Kオジサンの気の向くまま

日々のあれこれ・・・・・思いつくまま

もうすぐ、高校野球。   岐阜県大会開幕

2015年06月28日 22時19分26秒 | 小学校・中学校・高校

間も無く高校野球の県大会が始まります。
今日は日曜日ですが、野球部が応援練習をしていました。

話が前後しますが、我が家の直ぐ近くに県立各務原西高校が有ります。
窓を開けていると、応援練習をやっている彼らの声が聞こえてきます。


校庭の隅でやっているのですが、声が聞こえてきます。




トリミングしました。

高校野球が近付く。
これも夏の風物詩なのでしょう。

息子がこの高校に通っている訳でなく、全く関係ありません。
でも、西高の近くに住む者として、まず1勝を上げて欲しいと思っています。

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歴史街道を歩く会 6月例会  一乗谷朝倉氏遺跡、北の庄城跡、丸岡城

2015年06月27日 22時33分48秒 | 歴史街道を歩く会

「歴史街道を歩く会」の6月例会に参加しました。
歴史街道を歩くと言いましても、今回は一乗谷朝倉氏遺跡、北の庄城跡、名勝養浩館庭園、丸岡城を訪ねるものでして、線では無く、点を巡る旅となりました。
生憎の雨の中でしたが、地元のガイドボランティアが説明に当たってくれ、とても参考になりました。

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡は国指定特別史跡。国指定特別名勝。国指定重要文化財と三重の指定を受けています。日本最大の戦国時代の城下町になるのではないかと云われています。天正元年の信長との戦により、すべてが戦火で消失しています。
土に埋もれてしまった一乗谷ですが、昭和42年から発掘調査が行われ、多くの遺品が出土しています。そして発掘調査された遺構が復原町並として甦っています。



一乗谷朝倉氏遺跡を歩くのに、ボランティアガイドをお願いして有りました。
生憎の雨です。
ガイドの田中さんにスタートする前にバスの中で説明を始めました。



こちらが復原町並の入口です。
これから、ボランティアガイドに先導されて入場します。



復原町並を歩く前に、一乗谷朝倉氏遺跡の配置図を使って全体の概要説明です。




復原町並の中を歩きます。
戦国時代の家並みが復原してあり、歩いていると、戦国時代にタイムスリップしたような気分にさせてくれます。




こちらは復元された家屋の中です。




こちらは染物屋が復原して有ります。




復原町並の中を歩きます。
当時を思わせる姿の人たち。
私たちを見送ってくれました。
ここは、何か商いをしている店でした。
商家の中までは入りませんでして、買い物はしなかったので、申し訳ない気分です。




ここは瀬戸物屋か磁器の店か。茶碗の店です。
商家の内部を再現しています。




こちらは、広い武家屋敷跡です。






これから唐門へ入ります。




義景館庭園跡です。
雨の中。
ガイドは傘を差さずに説明してくれました。




義景館跡を見下ろします。
凄く広い館跡です。

大きな屋敷が火事で燃えてしまっても、礎石からその屋敷の大きさを想像できます。




諏訪館庭園跡。
ここも土に埋もれていたのが発掘されました。
巨岩に一つ一つ意味が有ります。




入口の場所へ戻ってきました。
ここで、おろしそばを食べました。




左側。店の中ですが、中央に有るステンレスの容器に出し汁が入っていて、既に大根おろしも入っていました。食べる時に大根おろしを乗せ、出し汁を掛けるものと思っていましたが、既に出し汁に大根おろしが混ぜてあり、期待ハズレでした。




一乗谷の城下町想像図です。
当時は栄華を誇ったことでしょう。


信長の軍勢の攻撃を受け壊滅的な状態となった一乗谷の城下町ですが、昭和42年かか発掘調査が進められ、出土物から想像して染物屋や茶碗屋が復原されていました。
何もかもが焼けてしまつた訳ですが、焼け残った物から当時の状況が想像できたのでしょう。

朝倉氏遺跡の案内ボランティア。田中さんに説明を受けながら、雨の中、広い遺跡を歩きました。すべてが灰燼と帰した朝倉氏遺跡ですが、遺物から当時を再現してあり、歴史のテーマパークだと言えます。この遺跡から出土したものが、近くの福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館に展示して有りますが、年に1度の薫蒸の日と言う事で休館日となっていました。
訪ねたのが土曜日です。出土資料を薫蒸するにしても、平日や休館日に行えばと思いました。
ここ、朝倉氏遺跡でアノ、白い犬のCMが撮影されたと説明していました。


