午前中は法事があった。檀家寺の住職として、平素から朝夕の廻向(追善供養)は重要な務めだが、一件一件戸別に営まれる法事では、法話をさせて頂ける有難い環境でもあるので十分な内容は展開出来ていないものの、都度テーマを変えてお話させて頂いている。
今日は真言宗末徒の信仰生活「三密修行」について。弘法大師の御著作『即身成仏義』に、「手に印を結び、口に真言を誦し、心三摩地に住すれば三密相応して加持するがゆえに速く大悉地を得て成仏す」とある。
三密修行は真言宗の僧侶が行う修行としても一貫しているが、それは「人の道」にも通ずることなので一般在家の方々にも是非知って頂き、日常生活で実践して頂きたいと願う。三密とは仏の身・口・意のこと、それに対し私達の身・口・意は三業という。身とは身体、口とは言葉、意とは心のことだ。そして、加持の(加)とは仏が衆生に対する働きかけ、(持)とはその働きかけを受け止めることをいう。
仏様の各尊を拝すると、その清い御身体に様々な持ち物をお持ちになり、印を結ばれている。各尊には各々御誓願があり、常に私達衆生をお救いになられようとしている。
即身成仏義の、印を結び(合掌等)、真言を唱え、心を仏様の思いに致すことが極致になると、覚りを得てこの身このまま仏になるという深遠な教えが説かれているが、これは私達の実生活にも応用することが出来る。
身密は仏様の身体だが、私達は人間という生命の尊さを自覚して、皆が安心して幸せに暮らせるよう努めなければならない。口密は仏様の言葉だが、言葉を正して、説法を社会に生かしてゆかねばならない。意密は仏様の心だが、心の働きを正して、いつも清らかな心で過ごさなければならない。清らかな心は正しい思いを育み、正しい思いは正しい行為へと繋がってゆくものだ。
人間の行動は身と口と心の三つだけなので、これを仏様の三密と照らし合わせ、実生活を輝かせるように送ることが大切なことだと思われる。いかがだろうか。
ところで、今夜大飯原発が再稼働したという。つい昨日も福島第一原発の冷却装置が故障したばかりだ。同じ原発の類が不安定な状況下にあるにも関わらず何故再稼働出来るのだろう。Gikoohには愚行としか思えないし、何故目先の生活ばかりをいうのか。
消費膳の増税にしてもそうだ。中央の中枢は策を誤っていないのだろうか。Gikoohには難しいことは分からないが、シンプルに考えれば、国が大変な時は国全体で「倹約」を柱として策を打ち立ててれば良いのではないか。体制を立て直さないまま、新たな段階へ進むのには抵抗を感じざるを得ない。
三密の教えが何を物語っているのか、一人でも大勢の人に考えて欲しい。
今日は真言宗末徒の信仰生活「三密修行」について。弘法大師の御著作『即身成仏義』に、「手に印を結び、口に真言を誦し、心三摩地に住すれば三密相応して加持するがゆえに速く大悉地を得て成仏す」とある。
三密修行は真言宗の僧侶が行う修行としても一貫しているが、それは「人の道」にも通ずることなので一般在家の方々にも是非知って頂き、日常生活で実践して頂きたいと願う。三密とは仏の身・口・意のこと、それに対し私達の身・口・意は三業という。身とは身体、口とは言葉、意とは心のことだ。そして、加持の(加)とは仏が衆生に対する働きかけ、(持)とはその働きかけを受け止めることをいう。
仏様の各尊を拝すると、その清い御身体に様々な持ち物をお持ちになり、印を結ばれている。各尊には各々御誓願があり、常に私達衆生をお救いになられようとしている。
即身成仏義の、印を結び(合掌等)、真言を唱え、心を仏様の思いに致すことが極致になると、覚りを得てこの身このまま仏になるという深遠な教えが説かれているが、これは私達の実生活にも応用することが出来る。
身密は仏様の身体だが、私達は人間という生命の尊さを自覚して、皆が安心して幸せに暮らせるよう努めなければならない。口密は仏様の言葉だが、言葉を正して、説法を社会に生かしてゆかねばならない。意密は仏様の心だが、心の働きを正して、いつも清らかな心で過ごさなければならない。清らかな心は正しい思いを育み、正しい思いは正しい行為へと繋がってゆくものだ。
人間の行動は身と口と心の三つだけなので、これを仏様の三密と照らし合わせ、実生活を輝かせるように送ることが大切なことだと思われる。いかがだろうか。
ところで、今夜大飯原発が再稼働したという。つい昨日も福島第一原発の冷却装置が故障したばかりだ。同じ原発の類が不安定な状況下にあるにも関わらず何故再稼働出来るのだろう。Gikoohには愚行としか思えないし、何故目先の生活ばかりをいうのか。
消費膳の増税にしてもそうだ。中央の中枢は策を誤っていないのだろうか。Gikoohには難しいことは分からないが、シンプルに考えれば、国が大変な時は国全体で「倹約」を柱として策を打ち立ててれば良いのではないか。体制を立て直さないまま、新たな段階へ進むのには抵抗を感じざるを得ない。
三密の教えが何を物語っているのか、一人でも大勢の人に考えて欲しい。