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村絵図を歩こう -近代編ー  (現地学習)

2015年09月10日 23時43分31秒 | 各種講座

先週は座学でした。
今日は、村絵図を歩こうの現地学習の日となっていました。
歩こう会で山へ行く日の予備日となっていましたが、山へ行くのが中止となって、コチラに参加できるようになりました。
各務原市中央図書館へ9時に集合しました。


中央図書館の前です。
今日の参加者は10名です。
ここから街歩きがスタートします。




図書館を出て西へ歩き始めました。




今日、街歩きする那加駅前。
昭和35年頃の那加駅前の地図です。
駅前には商店が並び活気が有りました。




街角に立ち止まって佐藤先生が説明しています。




この角は、かつて那加東映が有った場所です。今では床屋と花屋になっています。今の状態で、ここに映画館が有ったとは、信じられません。ただ、電柱が残っていて、当時の写真と照合すると映画館が有ったのだと想像出来ます。
子供の頃に母親に連れられて映画を観に来た事が有ります。
日活の映画で赤木圭一郎が出ていましたが、タイトルは覚えていません。2本立てでして、もう1本は東映の作品で新吾十番勝負、二十番勝負と言う映画で大川橋蔵が出ていました。昭和34年か35年の頃でした。
この場所が那加東映となる前は翼館と言う映画館か芝居小屋でした。映画を上映していた時に、親と来た事が有ります。2階が有り、2階は畳敷きでした。




街中を歩いていて、思わぬ人に出合いました。
オバアさんですが、Iスポーツのオバアさんでした。
私が名乗りましたら、チャンと覚えていてくれました。何時までも健康であって欲しいと思います。




コースから外れましたが、ここは日之出町のお稲荷さんです。
子供の頃に、ここで紙芝居を観た覚えがあります。
オジサンが紙芝居の箱を自転車の荷台に乗せて、やって来て太鼓を使ったりして、紙芝居を上演したのです。お金を持たずに来た子には後ろで観るようにさせ、観るなと言う様な意地悪なことは有りませんでした。
一緒に歩いていた人に、このことを話しましたら、水飴を練って、透明から白く変わったといっていました。同じような年代です。同じような思い出が残っているのでしょう。
あの時。自転車の荷台に箱が付いていました。引出し式になっていて、引出しの中に水飴や菓子が入っていました。紙芝居の舞台はパタンと倒せるスタイルでした。上演する時には、立てて紙芝居を見せたのです。今、その箱が有ったら、文化財ですね。
向こうの建物は日之出町の集会所です。あの頃は木造の建物でしたが、建て替えられました。この事にも、時の流れを感じます。




この先が一六市が立ったところです。
一六の字が示すように一と六の付く日に市が立ちました。




今では営業していない大衆食堂です。
市呂久の字が付いています。
一六市にちなんで名付けたのでしょう。
楽自慢と言う酒の銘柄。お酒も提供してのでしょう。



右側から観たのと、左側から観たのです。
左側には、字がかすれて居ますが、おでんの字が残っています。




ここでも、立ち止まって、説明を聞きます。
家屋の看板に「藤屋 モスリン店」とあります。
藤屋は確か、呉服屋だった店です。今では廃業していて、看板だけが昭和の顔を残しています。時間が経ち今となっては、文化財的な価値が有るのかも知れません。




一六市の通り歩きます。
かつて、1日と6日に人々が往来して賑わった通りです。今の状態からは、当時を思い浮かべるものは何も有りません。
両側の花壇となっている部分を屋形と読んでいました。床とトタン屋根が有るだけの建物が立ち並んでいました。その屋形の部分が花壇となっているのです。




一六市の通りに向かって、何を話しているのでしょうネ。
コチラの女性。
神田屋さんの女将さんです。
神田屋さんは今も商売を続けています。ガラスと氷の店で、祭りでカキ氷が要るなら神田屋へとなっていました。
一六市が賑わったころの事を聞いているのでしょうか。




今尾薬局の見える場所まで歩いてきました。
右側の写真で左上に見えるのが今尾薬局です。建て替えられた建物となっています。



本町通りを歩きます。
浅野屋の前に来ました。




浅野屋のやり手のおネーさん。
勧め上手で一緒に歩いていた人がブドウを買いました。




本町の秋葉神社へ来ました。
左側の白いのは、本町のテントでした。
何か、行事に使ったのでしょう。濡れていて、乾して有りました。




那加町が空襲を受けたときを記録する石柱です。
今尾義祐さんが個人で石柱を立てました。
何度か空襲が有りましたが、昭和20年6月22日に大きな空襲が有りました。
そしてこのあたりは爆撃を受けました。
この6月22日が各務原市の平和の日となっています。



那加駅まで歩いてきました。
丁度、特急が通過します。




那加駅を後にします。
歩いているのは本町通りです。
歩道が設けられ道幅が広い通りとなっています。



新那加駅まで歩いてきました。
ここには、かつて名鉄パレと言うショッピングセンターが有りました。
ショッピングセンターが進出してきたのですが、その後に郊外にスーパーが出来るようになって廃れてしまい、廃業して、その跡地はマンションに変わりました。




一緒に歩いていた人の知り合いのオバアちゃんです。
アレアレと言った感じでした。
コチラのオバアちゃん。93歳になったと話していました。




旧国道21号線です。
那加バイパスが出来て、交通緩和がなされました。



今の旧国道21号線とかつての21号線です。
何年に渡道橋が出来たのか判りませんが、右側の写真は渡道橋が出来る前のモノです。
各務原郵便局や岐阜信用金庫。位置は変わりませんが建物の姿が変わりました。




各務原市民公園を正面から見ました。
この市民公園。かつて岐阜大学の工学部と農学部の校舎が有りました。




街中を歩いて来て、最後となりました。
館長の挨拶で終りとなりました。




那加町には陸軍の兵隊に面会をしに来た人が泊まった旅館が何軒か有ったが、今では2軒だけになったと、佐藤先生が話していました。岐阜大学が有った頃には学生がいて賑わっていましたが、大学が岐阜市に移転して、学生の姿を観る事が無くなりました。
稲羽地区の三井町や小佐野町の人は那加駅前の事を「那加駅前」とか「駅前」、「那加駅」と呼んでいました。稲羽地区は商店の数が少ない地域です。各務原台地の上と下。下の方からは憧れ的な気分が有ったのかも知れません。今回、街を歩いていて、誰かが言っていました。稲羽から来て一六市で買い物をして、市呂久で飯を喰って帰る・・・・・。
それが当時のレジャーだっのかも知れません。
一六市が廃止となり、学生の姿が見えなくなり、町が廃れていきました。
今日、歩いた地域で、洋菓子のランタン。喫茶店のブルボンが店を閉じていました。丹羽薬局もシャッターが下りたままです。
街の変貌を観てきたのが、那加駅です。高山線が開通して出来た那加駅。駅前の通りが商店街に変わっていくのを観ていました。そして、出征兵士が戦地へ出向いていくのを見届けたのも那加駅です。その姿も近代的な駅の姿に変わりました。

「村絵図を歩こう」講座。1回目が座学。2回目が現地学習でした。
2回だけの講座でありましたが、懐かしく思える部分も有り、面白く学ぶ事が出来ました。

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