北の庄城跡

北の庄城跡・柴田公園の配置図です。





北の庄城跡では、先ほどの田中さんが、雨の中、待っていてくれました。
田中さんは朝倉氏遺跡のボランティアガイドと福井市のボランティアガイド。二つの肩書きを持っています。
朝倉氏遺跡で説明した後に、自宅に戻り着替えをして、出直して来てくれました。




北の庄城の想像図です。
巨大な城でしたが、福井城を築城する際、石垣に北の庄城の石が使われたそうです。
それでも遺構は残っていました。




北の庄城跡の石碑。
平山郁夫が揮毫したと書かれています。




こちらは柴田勝家のブロンズ像です。




北の庄城跡には、お市の方と三姉妹のブロンズ像が有ります。




福井駅前の地図です。
上には「ふくい歴史街道」なっています。
福井駅前をウオーキングするコースを捉えているのでしょう。
今回は点と点を結ぶコースでしたが、ここに来て「歴史街道」の文字を目にする事が出来て良かったです。




福井市の中心部の地図です。




先ほどの田中さんがバスに乗り込んで説明してくれます。
北の庄城跡を出たバスは次の目的地、名勝養浩館庭園に向かいます。
車中、車窓からの風景の説明が有りました。



ガラスが雨滴で見難くなっていますが、こちらは福井駅の西口です。
北陸新幹線の延伸に合わせて工事が進んでいます。



福井県庁は福井城址の中にあります。
雨で見難いですが石垣と濠は確認できます。
このように城址の中に県庁が設置されたのは福井県と佐賀県だけなのだそうです。静岡はどうだろう。
金沢城の中に金沢大学の一部が入っています。
城址に兵舎が設けられたようなケースも有ったと思います。

名勝 養浩館庭園

名勝養浩館庭園のパンフレットです。




ガイドの田中さんに案内されて、名勝養浩館庭園へ入ります。




園内の数奇屋造りの屋敷。




御湯殿。
お風呂です。




御風呂の内部です。湯気に寄る蒸し風呂です。
ガイドに質問しましたら、下に有る大釜で湯を沸かして、湯気を立ち上らせるのだと言う説明でした。
板の隙間から湯気が上がってくるのでしょう。




御風呂の前の御上り場です。
板の間で床に傾斜が付けてあります。

蒸し風呂でフィンランドのサウナみたいなものでしょう。
殿様はここで手を広げ、立っているだけで洗って貰えます。




御上り場の中央には木が横になっています。
風呂を使う時は木を取り外すのだと教えてくれました。

今の私たちの感覚で言うと、風呂は湯船が付いているものだと思ってしまいます。この時代は蒸気の蒸し風呂です。このような風呂は何処の家にもあると云う物でなく、極、限られた人が入れたのでしよう。
このような風呂に入る。
当時は風呂に入る事が贅沢だったのでしょう。
このような風呂で使ったのが浴衣だと云う説明も有りました。




御座ノ間です。
ここから見える庭が良い景色です。
ここから見える庭園。
気分は殿様です。
隣の部屋は御月見ノ間です。
月見で直接、月を愛でたりしますが、池の水面に写る月を愛でたりも、したのだそうです。




外の庭園に出て説明してくれる田中さん。




名勝養浩館庭園は江戸時代に「御泉水屋敷」と称されたと有ります。
導水してこられた水が湧き出ています。




雨の中の名勝養浩館。


この後、ボランティアガイドの田中さんとは、名勝養浩館庭園の駐車場で、お礼を述べて分かれました。
園内の説明する音声ガイドを受付で借りれるようですが、田中さんから詳しい説明が聞けました。
雨の中を引率して貰え、有り難かったです。



丸岡城へ

最後は丸岡城に寄りました。



ここで入場券を買い求めます。




丸岡城。




一筆啓上の書簡碑。
丸岡城に二度来ていますが、この場所に碑が有ったことに気が着きませんでした。




城から見える城下。




一筆啓上賞の入選作品が展示してあります。
第22回のテーマは「花」となっています。




一筆啓上賞の趣旨説明です。33,236通の応募が有ったと書かれています。
大賞の日本郵便株式会社 社長賞の作品です。日本郵便が後ろ盾になっています。当然、作品の応募は郵便に限られることでしょう。
このような状況。メールは便利でありますが、味気無いと言えます。




一筆啓上茶店で食べた「越前おろしそば」です。
おろしそばですから、大根おろしが付いているのかと思いましたが、付いていませんでした。出し汁の中に大根おろしが入っていたのだろうか。大根おろしが入っているようには感じなかったのです。
思っていたのとは、違っていて期待ハズレに感じました。

朝倉遺跡のおろしそばと言い、この越前おろしそばと言い。期待ハズレでした。越前おろしそばの名を用いる店には、店頭にステッカーを貼るとかして、「越前おろしそば」のレベルの維持が必要なのではないかと思います。





