マーベラスS

King Of Western-Swing!!
歌と食と酒、それに声のページ。

余呉湖ぐるりと

2008-05-18 11:36:29 | 



近江塩津行きで大阪より約2時間。すぐそこに福井県敦賀。
一行と待ち合わせの時間より1本先で来たのは、
余呉湖をひとまわりしてみたいから。
宴会は1時間後。一周5㌔、早足で行けば何とかなる、という目論見。



辺りは水田に水が引き込まれ、田植えを待つばかりか。
一帯、蛙の大合唱である。
駅から湖に出て、左回りで歩き出す。



リュックを背負って、せっせと歩く。
すぐに、水路に行く手を阻まれ、ぐるっと迂回。
天気もいいし、腹も立たず。



八重桜が咲いていた。目指すは対岸の村。
そこに酒盛り予定の料理屋がある。



じつに空が晴れ渡り、車がほとんどないので気持ちが良い。
地には花、空にはとんびが飛び交っている。
のんびりしたいが、時間が無い。



湖の10時の位置。ときどき釣り人の姿があり、よほど注意しようか
とも思ったが、もめてる余裕はない。
張り紙でお金を払えば釣り糸をたらしても問題ないと知る。



ほぼ湖のてっぺん。向こうに白く見えるのは余呉の駅。
ピクニックで食事中のグループがいた。そりゃ気分いいだろうな。



集落が近付いてくる。もうゴールは近いぞよ。ラストスパート。



路傍に咲く花に心が和む。


到着、「徳山鮓」。鮓と名乗れど寿司屋に非ず。
ここが伝統の発酵食品、鮒ずしの本山。
汗だくで着いたのと同時に、関西からの一行が車で到着した。
ひと風呂浴びさせてもらい、ずぶぬれのパンツを物干しへ。
いざ、ノーパンで宴会へ突入だ!

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夫婦洋食ポークチャップ

2008-05-16 15:10:22 | 



昼は遠にすぎた。夕食には早い。
そんな時は洋食屋で一品取り、ビールというのもよかろう。
TV画面に相撲中継でも点いてれば最高だ。
ここは四ツ橋通り。西成・鶴見橋商店街。



外からは一見やってるんだか、やっていないんだか判らない。
遠慮がちな営業中の札を見て、エイヤッと入る。

人生の機微も味わい分けるご夫婦がやってらっしゃる。
客はオレ一人。余りにも怪しいので、ポツポツと世話話をしてみる。

この場所に90年住み、戦後すぐの開店という「グリル・マルタ」。
物資不足の時代はうどん屋を営んだという。
マルタ島関係なく、母方の旧姓から○にタとした。

創業者の父親は北新地スエヒロの出身。
戦前、仏料理をしていたプライドがあり、ここでも客に迎合せず、
カタカナの料理を並べ、3年間は客がつかなかったという。



父の代から同じメニューを使っている。
最下行、白ご飯を「ホワイトライス」と書いているのはご愛嬌。
唯一の和名は、「やきめし」。



ポタージュスープ。
奥さんが嫁いだ昭和39年、鶴見橋商店街は怖いぐらいに
賑わっていたという。約1キロの商店街には何軒もの映画館があり、
心斎橋に勝るとも劣らぬ商店街だった。
買い物も食事もここだけで事足りた。
皮革製品に強い鶴見橋。高級革靴を買いに来て、帰りに洋食を
食べて帰るなどのハイカラな紳士淑女が大勢いたそうだ。



ポークチャップ 美味いッ。ビールには相性抜群。
脂が美味いので、食材に気を使っているのが判る。
付け合せのポテサラも丁寧に作られている。

三代目は畑違いに就職したので、この店もご夫婦の代で仕舞う。
人件費も不要、老け込み防止のために続けているという感じだった。
話好きの夫婦二人きりの店。
こういう店はそっとしておいて、ときどき思い出して訪れるに限る。


