暖かい師走である。昼間の町を歩いていてると、12月であることを忘れがちになる位温かい。
仕事の関係で、自宅に戻らず昼は外食をすることが多いのだが、市内の限られた食事処を数軒、気分によって替えて立ち寄る。お気に入りのカレーショップや定食屋、そして中華料理のランチを食べさせてくれる大衆的な店とちょっと落ち着いた定食屋など。
いろんな昼食の取り方があるが、時間が無い時や逆に時間がほしい時に、駅前や国道沿いにある、いわゆるファーストフードといわれる、安くて、早くて,美味い?なか卯や吉野やに入ることがある。今日も先ほど、駅前のなか卯で一人豚丼とゆずうどんのセットを590円で食した。
私は外食時はいつも、周辺の同じように食事をする人たちのことが気になっている。というのは、自分もそう見られているのかもしれないが、町中の昼下がりに、家庭や会社の家族や仲間と食事を共にするのではなく、仕事途中の立ち寄りや時間が無いなどの様々な理由があるにせよ、孤食というか、ひとりで食べ物を注文して一人で黙々と食べて帰っていく人が相当に多いと思いながら、あたりを見回しながらついつい観察してしまうのである。
今日も一番先に目についたのは、奥の四人掛けに座って黙々と自分のどんぶりを食べている、男性のお年寄りであった。この人たちは珍しく四人グループであったが、すべて六十代後半から七十代と思われる比較的元気な高齢者である。しかし真ん中の島形のテーブルでは、若い作業員風の青年や学生に混じって、白髪交じりの初老の男性が二、三人各々個別に丼を食べておられた。
隣のテーブルでは老夫婦と思われる男女が向かい合って、ほとんど言葉を交わさずに、うどんと丼を食べている。何ともない普通の光景でもあるのだが、私には昨今の高齢化時代を顕著に物語る場面と思えてしまうのである。入り口付近のレジの前では、近くに住む高齢の男性が、好みの丼を注文し持ち帰り用のビニール袋に弁当の様にして購入していた。
何とも私だけかもしれないが、孤食、孤独、ひとり暮らし、孤立などと寂しい家族関係や地域の
人間関係の希薄さを浮き彫りにさせる様な光景の様に見えて仕方がなかった。
できれば食事は家族や仲間と、楽しく語り合いながら食したいものだが、なかなか理想通りには現実はいかない。
人間いくつになっても三度三度の食事はつきまとっている。そして年をとれば取るほど、食事は大きな楽しみであり、ただの生き続けるためのエサではない。しかし敢えてエサと書かねばならぬほど、現実の食事をする時間や、人間関係、家族関係は希薄になったり、崩壊していたりする様な気がして、ただ義務的に三度三度の時間に口になにやら本能的にエサを運んではいないだろうか。
ちょっとした昼食をとるのに、立ち寄って私自身もひとりで孤食の体であるのだが、周りの人たちの食事をされる表情のなさや、ただ黙々と食べておられる様を拝見していると、ついつい寂しく、暗い状況を想像してしまうのである。なか卯や吉野やが、また多くのファーストフードと呼ばれるハンバーガーや牛丼などのチェーン店の進出に対して、BSE等によるアメリカ産牛肉の輸入制限は今も続いているが、どこの店も客は足を運び、何とか営業し続けている。
これらの状況は、決して若者文化の一端を担っている様な、初期のマクドナルド、フライドチキン等の進出展開の時代から、第二期、あるいは第三期のファーストフード時代に突入したと言っても過言ではない、高齢者の孤食の増加による下支えが大きく影響しているのではないかという観測的見解を持つに至った。
昔チキンラーメンを皮切りに、インスタントラーメン、カップ麺が流行し、今や常識的な携帯食、非常食となり市民権を得ている様に、いつのまにかファーストフードのチェーン店も、大衆の支持と高齢者層の需要に支えられた大衆食として、町に君臨している。ちょっと寂しい様な現実がどこの町にもあり、私自身もその一員になっている様である。