今回は雨の振る中を一乗谷朝倉氏遺跡、北の庄城跡、名勝養浩館庭園、丸岡城を訪ねました。何年か前に朝倉氏遺跡を訪ねた事が有ります。その時は、現在ほど整備がされていませんでした。復原町並が並び、戦国時代の城下町でテーマパーク的な雰囲気が有りました。
新幹線の延伸で駅舎の改修工事の進む福井駅。
田中さんは新幹線が早く来ることを待っていました。

今回、ボランティアガイドに一乗谷朝倉氏遺跡、北の庄城跡と名勝養浩館庭園をガイドしてもらいました。
しっかりガイドして貰え、良く判りました。
今日のような悪天候の中でのガイド。有り難い事です。

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歴史勉強会 ヒストリー各務野会  「蜂須賀小六伝」

2015年06月26日 22時42分29秒 | ヒストリー各務野会

今日は第4金曜日でヒストリー各務野会の定例日です。
今回のテーマは、「蜂須賀小六伝」でした。
先生は倉橋 寛さんと言う方です。中日スポーツの4コマ漫画を執筆しておられる方だと紹介が有りました。この度、「卍曼荼羅」と言う小説を執筆されました。その中に取り上げているのが、蜂須賀小六です。小六は尾張川(木曽川)の川並衆として活躍していました。そんなかれの生涯を捉えた物語です。


資料として活用された「まちづくり江南市民会議新聞」蜂須賀小六・前野長康 特集号です。



お話が始まった所です。
皆さん、しっかりと聴講していました。



こちらが、先生が執筆された卍曼荼羅です。



ホワイトボードを使っての解説です。

6月6日に名古屋市緑区をウオーキングしました。その時に訪ねた場所に大高城や鳴海城。鷲津砦や丸根砦があります。桶狭間の合戦の前に鍔迫り合いが有ったりしました。
先生が話した事柄で、義元が侵攻して来た時、今後は義元がこの地の領主となると貢物を持って小六たちが陣へ挨拶に訪れたとか。
あの見てきた緑区の地と、今日の話が結びつきます。色々と想像するだけでもロマンが膨らみます。
そのような事が歴史を学ぶ面白さです。


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航空自衛隊岐阜基地見学ツアー

2015年06月24日 21時30分24秒 | 見学

「NPO団体各務原まちづくり」が岐阜基地を見学するツアーを催すと、市の広報誌に載っていました。定員は40名となっていて、往復はがきて゛申し込むようにとなっていました。
夫婦連名で申し込みましたが、40人のワク内に入る事が出来ました。


各務原市の地図です。
岐阜基地は市のほぼ中心に、位置します。



集合場所は各務原市の産業文化センターです。
飛行機に興味のある人が多いです。ご夫婦か単独の男性で、男の人が多かったです。



1キロほどを歩いて岐阜基地の正門に向かいました。




部隊の表札が下がっています。
岐阜基地には、これらの部隊が所属します。






広報の人に案内され、門を通過します。




南地区の部隊配置図です。




警衛所の裏側に軽装甲車が並んでいます。
これらの車両は警務隊のものです。




まず、最初に案内されたのが、広報講堂です。




広報講堂の中です。
ここではDVDで航空自衛隊、岐阜基地の概況説明が有りました。
東日本大地震では、災害派遣で岐阜基地からも隊員が向かったと説明していました。




次は広報館の見学です。




飛行機の色々の部品が並んでいます。




こちらはC-46のコクピット部品と機体の写真です。




こちらはジェット機のエンジンです。




続く部屋ですが、この部屋は旧軍関係の資料が並んでいます。




展示機の見学で屋外へ出ました。
この飛行機は零式三座偵察機です。
千葉県の館山沖の海中で発見されたもので、この基地へ運ばれて来ました。




屋外展示機を自由に見学し、11時に集合するようにとの事でした。




バラバラに分散し、自由に飛行機を見学します。




こちらはF104です。
エンジンが取り除かれています。



F104の説明プレートと撮影する人。




こちらは大きなC-46です。
輸送用に使われました。




これからバスに乗ってきた地区へ向かいます。




バスの車窓から。
滑走路が見えます。
滑走路は2,700の長さで、〇〇バリヤーが有りますが、〇〇バリヤーは飛行はがオーバーランしたときに止める設備だそうです。岐阜基地では、この〇〇バリヤーで飛行機が停止したことは1度も無いと話していました。




