3日ぶりの日替わりになった。ここ数日の温かさで、日中は屋外で作業していると汗ばむほどの陽気になった。勝福寺境内にある白木蓮も、平年より約2週間遅く今日開花した。何とも言えない柔らかなシルク色が高潔で、心が洗われる思いがする。
昨日は葬儀があった。枕経(布団で寝ている状態)では遺体を護る所作をし、葬儀では引導の所作をするわけだが、気を高めて拝んでいると必ずといっていいほど多くの仏・菩薩を感じることが出来る。この世と次の世の橋渡し役を担うGikoohにとって、こちらの祈願に対して頷く仏様達を感じられるようになったのは有難く思う。一遍も欠くことなく毎朝水をかぶって間もなく13年になるが、継続は力なりということは、その言葉以上に重い意味があるのかも知れない。
孔子の「吾、十五にして学を志し、三十にして立ち、四十にして迷わず…」というが、どんな世界に身を置く人も孔子の生き方は学ぶことが多いと思う。また、各々の職に就いている以上は感受性の感度を高めておかなければならない。感度が磨かれていれば、自分の職以外の分野であっても応用させることが出来るのではなかろうか。
話をもとに戻すが、近年の葬儀は自宅葬から会館葬にほぼ100%変わった。これは時代の変遷のなかで致し方ないことかも知れないが、人口密度の高い街中の会館へ行くと、どうも平素とは異なる空気を感じることが多い。これは恐らく、近年流行のお別れ会で送られた故人達が多分に影響しているのではと感じていて、気になっている。葬儀を行ってもらえない故人の魂はどこへ行けば良いのか、僧侶や聖職者が関わらないお別れ会はある意味気になる。無宗教という考えはあってはならないと思う。