勝福寺 Gikoohの日替わり法話

山寺の住職、Gikoohが日々感じたことを綴っております。
(プロフィール用の落款は天野こうゆう僧正さま彫刻)

玉葱を収穫

2024-05-30 21:41:15 | Weblog

今日は玉葱を収穫した。毎年200本の苗を植えるのだが、11月前半に植えて、翌5月の後半までの約半年を要す。様々な条件が整ったのかお蔭で豊作となった。

 

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28日はお不動様の日

2024-05-28 21:24:47 | Weblog

約2週間ぶりの日替わりになった。総社は昨晩遅くに時折強雨になっていたけれど、今年も雨が心配な季節が近づいている。Gikoohは強雨が続くと、その度に平成30年(2018)に西日本を襲った豪雨のことが思い出されるのだけれど、檀信徒の総菩提寺の住職として、久代にある神社仏閣の一寺院として皆様の無事を願い平和と祈りの誠を捧げたいと思う。

28日の今日は月並みの護摩供を奉修。毎月同じ所作をしても毎回火焔の雰囲気は異なるのだが、この度は始終清らかに燃え続けた。ご参拝の方々も感動されておられた様子で有難い。その後は堂内の掃除。終われば直ちに掃除をして、次の一座に臨めるように道場の環境を整えよと教えられているので、そのように努めている。

日没の19時前、息子に言われて大きな虹に気が付いた。皆様に良いことがありますように。

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観賢さん(3)

2024-05-14 13:40:23 | Weblog

5月は時候も爽やかなので檀務も何かと多用になっているけれど、合間には仏具を磨いたり寺務を進めたり元気に過ごしている。

さて、観賢さんの続きを。

お大師さまが高野山の廟窟に御入定されて身を留め、今なお衆生済度の慈悲行を行っておられることを一首の詩から察せられた醍醐天皇は深く感動し、御心を決められた。

その1週間後の延喜21年(921)10月27日、勅使少納言平惟助卿が高野山に登嶺して、お大師さまは「桧皮色の装束一式」と「弘法大師」の諡号を下賜された。その時に同席していた観賢さん、そして仁和寺の寛平法皇(宇多天皇)の感涙は計り知れない。嬉しかっただろうと想像される。

詔勅奉告の式が執行されたのち、時の真言長者・観賢さんは帝から賜った御衣をお大師さまに奉呈する為に弟子・淳祐(しゅんにゅう)と寛空と廟窟の扉を開いた。実にお大師さまの御入定から86年後の出来事だ。・淳祐…大本山・石山寺の第三代座主。

入定留身の御影(勝福寺蔵)

廟窟の内部は深い霧に包まれていたけれども、そこには帝が夢枕でご覧になられたお大師さまのお姿があった。ところが、弟子の淳祐にはその姿を拝することが出来なかったので、観賢さんは淳祐の手をとってお大師さまの御膝にそっと置かれたという。Gikoohはこの場面を想像する時、いつも身震いしそうになる。

その手には芳薫が移り生涯消えなかったという。その手で書写した聖経は「薫聖経」(国宝)と称され、代々の座主によって護り伝えられている。

観賢さん達は、お大師さまの長く伸びた御髪をお剃りして、御体を浄めて帝より賜った衣をお取り替えした。

 

『弘法大師物語』(朱鷺書房)には、この時の様子が以下のように書かれている。


大師の御廟より「われ昔、薩埵に遭い親しく悉く印明を伝う、無比の誓願を発して辺地異城に倍す、昼夜に万民を憐れんで普賢の悲願に住し、肉親に三昧を証して慈氏(弥勒)の下生を待つ」とのお声があったと伝えられている。

御廟でのお衣替えの行事が終り、観賢僧正と淳祐と寛空の二人のお供を連れて、玉川に架かる御廟橋まで歩を運ぶと、後から大師が三人を橋の上まで送ってくだされている御姿に気づいた。観賢僧正は恐懼して思わず「南無大師遍照金剛」の言葉をもって大師を礼拝された。大師はこれに答えられて、「われ汝の仏性を送るなり」と言われ、相互に合掌してお別れになったと伝えられている。

以来、大師を供養礼拝する真心の言葉として、「南無大師遍照金剛」は御宝号と呼ばれることとなり、御廟橋を渡り終えた所で、もう一度振り返って、大師と相互合掌して別れるという美しい習慣ができたのである。