案内をしてくれた川口三曹です。
2DEP。第2補給処の基地渉外室に所属するママさん自衛官です。





バスで北地区へ来ました。
この先には飛行機が並んで居ますが、撮影が禁止となっています。

F-15JやF-4Jが駐機しています。
間近な場所で実機を見る事が出来ました。
エンジン点検をしていたのでしょう。
凄い、爆音がしていました。
この後、離陸するジェットを見送り、南地区へ戻りました。



南地区の隊員食堂へ来ました。
入口には帽子が掲げて有ります。




隊員食堂へ入りました。
多くの隊員が食事をしていました。
私たちが入っていくと、みんなの視線がコチラに向きました。
姿から外部の人だと判っていても、多くの人が訪れたのですから注目を受けました。




プラスチックの盆を手にとって割きに進みます。
今日はカレーですので、お茶の出番は有りませんが、好みの茶葉を選べるようになっています。
なお、私たちに麦茶が運ばれてきました。




順路に従って進んでいきます。
もう、皿にカレーが載っていますが、量を増減してもらえるのかと聞きましたら、応じてもらえると応えてくれました。




今日のカレーの昼食です。
サラダの皿にハムと生野菜が乗っていまして、それにゆで卵とオクラを4本取るようになっていました。
福神漬けやラッキョも好きなだけ取れました。
パック牛乳やコーヒー牛乳を1本取るようになっていました。
これで、394円なのだそうです。
若い隊員の栄養バランスを考えた献立なのでしょう。



見学者がずら~と並んで昼食を戴きます。




テーブルに有った今週の献立です。
読み難くてスミマセン。
基地の中。営内で生活する隊員も居るからでしょう。
朝食や夕食もメニューに載っています。



最後に向かったのが、厚生センターです。




厚生センター。BXとも呼んで居ます。




こちらが内部です。

大きなコンビ二のようです。
入札制度にしているのでしょうか。
担当するコンビ二を変えたらお土産品の種類が増えて好評だと云っていました。



自衛隊グッズが並んでいます。




こんなネームのお菓子が並んでいます。




自分のお土産用に買って来たものです。










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今日は父の日でした

2015年06月21日 22時56分36秒 | 日記

今日は父の日。先々週に長男から上善如水が。そして次男からカツオ節削り器が届きました。







お酒を美味しく戴きました。

カツオ節削り器は、カツオ節を削って何かの料理に載せ、味わってみます。

有難うございました。

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もう直ぐ引退 キハ48

2015年06月18日 23時55分56秒 | 日記

名古屋から帰りに乗車した列車はキハ48でした。
キハ48達は、40系と呼ばれています。

昨年、12月から美濃太田列車区のキハ11とキハ40系が新型車両の更新でミャンマーへ輸出されたり廃車となったりしています。このキハ48。高山線の美濃太田列車区に属していますが、今月末で現役から退くようです。


那加駅が近づいてきました。
高山線は単線ですので、駅毎に待避線が設けてあり、ここで反対列車とすれ違います。
ホームで待っているのは岐阜行きのキハ75です。



2番線下りホームに着きました。
猪谷行きです。



跨線橋から見えるキハ48。
多くの人が下車しました。



ホームから離れて行くキハ48です。



キハ48を見送って。

岐阜駅発が16時15分の各駅停車の猪谷行きです。
1駅1駅停まりながら、猪谷駅へ向かいます。
猪谷の到着は20時59分です。午後9時近い時間。
4時間44分掛けて終点までは知ります。
途中では特急に追い越されて・・・・・。
もう、間も無く引退するキハ48。何年製なのだろう。お疲れ様と言いたい。


おまけ

我が家からJR那加駅の列車が見えます。
那加駅では登りと下りの普通列車がすれ違います。
大体、25分頃と55分頃です。
それに今は南風の時期ですので、ディゼルカーのエンジン音が良く聞こえます。
この風景も、間も無く見えなくなります。ここに特養が出来ますので。



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6/18、新堀川源流探訪 堀留水処理センターを見学

2015年06月18日 23時26分14秒 | 見学 ゆうゆうなごや

ゆうゆうなごやの6月例会に参加しました。
今回、地図に載っていない源流を訪ねましょうと言われ、ン!上流から水が流れて来ているのにと思いました。これは私の勘違いでした。上流が有るのは堀川で、今回の水源となっているのは新堀川でした。新堀川は、元々は精進川と言う川でしたが、新堀川に付け替えられました。運河的な性格を持ち、材木の運搬に利用され沿岸には何軒か材木問屋が並んでいます。
そんな、新堀川の源流として処理した水を流しているのが堀留水処理センターです。
都会の中の下水処理場ですが、昭和3年に着工して昭和5年に完成した旧施設は現在も稼動しています。その処理方式はバクテリアで浄化するものであり、当時としては最新の技術を用いたものであります。その施設も時代の流れで拡張をせざるを得ませんでしたが、土地を有効に活用するべく地下設備となっています。