     鶴見橋商店街 東側   「グリル・マルタ」


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ワイルドなる肉会

2008-05-11 16:52:49 | 

晴れた日曜、北摂の小さな駅、山崎駅前に集合。
とある肉会に参加するためだ。



車に分乗して人里離れた丘の中腹へ。
若い衆が集まって、すでに準備が整っていた。



集まっていたのはある酒造メーカーのみなさん。
ウイスキーの専門家、ビールの専門家、ワインの大家、焼酎の専門家…研究室から秘書室までいろんな業種の人たち。




ボクは身内をたよってのおジャマ虫。濃厚なもみだれに漬け込んだ
イノシシの内臓から。



さすがは酒メーカーだけあって、酒の扱いは手馴れた感じ。
生ビールのサーバーが設置され、もちろんジョッキも。
モンテベッロ シチリアの赤 ネロ・ダヴォラという葡萄が使われる。
グイグイ行ける。



ロースの部分か。牡丹の由来がわかる色彩。
イノシシはこの冬の猟期に撃ちとめられ、冷蔵庫で眠っていた。



塩コショーで十分。臭みなどなし。




水無瀬の焼肉屋の主人が狩人兼任で、彼の好意でこの催しが
続いているそうだ。テールスープは女将の特別料理。



上品なスープ。このテールはイノシシに非ず。
女将が鶴橋まで行って買い揃える牛テール。
シシのテールなど食うところないわ。



牛テールには、牛のミニチュアでおなじみ、トーレスの赤(スペイン)。



肉をさばく主人が自慢する、このサシ。三段バラの部分。
実に脂の色が美しい。指で触ると解ける。





ワインの大家が抜栓したボルドー・ポイヤックの
Chateau Fonbadet 98 残念ながらコルク臭がしていた。
学習のために飲んだが、オレならこんなもんかと思って飲んでしまっている。同じポイヤックのコンテス・デララントではひどい目に合っている。
げに保存状態が重要ということなんだろう。



先ほどの三段バラを。むちゃくちゃ美味い。




残された毛皮が、ただ風に吹かれていた。

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心を乱す肉

2008-05-09 00:20:44 | 

喝ーーッ!にんにくに唐辛子、酒に肉食らうもの
この山門から一歩も入ることを許さずーーー!

ならば山門を出でて、紅い灯青い灯の歓楽街にて、肉を頂戴しに。
坊主でもなし、心が千千に乱れようともかまやしないわけで…。



ここ、阪神間ではちと名前の知れた焼き肉屋だった。
前菜 カリフラワーのマリネ、ブロッコリー、アボカド梅かつお


おっと写真忘れて慌てて、造り 黒毛和牛タン、レバー、ミノ湯引き


黒毛和牛タン、厚切り・薄切り 
料理長が自分のベストの焼き加減で出す。


ミスジ


塩ミノ ポン酢


神戸牛、このサシ。
料理長が寿司屋のように一切れずつ切って焼く。


三角バラ  トロロ芋


ホルモン系が苦手な同行者には、ハツ。粉山椒 有馬山椒煮。


塩テッチャン 白髪ネギ だしにつけて


牛スジ・バラ脂でとったスープ。
一息ついたら、またあの声が聴こえてきた・・・


喝ーーッ!!うぬら、法を犯したることを忘るべからず!
はいはい・・・罪深い子羊だから、このまんま食べ進むことにする。

ここからがメイン。

メインは4種類からのチョイス。少しずつ試させてもらう。
焼きしゃぶ サーロイン


ビーフシチュー サーロイン


ヒレステーキ


炭火焼4種 左からカイノミ、フランク、イチボ、ラムシン


ご飯ものも4種からチョイス。これも少しずつ。牛ごはん


肉茶漬け  牛肉の時雨煮 だし
 


こぶうどん 料理長の実家の味がだしに。 


別注文のカレーライス  玉ネギ、肉の旨みが溶け込んだ素カレー。


バニラアイスクリーム イチゴコンポート



もうね、当分、肉やめます…。


          北新地 新地本通り 「嘉祥」

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食堂百貨の終焉

2008-05-06 21:29:57 | 

戦後、物資不足の時代が過ぎれば、外出して何か食べて帰るというのは庶民の最大の娯楽だった。町場のレストランが少なかった時代、予備知識を持たないお父さんが安心して家族を連れて行けたのは、百貨店の大食堂か、もしくは道頓堀や上野にあった食の殿堂=食堂ビルではなかったか。

