った視点から人々の暮らしを長期にわたって撮り続けている、私が好感をもつカメラマンの一人だ。

 彼の生まれ育った地であろう北海道釧路市の小学校で、3日間にわたって長倉さんは指導し、子供たちは人々の笑顔を求めて各々に貸与されたデジカメを持って町に出たが、急に子供たちがカメラを向けてもなかなか町の人たちは、表情が固かったり笑顔にはほど遠い顔のスナップしか撮れなかったりであった。

 長倉さんは、子供たちに出会った人たちとのコミュニケーションの大切さを教え、2日目には前日のスナップ写真を、被写体になってくれた人たちに手渡して再度交流、言葉を交わして、気持ちを伝えて再び撮影したところ、多くの自然に近い笑顔のスナップを撮影することが出来たようである。

 人と人が出会い、時にはすぐに意気投合することもあるが、やはり出逢いから言葉や気持ちを伝えながらお互いの気持ちを交流することが,笑顔を生み出すのにいかに大切な鍵かがよくわかる。子供たちも最初は町の大人たちに「写真を撮ってもいいですか?」と確認するのがやっとで、相手の目を見て話すことも出来なかったが、2日目には少し表情にもゆとりが出来て、いろんな話をしながら再度写真を撮らせてもらったところ、前日とは違った余裕やリラックスした気持ちも感じられる笑顔が写ったものが多くあった様である。

 子供たちの撮った笑顔の人々の写真は大きく引き伸ばされ、大きなパネル板に長倉さんの世界の大人、子供、幼児の笑顔たちと共に貼り付けられた。
 この大きな合作の世界の人たち、釧路の人たちの笑顔のパネル板を町に持ち出して、誰もが見れる一角に展示して、この写真に関わった人たちだけでなく、多くの市民が見ることが出来た。
 
 子供たちは口々に、やっぱり戦争や貧困など、あらゆる不幸な実態や笑顔の乏しい人々を写真で見るよりも、明るい笑顔の写真を見ることの方が気分もいいし、うれしくなり自分も笑顔になれると感想をのべていたのが印象に残っている。

 私も特に子供たちの笑顔が大好きな一人である。写真家の撮った写真集もよく見るが、自分自身が出会った子供たちのスナップや、3歳になる孫の笑顔は格別である。

 こうした先輩の授業を通して、子供たちが町の人たちに接して言葉をかけて写真を撮らせてもらい、大きなパネルに自分の撮った写真が、長倉さんの世界の人々の写真と同居した大作品になったインパクトは、きっと一生、この子供たちの宝物になり忘れられない大切な記憶となって、彼らのこれからの人生をいろんな時に励まし、応援してくれる贈り物になったと私は確信した。

 きっとどんな人でも自分の笑顔や他人の笑顔の嫌いな人はいないはずである。いつも感謝と喜びの笑顔で人生を過ごせたら、一番うれしいのは自分なのだが、上り坂、下り坂に、たまには「まさか」という坂もある人生を、出来るだけ笑顔で過ごしたいと思うのは私だけではあるまい。

 同志社大学の先輩?としても、後輩長倉洋海氏の、この授業と写真家としての活動に弥栄とエールを贈りたいと思います。ありがとう!、これからも元気に世界中の笑顔を撮り続けて、少しでも紛争や戦争に傷つく人たちが少なくなる地球を目指して活動してくださいと祈るのみである。

 
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本当の個人の尊厳

2004年12月19日 | テレビマスコミ


 今年もあと2週間となり、ようやく朝晩の冷え込みを感じるようになり、冬の到来、年末が押し迫ってきた感じになってきたようである。
 
 今年は10個の台風が日本本土に上陸し、豪雨と暴風の被害も各地でたくさんあった。しかし何と言っても新潟中越地震の被害が大きく、10年前に起きた阪神淡路大震災以来のマスコミあげての、被災情報が連日報道された。

 中越地震の被災では、数日後に発見された車ごと土砂に埋まった母と2人の子供たちの救出活動が大々的にテレビ放映されていた。汚泥に埋まった車の場所が発見されて、救急隊の多くが3人の生存を間接的に確認したと伝えられ、必至の救出作戦に突入した模様だった。

 しかしである。私はこうした生死にかかわる重大かつ微妙な救出作業の実態を、現場から逐次長時間テレビカメラを常時設置して中継していたことに、憤りと共になんとも日本のマスメディアの見世物主義的ないやらしさを感じ、全く遺憾であった。確かに早期救出の期待や望みは誰もが共通のものだったと思うが、突然の地震で被災されたご家族と関係者の気持ちを察すれば、一刻の油断も許されず、かたずをのんで待っておられるのは気の毒で、悲しい偶然とは言え、耐えがたい心境だったと思われる。

 なのに、この救出作業の一部始終をテレビ中継し全国に伝え、茶の間に直接見せる必要が何処にあるのか、私には今も全くわからないのである。

 日本のマスコミは、やはりおかしいのではないだろうか。国民、視聴者に克明に知らせなければならないことを、私は履き違えているのではないかと思う。というのは、こうした一般人、個人の事故、事件で、まだその生死や事件の因果関係や全貌がわからなくても、土足で足を踏み入れるが如く、多くの取材やテレビカメラが突入して、我先にと現場からの取材、報道合戦を繰り返す。

 今回の場合も幼い男の子の被災者は幸い救出されたが、お姉ちゃんと若いお母さんは、残念なことに亡くなられてしまった。結果の生死がどうであれ、一個人や一家族の、こうした被災現場を、どのような救出状態になるかも予想できない状態で、全国放送としてテレビ中継するマスコミ報道の精神が全くわからなし、個人の人権に対する不遜な行為だと断言する。

 確かに、こうした突然に訪れた天災、事故における、被災者の生死は視聴者にとっても気になるところだが、長時間中継で見せなくても、救出されれば報道されればいいし、また不幸にも救出できなかった場合も、状況、結果を伝えればいいのであって、現場からの克明な同時進行的な映像を伴った中継は必要ないのである。野次馬的な傍観者や興味本位の暇人のためのテレビ中継は止めた方がいい。

 これらは結局はマスコミ報道自体が、本当の人権に対する配慮や尊重を怠っていることに通じはしないだろうか。何でも現在進行形で克明に知らせて、説明や解説を観客のような視点でするよりも、客観的な事態、状態の問題点や、今後の展開への期待や解決策に対してのコメントなどはジャーナリストとして、報道されてもいいが、何でも茶の間の観客に見せればいいというものではないと思う。もっと責任を持った本当に見せなければいけない状況や全体の撮影はあってもいいが、個人のプライバシーに関する撮影、直接報道は避けるべきだと思ったのは、私だけだろうか。

 ついでと言っては何だが、マスコミの皇室、天皇家にかかわる報道も全くおかしい。天皇は国民の象徴と日本国憲法に定められているが、元首でも国王でもない。宮内庁が管理する天皇家の人々をの動向を、あまりにも丁重かつ、大事に扱いすぎてはいないか。人間天皇を宣言された昭和天皇以来、皇室関係報道も、天皇家の人々の人権、プライバシーを尊重して、必要最小限にとどめ、新聞やニュースのトップ記事として扱うような配慮のない取り上げ方はやめて、著名人の家族、個人の様に報道すべきだと思われる。

 さて本当の個人の尊重、人権、個人情報保護を、もう一度じっくり考える必要を、私は訴えたいと思う。
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