名古屋市上下水水道局のパンフより、引用しました。
水処理センターとそうで無い部分に区分されて居ます。
右上の芝生広場でアメンボの場所が旧施設です。なお、このアメンボは名古屋市のマンホール蓋のデザインとなっています。左側の木が茂っている場所が昭和48年に完成した新施設です。都会の真ん中の水処理センターで地下式となっています。フラリエの南側も地下処理施設で地表部は公園になっています。
若宮大通りの下まで利用されて居ます。




名古屋市上下水水道局のパンフより、引用しました。
下水処理のしくみを解説しています。
一番左の図に有るように家庭からの下水管で送られてきた下水が、沈砂地、最初沈殿地、反応タンク、最終沈殿池へと進み、消毒槽で滅菌して、処理水として放流しています。
図の下に表示されているように、久屋大通庭園「フラリエ」は下水処理の熱エネルギーを利用したヒートポンプを用いて冷暖房を行っていると書かれています。私が聞き漏らしたのかも知れませんが、地下の処理場の余熱を利用していることを言って貰えたら良かったと思いました。



名古屋市上下水水道局のパンフ、「なごやのすいどう・下水道」より、引用しました。
名古屋市には16の処理区と15の水処理センターがあります。名古屋市の地形が北東部が高く、南や南西方向へ流れていきます。


堀越水処理センターへ

みんな、揃って堀留水処理センターに入りました。




見学者は3階に上がり、説明を受けます。




案内されたのは展示スペースの部屋です。
この部屋には解説パネルが展示してあり、下水処理のしくみを説明しています。この部屋ではDVDを使って、Uさんの説明が有りました。




DVDの内容ですが、左側は若宮大通や久屋大通庭園の地下を利用して処理センターが設けられていることを説明していました。右側はここの施設の特徴で1.建設場所が都会の真ん中だと言う事。2.限られた敷地なので、処理水を送る水槽が階層的なっている事。3.終臭気策が図られている事。4.大雨の浸水対策が取られている事。5.初期の雨水は埃りを含んだ汚れた水です。その水を取り入れて処理を行う。
このような事がここの処理センターの特徴だと説明していました。



全員が借りた黄色いヘルメットを着用して屋外に出ました。




こちらは、ここ堀留水処理センターの記念的モニュメントです。
左は開業当時のポンプです。右は銘盤に下水100年の意義が書かれ巻末に市長の署名が乗っています。




同じ場所には、処理した水が流れ出ており、下水再生水の説明板画取り付けてありました。




こちらはこの施設の開業当時の模様を説明しています。




左は現在の姿です。右は開業当時の姿です。
右の写真で、煙突が立っています。係員に聞きましたら、これは煙突でなく臭突と言うのだそうです。開業冬至はし勇気を拡散させるのに高い臭突でしたが、現在は高くない臭突となっています。設備改良で臭気を回収するようになり、高い臭突を設ける必要がなくなったのでしょうか。




Uさんの説明で水槽を見下ろします。




水が流れています。




こちらの水槽。
処理した水です。
左側をトリミングしたのが右側です。
鯉が泳いで居ますが、判るでしょうか。




左は旧施設の外観で、右は旧施設の屋内です。
昭和五年の完成ですから85年を経過していることになります。
この施設。太平洋戦争の空襲をも、見てきたことでしょう。
それを修理して来て今日の姿があるのだと思います。




新施設の地下処理施設部分に移動しました。
この地図は堀留水処理センターの担当区域図です。
低区処理区域と高区処理区域に別れ、低区からはポンプアップしてセンターへ来ます。広い担当区域です。区域内に繁華街があり、油汚れの水が流れて来ると話していました。




下水管から流れて来た水で、最初に処理する場所が沈砂池です。




図を使って説明してくれるMさんです。
右のボトルには、流入水、汚泥今後薄い、処理水へと変っていく様子が判ります。




下水処理水の比較です。
BOD値(生物化学的酸素消費量とも呼ばれる一般的な水質指標のひとつです。)が低くなれば綺麗な水だと言えます。




次の最初沈殿池に向かいます。



最初沈殿池の説明です。



最初沈殿池の上部には蓋が乗っています。
点検で下へ入ることが有るのでしょう。
入るハッチには「酸欠注意」と表示しています。そして「H2S」と書かれています。H2Sは硫化水素で危険なガスです。恐らく、ここの場所には酸素マスクが常備していることでしょう。
注意して行動しないと、労災事故に繋がります。