      


食都大阪を代表する道頓堀には昭和24年、いち早く「くいだおれ」が開店。追うように昭和30年「ドウトン」が開業。今も旧浪花座向かいにはドウトンビルがあり、モザイク風のタイル張りのビルは新歌舞伎座や日生劇場と同じ、村野藤吾設計らしい。コマソンで知られた千日前の「千日堂」というのもあった。


      


またひとつ大阪の歴史が消える…との新聞の論調もあったが、たかだか60年。道頓堀の歴史から見たら、ほんの60年とも言える。ならばなんで中座閉館の際に騒がねぇんだ!

幼少の記憶によると、くいだおれ人形の後方左上でグロテスクな黒豚
の丸焼き人形が廻っていた! このロイド眼鏡の人形といい、このセンスはやはり常軌を逸している。
黄色い名札は何かと見ると・・・各地の産物だった!


       


“地場産品応援の店”の提灯が吊られ、全国の食材が札に列挙されていた。
そういう地元素材を応援するのと、ギンギラギンのイルミネーションに
くいだおれ人形の派手なストライプが不思議な対比を見せていた。まさにキッチュ、そういう意味でなくなるのは惜しい。


ともあれ、高度成長期に差し掛かる頃、猛烈な大衆の食い気を満たさんがために食堂ビルは林立した。パパはビールに水炊き、ママは八宝菜、お嬢さんはスパゲッティ、坊ちゃんはビフカツ…と、和洋中なんでもござれだったことが最初は呼び物となり、専門料理の時代になるとその看板が重くのしかかったのは事実だろう。


東京にもそんな時代、一軒の食堂ビルが存在した。
昭和34年、上野の西郷さんの銅像下にできた「聚楽台」がそれだ。



       


上野は東北からの玄関口で、集団就職列車の終着点だった。迎えに来た商店主たちに手を引かれるように、中卒者たちは上野に降り立ち、ここ聚楽台でまずメシを食わせてもらったという者も、少なくない。


       どこかに 故郷の 香りを乗せて  
      入る列車の  なつかしさ
      上野は 俺らの 心の駅だ
      くじけちゃならない 人生が
      あの日 ここから 始まった

              (昭和39年「ああ上野駅」 井沢八郎)



         


それにしても「聚楽台」と名乗るセンスはスゴイ。太閤秀吉の聚楽第
からのいただきだ。

金の卵とは経営者側の勝手な言い分である。そうおだて上げ、勘違いさせて、結局のところ安い賃金で過酷な労働が待っていた。
集団就職列車は農村漁村と都心を結び、莫大な労働力を送り込み続けた。そんな彼ら一人一人が歯車となって、戦後の高度成長は推し進められて行った。


       

聚楽台のメニュー「西郷丼」。
  (畏友K隊長、画像お借りしました…)
さつま芋天ぷら、角煮、さつま揚げ1/2、鶏そぼろ、明太子、ほうれん草に温泉卵。税込¥924 

う~ん、関西人には手が出ませぬ。
この色彩…おかんの弁当のようや。


すでに貪欲にメシを食らった大量消費の時代は過ぎ去っている。
今は、料理人の顔の見える小さな店で、少ないお客に上質な料理を提供する時代といえるのだろう。この4月に「聚楽台」が、7月には「くいだおれ」がその歴史に幕を閉じる。


東西で同種の綜合食堂が閉店するというのは偶然の符合ではあるまい。どちらが持ちこたえることができるか、という我慢くらべの数年だったのではあるまいか。よくぞ今まで続いたとも思う。
戦後日本の青春期ともいえる高度成長の遺物が、また一つ、
思い出となって行く。


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