今日は、日替わりブログで度々話題にあがるGikoohの心の師、木工芸家の故・林鶴山さんが親炙していた鎌倉彫と偏刀彫の名手、故・平賀石泉先生を紹介したいと思う。
(以下敬称略)
『木彫師・平賀石泉』(黒田嘉一郎著)を参照すれば、平賀石泉(1882-1959)は明治15年12月1日、倉敷市藤戸町天城に出生。話が少し余談になるが、現在、天城には県立・天城高等学校という進学校があり、前身は天城中学校(明治39年開校)になる。その起点は、慶応時代まで遡り、池田藩の第一家老・池田由成が天城周辺の発展と活性につとめたことに由来する。明治時代になると「静修館」という学問所を建てられて教育に力を注ぎ、平賀鐓次郎という士族の1人が周辺に有力な私塾を開いていた。彼は石泉の叔父にあたり、石泉は教育環境の中で幼少期を過ごした。
石泉は幼少期から聡明だったという。そして芸術的な才能には特に秀でていた。本人は長じて芸術家として一人立ちすることを望んだが、「教師の道こそ聖職だ」との平賀家の家風に反すると猛反対を受け、岡山師範学校へ進学。明治36年に21歳で卒業。入学後の石泉は、書道や美術の科目に芸術的才能が沈黙することはなく、書道においては師範学校三筆の一人と呼ばれていたほど能書家だったという。
師範学校を卒業後、明治36年(21歳)から同39年(24歳)までの3年間は味野龍王尋常高等小学校、天城高等小学校へ、同39年から昭和4年(47歳)までは粒江尋常高等小学校の校長として奉職し、23年間の教員生活を経て退職した。在職中は毎朝運動場で朝礼があり、平素は無口な石泉だったが、日課の訓話は話題に富み、常に自然体な姿勢が生徒の厚い信頼を得ていたという。
退職に際し更なる昇進を進められ、一旦は藤戸町の収入役に就任するも部下の不祥事の責任をとり二年足らずで職を辞した。その後は書画や木彫に専念する日々を送るようになる。
石泉の作品はもともと趣味から始まったもので、初期の作品は主に親戚縁者に贈られていた。やがて作品の愛好家が増えていき、周辺で頒布会が行われるようになる。天城を中心に児島や茶屋町、八浜、早島、八王子など極めて限定的だったことと、本人が望まないこともあり、石泉の名が全国的に広まることはなかった。
石泉は昭和34年4月に78歳で永眠するが、亡くなる一年前まで、書・画・彫の三道を愛し、刀を執り彫り続けたという。遺作には茶盆や香合など煎茶道具が多く、他にも茶卓、菓子器、机、錫など多岐にわたる。図柄は四君子や日常生活周辺にある虫や魚、菜果など親しみやすい作風が特徴だ。
Gikoohは林鶴山さんが慕っておられた木彫家・平賀石泉先生の人柄と作品愛好家でもあり、また不思議な縁もあり、寄進頂いた作品やGikoohが求めた作品も含めて何点かのコレクションがある。今日はその中から少しご覧頂こうと思う。お道具というものは、飾ると空間が上品になり、眺めると感性が豊かになり、使えば精神が高まるので、今の不安定な時代だからこそ、文化的な生活をお勧めしたい。
さて、煎茶道の世界では、錫の茶卓は最高峰に位置付けられているが、この茶卓は、錫という素材い菊や松ぼっくなどを彫り、漢詩が添えられている。
次に、これは香筒といってお線香の入れ物だ。竹の胴体には海老と漢詩が彫られている。堅くて細丸い竹に施された作風に超絶技巧を感じる。
次に、この画は海老とめだかが描かれている。海老の特徴が見事に捉えられていて、眺めていると清涼感が目に浮かぶようだ。
と、今日は文化的な話題にしてみた。