Mさんに質問をしています。




ず~と奥まで最初沈殿池が見渡せます。



掻寄機の部品と掻寄機。
ギヤが廻り、チェーンが動きます。そして板が動いて、沈殿した物を掻寄せて来ます。




最初沈殿池から反応タンクへのゲート。
こちらも奥まで見渡せます。




反応タンクの中。
係員が蓋を開けてくれましたが、中は泡立った水がかき回されていました。




最終沈殿地へ向かいます。




最終沈殿池の説明と最終沈殿池の様子です。
綺麗な水に変ってきています。
凹凸となった部分から綺麗な上水が流れ出します。


次に向かいます。




こちらはガラス水槽の中で泡を発声させています。
左は合成樹脂製散気装置で、右側はセラミック製散気装置です。右側のセラミックから細かい泡が出ていました。




見学のルートを廻りまして、出口に向かって行きます。
「頭上注意」と有り、このような場所が有りますからヘルメットを被らなくてはなりません。




外部が見えてきました。
施設から出ます。

下水がこの水処理センターへ来て、処理した水として放出するまでの工程を、ざっと、見学しました。汚れた水が綺麗な水になるまでの工程です。聞きましたら、綺麗な水にして放流するまでに半日の時間を要するのだ教えてくれました。
この後、展示スペースの部屋に戻ってから堀留水処理センターを去りました。




フラリエへ

都会の中の庭園。
フラリエへ来ました。



フラリエの池です。
堀留水処理センターの処理水が流れ込んでいます。



池へ流れ込む処理水です。
透明できれいな水。
無色無臭となった水です。
堀留水処理センターから放流水を新堀川へ放流する所が見たかったです。でも、これも再生した処理水です。汚れた水が綺麗な水に変った事が判ります。



フラリエに向かいます。




フラリエのカフェーへ入ります。




フラリエの中の温室。
この温室が堀留水処理センターからの熱で保たれているとは知りませんでした。




フラリエのカフェー。
セルフサービスで、カウンターで注文し、受け取って椅子に座りました。


今回は下水処理場の見学でした。下水処理場と言うとダーティなイメージに繋がります。それを避けたのでしょう。名が堀留下水処理場から堀留水処理センターへと変っています。

場内を見学してから再び展示スペースの部屋へ戻りました。見学はとても参考になりましたが、見学者の理解度を測るため抽出的にアンケートを求めても良いのではないかと思いました。
今日はシャワートイレが当たり前の時代ですが、見学したような水処理場が有るから快適な生活が送れます。ありがたいことです。

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花散歩 岐阜県100年公園を散歩  花しょうぶ園へ

2015年06月15日 22時54分38秒 | 花散歩

A井さんとO川さんは山友です。A井さんが体調を崩してからは一緒していません。
関市にある岐阜県100年公園。ここには色々な施設が有りますが、花菖蒲が時期を迎えていますので、二人に声を掛けて、行って来ました。
訪れたのは月曜で休園日でした。
誰も居ない園内です。


自転車用の道として整備された道。
花しょうぶ園に向かいます。



花しょうぶ園の下流の池です。
コウホネやスイレンが咲いています。



こちらは「半夏生」。
葉が白くなってきました。



花しょうぶ園へ来ました。



両側に花しょうぶが咲いています。



美を競う花しょうぶ。



後ろを振り返るとこんな感じです。



1本をクローズアップ。



全景はこんな感じです。
休園日で誰も居ません。



あじさいが彩を増してきました。


アンナ事。
A井さんとO川さんと一緒しました。二人とのスタートです。
それは97年6月のことでした。産業文化センターのサロンでA井さんとO川さんが山登りに行く相談をしていたのです。「何や~、アンタら山登りに行くンか~」「そんなら一ぺン一緒に行こか~」まるで岐阜弁丸出しのしゃべり方でありました。

私はそれまで、東海自然歩道を歩いたりしていましたが、山の経験は少ししかありませんでした。そして目的地として決定したのが滋賀県の霊仙山でした。その時O村さんも同席していたのですが、歩く距離が長いと言うことから辞退し、次回からの参加となりました。それ以降、E藤さんS藤さんA野さんK井さんらが加わり、月に一回程のペースで出かけました。
記録を見てみましたら、97年6月21日に霊仙山へ登っていました。それも柏原からのコースです。間も無く6月21日を迎えます。あの日、登ってから満18年を迎えます。

今から振り返ってみますと、その時の出会いが無かったら、山に登るようにはなっていなかったかもしれません。

これから
今回、体力の落ちたA井さんに声を掛けて実施の運びと成りました。手術をして体力の衰えはいがめないかも知れませんが、少しづつ体力を着けて、また一緒に山へ登れるようになればと思っています。