真言宗では毎月21日のお大師さま御入定の御聖日を御影供といって、供養の法会を捧げることになっているけれども、3月21日の正当日は正御影供と称して特に大切にしている。

詔勅奉告の式の後、毎年3月21日には御衣替えの儀式が執行されるようになり、これが御影供の根源となっている。

久米寺

 

時代の移り変わりの中で、現在は境内が寂れていることに一抹の寂しさを感じるけれども、一方でGikoohが感銘を受けたのは、地元高松市立鶴雄小学校の田中義人校長先生をはじめ、学校の子ども達、そして有志の方々による「観賢さんを大切に思う気持ち」が強く感じられた。

そして「弘法大師」諡号奏請の背景には、観賢さんや寛平法皇(宇多天皇)の尽力によるところが大きく、所縁のある剃刀塚も国の宝として、後世に伝えられていくことを念じている。

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観賢さん(2)

2024-05-08 22:18:59 | Weblog

photo by kanon

立夏も過ぎて季節は春から初夏へ、元気に天空を舞う鯉のぼりのように、皆様の無病息災をお祈りいたし、Gikoohも健康に暑い夏を元気に乗り切りたい。

さて、観賢さんの続きを。Gikoohは「剃刀塚」のある讃岐の久米寺を訪ねるにあたり、現地の様子を知っていた兄から地元の小学校が発行している(観賢僧正の)冊子を借りて話を聞くなど少し下調べをした。

  

これがその冊子だ。何と趣のある雰囲気だろう。素晴らしい。

観賢さんはお大師さまと同じ讃岐のお生まれで、9歳の時(862)、讃岐に来ていた醍醐寺の開祖・聖宝(理源大師)に才能を見出されて上京。872年に出家・受戒。895年に灌頂を受けている。

後に、東寺長者や醍醐寺2代座主を経て金剛峯寺4代座主を歴任。この間には、高野山・宝亀院や衰微しつつあった真言宗全体の相承と再興に尽力している。

観賢さんは多くの功績を遺されておられるけれども特筆すべきことが、金剛峯寺座主の奉職中に訪れる。時は延喜18年(918)、お大師さまが高野山に御入定されて83年の月日が流れていた。

この時代は醍醐天皇の御代になっており、前代の宇多天皇は政界を引退して寛平法皇となり、仁和寺を創建(888)して住房としてお住いになられていた。

(かつてGikoohが学んだ記憶を辿ると)、先ほども述べた通り寛平法皇はお大師さまを厚く信望されており、観賢さんと共に、何度も醍醐天皇に大師号の下賜を奏上されたという。けれども醍醐天皇も迷われていたのだろうか、勅許されなかった。

ところが、こんな不思議な出来事があった。延喜21年(921)10月21日のある夜、醍醐天皇の夢枕にお大師さまがお立ちになり、

「高野山(たかのやま) 結ぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」

と一首の詩を詠みになられたのだ。これは、「(私は)高野山において衆生救済を続けている。衣は朽ち果てているが、仏心は有明の月の如く世を照らしている」という意味になろう。

これには醍醐天皇の驚きはいかばかりだったろうか。この続きはまた。

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観賢さん(1)

2024-05-04 22:32:10 | Weblog

5月に入り、木々の新緑が眩いほどに晴れの日が続いている。ゴールデンウイークも残りわずかになった。Gikoohはその年により様々だけど、この度は比較的穏やかな日々を過ごしている。

さて、昨日5月3日(憲法記念日)は、香川県高松市の西ハゼ町にある「久米寺」を訪ねた。ここは、平安時代に活躍した高僧「観賢僧正」の御廟と、弘法大師(お大師さま)が高野山に御入定されてから86年後に頭髪を剃られたという剃刀が埋められた「剃刀塚」がある神聖な場所になる。

この話の続きはまた、書きたいと思う。

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ツツジ

2024-05-02 21:58:09 | Weblog

朝から晴れて清々しい1日になった。ツツジが次々と咲きはじめて何とも美しい。

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勝福寺仏教講話、来週11日から。

2024-05-01 21:54:45 | Weblog

しとしとと小雨の舞う1日。今日は外で草刈りも出来ないし、寺務仕事を進めた。

さて、勝福寺では来週5月11日(土)より、今年度の仏教講話を開講する。24年目のこの1年間は、在家勤行次第「おかんき」のお話をさせていただく予定だ。聴講をご希望されるお方は寺までご連絡を。

 

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