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南信州ドライブ  満州開拓平和記念館に行って来ました  そして木曽路へ

2015年06月14日 23時00分22秒 | お出かけ

長野県の南部。阿智村に満蒙開拓平和記念館が有ります。南信に満蒙開拓平和記念館が有る事をネットか何かで知ったのです。前々から行きたいと思っていました。それに、行ってみたいと思っていたのが木曽路の道の駅。木曽路の道の駅の朴葉巻きを買いに行きたかったのです。
初夏の時期になり、新緑です。朴葉の繫る時期と成り、朴葉巻きが店頭に並ぶ時期になりました。


まず最初に向かったのが、阿智村の満蒙開拓平和記念館です
満蒙開拓平和記念館の駐車場に来ました。



これから満蒙開拓平和記念館へ向かいます。



満蒙開拓平和記念館へ。



満蒙開拓平和記念館に入ります。



満蒙開拓平和記念館の正面入口です。
この先は撮影禁止と成っていましたので、撮影を控えました。



満州開拓に全国から送られて居ますが、この長野県が37,000人余りと全国で一番多い人数です。そして、長野県の中でも下伊那、飯田地方がダントツに多い数となっています。
国策として渡満が奨励され、敗戦を迎えて逃避行と収容所生活。苦しみ連続でした。

館に入ると職員の人が説明して廻り始めているときでした。
満州とは、今の中国東北部で、遼寧省、吉林省、黒龍江省、そして河北省の一部が旧満州です。長さ的には本州ほどの長さでスッポリと入ってしまう大きさです。戦前は拓務省と言う官庁があり、渡満を奨励していて、村へ補助金を出していました。
満州開拓に行くのに青少年がターゲットと成り、村から何人出せという締め付けも有ったそうです。小学校が6年でその後高等科が2年。そして16歳から19歳の若者が渡ったのだそうです。
800余りの開拓団が組織されました。満州では、6割が中国人が耕作していた土地だったそうです。そんな土地を安い金で買取入植しました。先に居た人を追い出してそこで営農を始めた。終戦後ソ連兵に攻め込まれ、言葉に出来ない苦労をして来ましたが、土地を占拠した加害者的な面も残ります。これも、全て、国の方針だったのでしょう。

北海道へ行った時、納沙布岬で北方4島の返還運動の取り組みを見ました。
今回の記念館と言い、何故もつと早く降伏しなかったのかと思います。ドイツが敗戦と成り、ヨーロッパ戦線のソ連兵が東に廻ってきました。3月に東京大空襲が有りました。戦艦大和の特攻。そして廣島と長崎の原爆。もっと早く降伏していればこのような悲劇は無かったと思います。



満蒙開拓平和記念館のパンフレットです。
2006年に飯田日中友好協会の記念館事業として採択と有ります。それまでも地道な活動が有ったのでしよう。一歩一歩の積み重ねで、2012年に建設に着手して2013年4月25日に開館の運びとなりました。そして、この4月19日には6万人の来館者に達したと有ります。
農業移民として27人もの人が「満州国」へ渡っていきました。開拓団を組織して行ったのですが、終戦の直前にソ連が参戦し荒野を逃げ惑う結果となりました。命からガラの逃避行。止むに止まれず子供たちを残してきました。その人たちが残留孤児です。終戦後、直ぐには帰国する事が出来ず、苦しい収容所生活を送りました。
このような歴史を後世に伝えるために記念館が設けられました。


満蒙開拓平和記念館のパンフレットで、館内の平面図を紹介しています。
当時の、時代背景。そして現地へ。敗戦と逃避行。引き上げと再出発と言う順序で説明しています。




映画。「望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」
山本慈昭さんを中心にして満蒙開拓団を取り上げた作品です。左側は館の入口のガラスに貼られていました。右は館に有ったパンフです。




館内の様子。
撮影禁止でしたが、許しを得て撮影させてもらいました。個人からお借りした写真などがあり、著作権の関係から撮影を禁止にしているのだと説明してくれました。



この部屋は体験した人が語るビデオが流れていました。
右に貼られているのは、来館者の感想です。来館した中国人が安倍首相が来て見よと書いて有りました。

戦中戦後の歴史。このように史実が有ったことを、もっと子供たちに教えて欲しいと思います。


満蒙開拓平和記念館
長野県下伊那郡阿智村駒場711番地10
0265-43-5580
http://www.manmoukinenkan.com/

是非、満蒙開拓平和記念館へ行かれる事をお勧めします。


十割そば

十割そばと言う暖簾が下がっていますが、店の名は「まみあな」狸穴と言うようです。
店内はスナックか喫茶店のような店構えでした。



ここから中へ入ります。
しっかりした木製のドアです。



左は私が注文した「地獄そば」カミさんは「ざるそばに五平餅」の付いたセットです。
紅葉オロシが乗っていて、地獄と言うだけ有って、辛いそばでした。
どちらのそばも普通より少し多めで量的に満足できました。
五平餅を少しかじらせて貰いましたが、香ばしいタレで美味しかったです。



この店に火野正平が訪れていました。
あの、自転車で来たのでしょうかね。

国道256号線

阿智村から次の目的地。大桑村を目指します。



国道256号線のロードサインが見えます。
坂道を登り高度が高くなってきました。
もうすぐ、清内路トンネルです。

国道を走っていて、何台かのバスとすれ違いました。
妻籠宿へ寄った帰りか、木曽谷から伊那谷に向かうルートと成っているのでしょう。

道の駅 大桑

道の駅 大桑の表には「朴葉祭り」の幟旗が立っています。



こちらが道の駅 大桑です。



木挽きの里へ向かいます。
逆になっていますが、「ほうば巻き」の旗が立っています。



木挽きの里の店内。

朴葉巻き
道の駅大桑の木挽きの里で朴葉巻を買いました。朴葉巻きは、つぶ餡やこし餡を米の粉をこねた皮で包み蒸し揚げた木曽地方独特の菓子です。木曽では端午の節句が月遅れ祝わわれ、柏餅の代わりとなる物のようです。味は柏餅に似ているのですが、甘すぎず、美味しくいただきました。
店の人によると、朴葉巻が店先に並ぶのは今頃の時期、1ヶ月間だけだそうです。時期を過ぎると葉がエグくなると言ってました。
6月になると、木曽地方の各地では朴葉まつりが開かれ、朴葉巻や朴葉寿司が顔を見せます。




郵パックのダンボール。
石川の孫宛に郵パックで朴葉巻きを送ります。



国道19号線。
上りの特急しなのが追い越していきます。


ちこり村へ

中津川市のちこり村へ来ました。



ちこり村に入ります。



店内ではちこりの試食をさせていました。



こちらのコーナーでは、自分で手に取って試食できました。



ちこりのショーケース。
1本180円と200円。小ぶりの5本入は400円でした。



ピリカラ麴。
ちこりの試食で着けて食べるようになっていました。
それで、買って来てしまいましたが、このサイズで500円は高い。
普通、スーパーに並んでいて500円だと躊躇してしまいますが、土産としての500円。財布のヒモが緩くなります。値段は高いのですが、チョッピリ、ピリッとしていて、ちこりに良く合いました。



ちこりの焼酎を醸造しています。
場内を見学できるようになっています。



焼酎のカメが並んでいます。



外に出てきました。



観光バスが4台も並んでいます。
時間的にはこれから自宅方面へ帰る時です。
バスが最後に立ち寄る場所かも知れません。


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花散歩 都会の公園  千種公園のユリ園

2015年06月13日 22時38分21秒 | 花散歩

名古屋市千種区の千種公園。
都会の中の公園です。
先日、NHKのローカルニュースで放映していまして、今日行って来ました。


街の中の一角の公園です。




ユリ園へ来ました。




ユリ園には沢山の人が訪れています。




カメラで写真に収める人。スケッチブックに描き止める人。
色々の人が居ました。




イエローウィンと言う種類です。




1輪だけのイエローウィン。
カミさんはこの色が好きだと言っていました。




こちらは家族ズレです。
ユリを手前に配置して家族写真を撮っていました。




レディラックと言う種類。
今割いている花の横には散ってしまった花の雌しべが残っています。
この用に咲いては散り、咲いては散りを繰り返します。
後、1週間くらいは見頃の時期だと思います。



入口に有った「痛みを共有し、継承を」の石碑。



「痛みを共有し、継承を」の碑をアップで。
平成26年11月に建立と有ります。
昨年2月に一宮友歩会でこの公園へ訪れましたが、その時はまだ、建立されていませんでした。


この千種公園に14年02月01日。
一宮友歩会の2月例会で訪ねました。
http://blog.goo.ne.jp/nkataoka1948/e/c8d5f8ddf73dee5ee8ec64c55df6eaad
その時に千種公園は旧陸軍造兵廠の跡だと知りました。都会の中にしては、まとまった大きな区画の公園です。
園内に爆撃に寄る痕跡が残るコンクリート塀が立っています。
空襲を受けたのも、丁度今から70年前の6月です。
いま、ユリが咲き乱れる花園になっていますが、この地で空襲があったことを知らなくてはならないし、忘れてはならないと思います。
はるばる名古屋まで行ってきましたが、色々のユリを愛でる事が出来ました。

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